常日頃「仏教の原点に戻る」と法話をしているが、現実はそう甘くない。
なぜなら「仏教の原点」になると、偶像崇拝や今のような葬儀や法事はありえない。
もちろん墓や納骨堂も無用。
寺に生まれ育った私はその狭間で思い悩む。
極端から極端では反発が大きすぎる。
徐々に変更するには、先ずは意識改革からだと自身悟る。
法話では『葬儀は、しないならしないでもいいのです』
葬儀をしないと地獄に落ちるとは更々思わない。
先日「私の葬儀のときは戒名はいりません。俗名ではいけませんか?」という方がいた。
『俗名でもいいのです。あの世の行き先は、生前の行い如何によって異なります』
戒名は長かろうが短かろうが無かろうが関係ない。
それにもう一つ。
世間を知らない非常識な坊主に対して、私は時々「喝」を入れることがある。
この行為を「他寺を批判している」と受け止める人もいた。
間違った行為を注意するのは当然ではないか。
多くの方たちが当寺に相談に来られ、世話になっている菩提寺を嘆くのをみて私の心は痛む。