詳細図説 信長記 (中経出版)
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豊富な史料を駆使して描き出した織田信長の四十九年の詳細な全生涯!
関連図版と共にたどる信長の軌跡。
信長を知るために必要な事項を取り上げて重点的に解説する。
全ての事項に出典を明記し、信憑性の高い記述と豊富な図版で初心者にもわかりやすく伝える一冊。
本書、詳しすぎて(みやちゃんにとって)いらない情報が多すぎた。
読み始めて15分でかなり苦痛になってきて、途中で読むのが嫌になってしまった。
とういことでナナメ読みして25分くらいで本書を閉じたのでした。
さて、ざっとナナメ読みしてもそれなりに知りたいポイントは押さえらえるもので、以下にメモしておこうと思います。
以前、 イタリア人の宣教師のヴァリニャーノが信長に黒人奴隷を献上したというエピソードを紹介したことがあります。
そう、弥助(日本名)です。
信長は始め、肌の黒い人間という存在があることを信じられなくて家臣に体を洗わせ、汚れが落ちて黒光りした肌を見てようやく納得したのでした。
奴隷という概念のない日本、弥助は「奴隷」としてではなく信長によって「家臣」に取り立てます。
本能寺の変の時には、弥助は十人力の活躍をしました。
しかし、奮闘空しく信長は自害。
明智光秀は弥助の命まではとらなかったものの、その後は行方不明となっています。
弥助の他には、信長はルイス・フロイスから「目覚まし時計」を贈られています。
もちろん当時の日本には目覚まし時計などはなく、信長は喜んでその扱い方を教わったが理解できず、「構造が複雑すぎて自分のところでは動かし続けられないからお返しする」といって返したのだそう。
しかし、オルガンチノが持ってきた地球儀については、それを使ってヨーロッパから日本までの船の行程を説明され、さらに「地球は丸い」ということを知ると、「理にかなう」と即座に理解したという。
(三宝寺所蔵の、信長を描いた肖像画とされるものを写した写真 )
信長は人心収攬(しゅうらん)に長けていたそうで、城を移した時のエピソードが紹介されています。
信長は家臣の主だった者を引き連れて、二の山という犬山の奥の方の山に登って「清州からここに城を移したい」「誰それはあのあたりに屋敷を」「誰それはあのあたり」と住むところを指定します。
家臣たちは口にこそ出さなかったが、清州という尾張平野の中枢部から山奥に城を移すことに不満をもっていたのだそう。
しかし、美濃の齋藤攻めには欠かせない拠点のため「止むをえまい」という気持ちでした。
ところが数日後、信長は「二の宮はやめて、小牧山に城を築くことにした」と家臣たちに言います。
小牧山は二の宮に比べるとはるかに清州に近く、平野の城で便利なので、家臣たちは喜んで小牧山への移城に賛成しました。
信長は、近代の営業テクニックである「ドア・イン・ザ・フェイス」という、 まずわざと大きな頼みごとをして一度断らせてから、本来の目的の小さな頼みごとを承諾してもらうテクニックを使っていたのです。
ビックリですね!
では、今日の〝ちょいよしワード〟です。
いつの時代も変わり者が世の中を変える。異端者を受け入れる器量が武将には必要である