W杯メンバー、発表されましたね。昨日の夜、そのニュースを見ていたら、アツト(内田篤人)が、「4年前に一緒に出られなかった人もいるんで、そういう人の思いも背負って。」というような話をしていました。僕はありがたい話だなと思うと同時に、4年前のW杯がアツトにとって大きな傷、痛みとして残っているのだと思いました。

アツトは、僕が3年目を迎えたシーズンの、2006年に鹿島に入ってきました。スピードと持久力があるのはすぐに分かりましたが、線は細く高卒でもあったため、数年後に出てきてくれればな、くらいな印象でした。

開幕の数週間前、僕は当時のアウトゥオリ監督に呼ばれ、「右サイドはウチダでいく。サポートしてやってくれ。」と言われました。僕は驚きとともにやりがいを感じました。完全にスイッチの入った僕は、まだ若かったこともあって随分厳しく当たった気がします。

僕の考えるポジショニングは僕1人で成り立つものではありません。特にDFラインの選手との関係は重要で、人間がプレーする限り盲点は必ずあるので、項目は多くはありませんが、「こうなったらこうする。」と決めていました。

開幕までの期間、今思えば僕は強く言い過ぎた気がしますが、アツトも苦しんでいました。しかし、開幕戦の広島戦でどんどん前に仕掛けて、PKまで誘発するのを後ろから見ながら、僕は少しにやけてしまったのを覚えています。

アツトには、僕の言葉を受け止めるところとうまく受け流すところのバランスを取れる頭の良さがありました。自分のことをよく分かってるんだろうと思います。

2年目、2007年には僕の要求をほぼ完璧にこなしていました。僕があそこまで多くを要求し、プレーを共有した選手はいません。その年、一緒に優勝を成し遂げ、アツトはすぐに日本代表デビューを飾り、代表でも定位置をつかみました。僕は、試合中の駆け上がる姿のように、どんどん僕の元から飛び出していくのを見て、嬉しさとちょっとの悔しさがありました。

アツトはこの世界を自分の足で歩くことをどんどん覚えて、僕は兄のような気分でアツトを見守るようになりました。

代表との掛け持ちで体調を壊しながら隣でプレーする姿を見ながら、厳しく言うべきかいつも逡巡していました。鹿島を出て行くことを決めたときもありきたりな言葉しかかけられませんでした。前回のW杯で一緒にずっと試合に出られず、苦しさを共有しているときも、ギリギリで選ばれた僕と違い、ずっと主力でがんばってきたアツトにどんな言葉をかけてやればいいか分かりませんでした。

だから、僕はアツトの鹿島での最後の試合の後、ちょっと照れ臭かったけど、ロッカールームで頼んで最後のユニフォームをもらいました。そして、ドイツに旅立つアツトにメールをしました。次の年、アツトはシャルケのユニフォームを持って帰り、照れ臭そうに僕にくれました。

僕はアツトがこれからどんな男になるかを楽しみにしています。

そして、今大会のアツトの「No Pain No Gain」を応援しています。