犯罪大国からこんにちわ。

犯罪大国からこんにちわ。

犯罪学、犯罪心理学とを学ぶため、犯罪大国アメリカに渡り、日本に戻って社会学の中に無理やりねじ込んで防犯を社会学的に研究している、しがない院生のページ。

留学こぼれ話や犯罪がらみのコメントに絞ろうと思っています。

ヨロシクです。

 
Amebaでブログを始めよう!
一先ず、ソフトボール金メダルおめでとうございます!!!

いやぁ、すごかったですね!アメリカ、オーストラリアとの死闘二連戦の翌日にアメリカと再戦!そして勝利!!

私は二階で持ち帰りの仕事を片してたんですが、母親の雄叫びで一階までかけおりて、そこで家族全員で万歳ですよ!!


次のロンドンからなくなるということで最初で最後の金メダルですね。
アメリカとしては悔しいでしょうね~。予選でも準決勝でもくだした相手に決勝で…。
今まですべて金だったのに最後が銀なんて…。



それにしても上野選手ですよ!
すごいの一言ですね!
二日間で三戦、そして投げた球は400球以上!
サ○デー○ーニング風に言うとあっぱれですね!


これを励みに星野ジャパンにも頑張ってほしい!
子供の頃、食べられなかったけど、今食べられるものは? ブログネタ:子供の頃、食べられなかったけど、今食べられるものは? 参加中
おばあちゃんっ子なので好き嫌いは親より少ないですが、それでも嫌いなものはやっぱりあります。

その中でも克服できたのはブロッコリー!!!


昔は口の中に残る粒々感がいやでいやで…。
留学中のホームステイ先でもやっぱりその家の子供がブロッコリー嫌いで、好きなマッシュポテトに混ぜて食べさせるためにつぶれるくらいまで柔らかくスチームしたのが出てきたのですよ。



なんとそれなら食べれたのです!



気付いたら普通に茹でただけのものでもバリバリ食べれるようになってました!(笑)


あと克服できたのはハーブ系かな?匂いきついのダメだったんだけど、今は食べたいとは思わないしあまり好きじゃないけど食べようと思えば食べれるかな?
シソとかね。













因みに納豆だけは未だに天敵です…(-_-;)
「誰でも良かった」で殺されたくない! ブログネタ:「誰でも良かった」で殺されたくない! 参加中
本文はここから


本当に最近増えてますね。
こういう事件が報道されると、本当にいつどこで何が起こるか分からないと考えてしまいます。
今は日本に帰国した私ですが、日本でも結局アメリカにいる時と同じくらい用心深くなっている自分がいて、犯罪学を志す者としてはどうにかしなくてはと考える毎日です。



確かに今の日本は生きにくいところだと思います。
景気悪化による職の少なさ、その職を争って勝つのは高学歴の人間と給料が安くつく外国人。
そこに女性も参戦してきて、かつての日本を支えた職業体系が大きく崩れ去ってしまいました。
不景気なのは仕方ないし、劣悪な環境の中で働きわずかな給料で家族を養っている外国人のひとや、女性の就職率の上昇は決して悪いことではありません。ですがそのしわ寄せが問題化し始めているのも事実です。

ただ「だれでもよかった」という考え方は、たとえ原因が前述の社会的な問題にあったとしても、許されるものではありません。これはもう自己中心的考えというものを超えていると思います。



彼らの考えを分析しようとしたとき、これらの犯罪者を二つに分類してみることができるのではないかと思いました。
それは、「だれでもよかった」の次にくる言葉にはだいたい2種類あって、「誰かを困らせたい」「新聞に載りたい」など自分の意思を表現もしくは見せつけるために行ったという人と、「刑務所に入りたい」「死刑になれると思った」など自己破滅のための道具として殺傷事件を起こしたという人に分かれるというものです。

両者とも人の命というものは一度なくすともう元に戻らないものであるという認識がないことや、それを軽く見ていること、自己中心的な考えであることなど共通点は見られますが、事件によって得ようとしているものが違うように思えます。

ここではどちらがましだとか、そういう議論をするつもりはありません。どちらも犯罪には変わりないですし、どんな苦境にあったとしてもその鬱憤を見ず知らずで無関係な他人に攻撃するという形で表すのは、「一般的な常識」からは考えられないことです。

ただ私が注目したいのは、刑務所だとか死刑になると発言している後者の犯罪者は、まだ前者の自己主張型(と勝手に呼ぶことにします)より人を傷つけること殺すことの重大性を、たとえ法律がそう決めているからという無機質的な考えだったとしても、まだ認識していると考えられます。

私はそこまで詳しく前者の自己主張型犯の経歴を調べたわけでも、直接会って話を聞いたわけでもないので、彼らがどこまで彼らの行動が犯罪であるという「犯罪性」を認識し、後者の犯罪者とどういった点で違う考え方、認識を持っているのかはこれ以上はわかりません。
ただ前者の犯人たちは、自分以外の他人を認識できていない、精神が未発達で幼稚な人間であるように見えます。詳しく心理学を学んだわけではないのでうまく書けないのですが・・・。


こういった精神を育てる情操教育は、家庭はもちろん学校で集団活動を学んだり、メディアで知識に触れたりすることで育つものです。それによって他人を思いやったり、キャラクターに感情移入することによってRPGを正しくプレイしたり(ゲームすべてが子供の教育に悪影響なのではないのです!)といった能力が開花していくのです。





こういった無差別犯罪が増加している(ようにメディアからは見受けられますが、統計などを見て確認したわけではありません)背景には、こういった精神が未熟なまま社会に出た身体のみ成人の人が、前述の社会的困難な時代のしわ寄せを受けたではないかと思います。

こういった背景を考えると問題解決には、私が現在いる社会学の分野や犯罪学のみならず、教育分野や政策による人の意識改革、社会制度改革、景気対策など、多方面からのアプローチが必要だと実感します。


できることからコツコツと・・・。
私は私の問題意識と研究がいつかこういった問題解決の一助につながると信じて、取りあえず今取り組んでるレポートをがんばることにします。

社会の分業化が進みすぎたために、人々は自分の役割分担以外の責務は負わないようになった。その為、例えば防犯に関しては、すべて警察がすべきことと思われている。近年になって社会不安と警察に対する不信が高くなってきているのは、警察の不祥事発覚や検挙率低下などの報道だけが原因ではなく、警察にまかせきりで大丈夫という分業的考えが隅々まで染み込んだ世代が大半を占めるようになったことと、時を同じくして犯罪率上昇や凶悪化といった報道の加熱が合致し、相乗効果を産み出した為、予想を上回る範囲で拡大・持続されそれが定着した為だと考えられる。

 

この過度の分業化による弊害は多岐にわたることは明らかで、教育分野の例では、子供の子育てに関して家庭で行われるべきなのは子供を育てるために必要な金銭を稼ぐ親と、世話をする親だけで、世話といっても生理的・身体的世話がメインとなり、道徳的・社会的教育を含む精神的世話は教育分野の責務であると考える保護者が増えてきているのではないだろうか?またこういった考えを持つ親は、平行して子供の学力と子供の情操発達の関連性を理解してない場合が多く、それ故教育機関に対する大きすぎる期待(この期待とはポジティブなものではなく、最低限なされるべきであるというネガティブな期待)を抱くため教育機関に対する批判も大きくなると考えられる(最近問題化しているモンスターペアレントなど)。

 

調べてみないとわからないが、戦後すぐから昭和にかけてなどの一昔前と言われる時代には、人々はまだ社会的に分化されきっておらず、どこかしら「自分のことは何事も自分でしなくてはならない」という考えを持っていたのではないだろうか?特に戦後から十数年などは戦後の混乱がまだ収まりきっておらず、不完全な政府、政策、社会規制など全てを信用して他人任せにできる時代ではなかっただろう。だからこそ犯罪が横行しようといかに猟奇的な犯罪が増えようと、社会的不安や警察不信が表立って現れる、または取りざたされることがなかったのではないだろうか?

 

こういった議論はいろいろな分野で行われているが、その中で地域力強化といってかつての隣組の復活や監視社会へのシフトを推す意見も耳にする。しかし近代化、国際化が進んだ現在の日本では、その両方は結局保守的イデオロギーにすぎず、真の解決策ではないように思う。

じゃあ何が解決策なんだといわれると、「今考えているところです!」と答えるしかないのだけれど・・・。

 

久しぶりに書いたら、かなり堅くなってしまった><;

絵も綺麗だし、何よりOPが良い!!
最近のアニメはカッコイイ歌が多くて嬉しい限りです!
ツバサの曲も名曲が多かったけど、これ↓は一押しですね。

荒野流転 byFictionJunction YUUKA (梶浦由記)

月影凍る大地を転がり踏み分けていく
滅びと再生の時代が始まる

自由を重く掲げて道なき道を選んで
真昼より眩しい日没を越えて

夢を語るように時の船は行く
その闇路の向こうに新しい夜明け

僕らはきっと暗闇の腕から生まれてきた
叶わぬ恋をするように光へと彷徨ってく
どこまでも果てしのないこの道を変える術はない


生き抜くことに戸惑い 死に行くことに怯えて
僕らの呼吸には悲しみが宿る

叫びは孤独に失せて涙の雫を啜り
誰もが独りきり荒野を流離う

あれは月の夢か 白く光る華
被る丘の彼方からきらめきゆらめく

胸に響く悠久の音楽に耳を澄ませ
風に惑う砂のように刹那へと消え失せても
どこまでも果てしないこの道を荒野の向こうへ

あれは月の夢か

僕らはきっと暗闇の腕から生まれてきた
叶わぬ恋をするように光へと誘われて
どこまでも果てしのないこの道を変える術はない
彼方へ
さっきちょこっと検索かけてみましたが、映画化されてから一気に関連記事が増えましたね。


私は映画は見ていませんが、小説の方は読みました。


元になった実際に事件の方に興味があったので、他にも「切断」も読もうと思ったのですが、本屋さんに取り寄せ出来ないと言われてしまいましたToT


ハリウッド・バビロンも復刊待ちですし・・・・・。


最近読みたい本が絶版になってることが多くて、悲しいです。





さて、「ブラックダリア」なんですが、この小説だけや映画だけ見た人は、ドコまでが事実でドコからがフィクションなのか解らないほど巧みに出来ています。


ただ小説の感想としては、ブラックダリア事件は根底にありますが、他にも事件が絡んだりしていて、一番のテーマはブラックダリア事件に翻弄される人間模様な気がしました。


ブラックダリア事件そのものに興味があった私としましては、そこがちょっと期待はずれではあったのですが、それでもすばらしい作品だと思いました。





このブラックダリア事件、実際は解決寸前(?)の未解決となっているようです(「切断」の方に詳しく書いてあるようなのですが、入手できていないため実際に読んだわけではなく、ネットの「切断」のリビューを見ました)。


「切断」によると、容疑者と思しき男は居たようなのですが、確認前に男が死亡してしまったため(事故、寝タバコによる焼死だそうです)、結局は迷宮入りとなったようです。


それが小説では「なぜ事件は迷宮入りになったのか」がもっとドラマティックに描かれており、とても楽しく拝読しました。


ただその結末のための複雑過ぎる複線のために、映画のほうは少し内容が解り辛くなって居るようですが・・・・。





小説の方はこれから読まれる方のためにネタバレをさけてこのくらいにしておきます。


事件そのものの方ですが、一応ご存じない方のために概要を書き記しておきます。





○ 1947年1月15日、ロス市内の空き地で女性の全裸死体が発見された。死体は腰の辺りで真っ二つにされており、多数の拷問の後が見受けられた。特に目立つのが、「口裂け女」のごとく耳まで裂かれた口と、切り取られた太もも。全身の血は綺麗に抜かれ、死体は洗浄されていた。被害者の名前はエリザベス・ショート、22歳。ボストン生まれで、映画女優を夢見てハリウッドに出てきたが挫折。娼婦まがいの生活をしていたらしい。漆黒の髪を持ち、黒い洋服を好んで着ていたことから、彼女は「ブラックダリア」と呼ばれた。死体発見から一週間後、ショートが最後に目撃されたビルティモア・ホテルの傍のポストで、新聞社宛の怪しい小包が回収された。中には「ダリアの所持品」と称されてページが所々破かれたアドレス帳、出生証明書、名刺、写真などが入っていたが、ガソリンに浸されて指紋は回収不可能になっていた。最重要容疑者として名前が挙がったのはジャック・アンダー・ウィルソンという男だったが、取調べ目前に寝タバコの火の不始末で焼死。未だに事件は未解決となっている。


(情報源:”殺人博物館”


”crisscross”内book review








私個人としては、死体を洗って綺麗にしたりわざわざガソリンに浸して証拠品を送りつけてくるような犯人が、寝タバコの不始末で焼死とかちょっとありえないような気もするんですが・・・・。


「切断」の著者の父は、ロサンゼルス市警勤務だったようなので、本の内容は仔細で信憑性も高いと思われるのでかなり手に入れたいのですが、見つからず無念です・・・・・。






「コードギアス-反逆のルルーシュ-」というアニメのエンディングなんですが、なんだかつぼにはまったためiPodに落として連続再生中。
頑張って歌詞を耳コピして見ました~。
耳コピなんでところどころ怪しいですが、なんか良いですよ。


勇侠青春謳 byALI Project

行けども獣道 獅子よ虎よと吼え
茜さす空の 彼方にまほろば
幽囚の孤独に 彷徨う青春
弱さと怒りが 姿なき敵ですか
父よ未だ我は 己を知り難し

先立つ兄らの 見えない背中を追えば
迷いの一夜に 明星は誘う
死して終わらぬ 夢焦がれども
確かな君こそ 我が命

烈風の荒野で 蝶よ花よと生き
永久の春に 咲き添う幻
混濁の純潔 この身は汚れても
心の錦を信じていてください
母よ決して我は 涙を見せれども

足元の草に 露は消えうせて


最後の方なんかかなり怪しいですが;
取り合えず福山さんの悪どい声が良い感じでした。

てかこの記事書くためにブログのテーマ増やしちゃったよ;



期末が終わってすぐに、友達と二人でサンフランシスコへ行ってまいりました。


行こうぜ!と言った次の日に、勢いで出発したので、かなり行き当たりばったりな旅でしたが、その割には充実していて楽しい旅でした。


情報提供がこのブログの目的なので、細かい個人的内容は省き気味にして、名所の諸情報をつらつらと書きます。



ロス方面からの交通は二通りあります。内陸を通る道と海岸沿いを通る道です。


内陸の道(フリーウェイ5番)は、まっすぐだからスピードが出せる上最短距離を突き抜けているので、平均5時間くらいでロサンゼルスからサンフランシスコへ行くことが可能です。


その代わり景色は単調で、畑やら牧場やらもありますが、たいてい何もない荒野をひたすら走ることになります。


海岸沿いの道(パシフィックコーストハイウェイ、通称PCH)はやはり景色がきれいで、特にサンフランシスコに近いあたりは州立公園になっているので、道沿いに写真撮影用の停車スペースが設けてあります。


ですが道自体は坂が多いしクネクネ曲がっているので、スピードは出せない上回り道なのですごく時間をくってしまいます。今回初めてこの道を通ったのですが、渋滞も含めると10時間近くかかってしまいました。


それと内陸の道のように通行の便があまり良くなく、ガソリンスタンドが少ないし、ガスの値段も高いです。


アップダウンが激しいのでガスの減りも早いですから、こまめに気にして早めにガスを入れないと大変なことになってしまいます。



サンフランシスコ市内の観光名所といえば、


①ゴールデンゲートブリッジ


②アルカトラズ


③フィッシャーマンズワーフ


④ユニオンスクエア


⑤チャイナタウン


以上が有名どころです。


今回の旅行で自分も初めて行った、ちょっとマイナーな観光名所をもうひとつ。


⑥アラモスクエア


では、ひとつずつ順に説明していきます。



壱:ゴールデンゲートブリッジ


これは市内から見ると北西の方角にあるのですが、車じゃないなら、バスを乗り継いで行くしか方法はありません。


渡ることも出来ますが、渡らずとも市内側できれいに写真を取れるポイントがありますので、そちらで十分と思われます。


ちなみに歩いて渡るのはタダだそうで。



弐:アルカトラズ


フィッシャーマンズワーフのそばにあるピア39番から、アルカトラズ行きの船に乗れます。


1マイル(1.6キロ)ほどですので、ゆっくりでも10分程度のクルージングです。


3階建ての船なので、一番上のデッキでは、アルカトラズやゴールデンゲートブリッジ、サンフランシスコ市内を背景に記念撮影が可能です。


風が強く波も荒いので、船酔いしやすい方はご注意を。


刑務所内ではオーディオツアーがあって、たいていの人はオーディオで説明を聞きながら歩き回っています。


ちなみにこのオーディオツアー、アルカトラズ行きの船のチケットを買う際にセットで購入しないといけません。



参:フィッシャーマンズワーフ


市内の北側の海沿いにある、結構ごちゃごちゃした場所です。


お土産物屋やレストランが立ち並んでいて、結構遅くまで人がうろうろしています。


レストランはどの店も必ず道沿いに屋台を出しており、そこでクラムチャウダーやクラブサンド、フリッターなどのシーフードを味わえます。



四:ユニオンスクエア


市内のほぼ中心となっているのがこのユニオンスクエアです。


ケーブルカーの発着所などからも歩いて来れる場所です。


ここに来る目的は買い物以外ありません。


有名ブランド店から大型デパートまで、買い物好きな人ならここで一日つぶせるでしょう。


ショッピング用の店だけでなくカフェやレストランもちゃんとありますので、ご飯にも困りませんw



伍:チャイナタウン


市内から見て東側に位置するチャイナタウン、海からは少し離れています。


とりあえず坂がすごいです。サンフランシスコは比較的坂が多い地域ですが、チャイナタウンに向かうあたりは特にすごい急勾配の坂が多いです。


あと人も物もごちゃごちゃすごいことになってます。


個人的にこのごちゃごちゃした感じはものすごく好きなのですが、少しメインの道から外れると寂れた危なそうな道に出ますので、気をつけないといけません。


飲茶などおいしい店もありますが、高いだけでまずい店もありますので、チャイナタウンでの食事は事前にリサーチが必要でしょう。


チャイナタウンでのお土産品などの買い物は、安く手に入るので、かなりお勧めです。



六:アラモスクエア


これだけ書くと「どこだ?聞いたことないぞ?」と思われるでしょう。


何を隠そうこのアラモスクエア、かの有名コメディ”フルハウス”の撮影に実際に使われた、可愛いドールハウスがある場所なのです。


アラモスクエア自体は公園の名前で、ドールハウスの群れはアラモスクエアの西側に並んでいます。


公園の芝生の上でゆったりしながら写真を取っている人を多く見かけました。


アラモスクエアは市内から少し離れた、ゴールデンゲートブリッジの南の方(ゴールデンゲートブリッジのすぐ南にあるゴールデンゲートパークのさらに南)にあります。


地元の人でも詳しい場所を知らなかったりしますので、行って写真でも取れば、結構自慢になると思われます。



他にもサンフランシスコの名物、グィラデリのチョコレート工場直営店や、山の上からサンフランシスコを一望できるツインピークスなども、観光名所として有名です。


サンフランシスコは海辺の町で、風が強く冷たい地域です。日差しが強くてもあまり暑く感じませんし、日陰に入ると寒いくらいですので、日中でも上着は常に持ち歩いたほうが良いでしょう。

前の記事のことを踏まえて、これから少年犯罪を理解し、解決策を考えるには、少年法を正しく理解することは必要不可欠だ。

だがその前に、法律、とくに犯罪に関わる刑法とは?刑罰とは何ぞや?という基本的なところから始めたいと思う。

これらを正しく理解すれば、それを踏まえた上で少年法をどう扱うべきなのかが見えてくると思うからだ。





刑法とは、名前の通り、犯罪を犯したものに対する刑罰を定めた法律であり、犯罪の種類やそれらそれぞれに対応する刑罰について規制している文章のことだ。

少年法と刑法の違いは後で述べるとする。





では、刑罰とは何か?

悪いことをしたら捕まって、裁かれて、罰を受ける。

では何のために罰されるのか?





○応報刑主義と目的刑主義

刑罰には二つの種類、もしくは主義がある。

ひとつは応報刑主義(Retributivism)と目的刑主義(Utilitarianism)の二つだ。

字を見てもらえれば解ると思うが、応報刑主義(カント主義とも言われる)は、「刑罰は法に触れたものは全て等しく平等に受けるべきものである」といったものだ。

要は、悪いことをしたなら罰を受けて当然、という考え方だ。

目的刑主義は、「人を罰することはよくないことだ。だがしかし、それによって世の中がよくなるのであればそれもやむを得ない」という考え方だ。



この二つの主義には、注目すべき相違点が二つある。

ひとつは刑罰の是非。

応用系主義は、刑罰を認めている、人が人を罰することを認めているのに対し、目的刑主義は刑罰を否定している。刑罰は行われるべきものではないという主張だ。

二つ目は目的。

応報刑主義は刑罰を与えることのみを目的としている。だからその先にある刑罰による影響などは、特に気にしない。反対に目的刑主義は、世の中が良くなるということが全てであり、本当は刑罰などは行使したくないが世の中のために仕方なく使うというものだ。



以上の点を踏まえた上で、以下の話を呼んで考えて欲しい。





○最後の殺人者 (byカント)

あるところに、イースター島なんて目じゃないくらい陸地から離れた孤島があった。

そこの島民は三日後に遠く離れた大陸へ、いっせいに民族大移動をすることを決定した。

そこで、ひとつ問題が浮上した。

そこの島にはひとつだけ刑務所があり、そこで死刑を宣告された殺人犯が一人だけ刑の執行を待っていたのだ。

三日後には島民は全て居なくなり、放っておいてもその島は殺人犯しか居ない無人島となってしまう。

いかに頑張ろうとも、殺人犯一人でその島を出て、大陸へたどり着くことは不可能(という設定で)。

つまり、このまま死刑にしなくても、この殺人犯にこれ以上殺人を犯すことは不可能なのだ。

では、問題。

あなたはこの殺人犯を死刑にするべきだと思いますか?放っておくべきだと思いますか?



応報刑主義者は死刑にするべきだと答える。

刑罰を受けることは当然のことなのだから、それ以上殺人が出来ようが関係ない。

刑は執行されるべきである、という考えだ。



逆に放っておくべきと答えるのが目的刑主義だ。

目的刑主義は社会のメリットを一番に考えるから、これ以上社会を脅かすことのない殺人者をわざわざ死刑にするようなことはしない。



あなたはどちらですか?





○落とし穴

ここでどちらが正しいかと述べることは不可能だ。

物事の正誤なんてものは、結局個人個人の価値観によるところが大きいのだから、私が正しいと思ってもそれを間違っていると思う人もたくさん居るだろう。

だからここでは、考えて自分の意見を持ってもらうための手助けとして、両方の考え方の落とし穴を紹介する。

その上でどちらの方が自分にはいいと思えるか。

どちらか一方を指示しなくても、こちらの主義のこの考え方は使える、などと思ってもらえればいいと思う。



応報刑主義などとカッコイイ名前はついているが、要はハンムラビ法典と同じことだ。

「目には目を、歯に歯を」

では命には何を差し出せばいいのか?

命を差し出せというのなら、殺人犯は全て死刑になるしかない。

まぁ一人しか殺していないなら計算も合うが、何人も殺した殺人犯の場合はどうするのか?

私の母親はかなり面白い(一応親なので阿呆とは言わないでおく)考え方をする人なので、昔にテレビで裁判のニュースを見ながらこういっていたことがある。

「半殺し×殺した人の人数×2っていう刑にしたらどうよ?」と・・・。

究極の応報刑とはこれのこと。

やられたらやり返す。

ただこういった残虐な刑罰は憲法で禁じられており、実現することは不可能だ。

応報刑の落とし穴とは、命などの価値の測りにくいものを奪った場合の代償を決めることがほとんど不可能な点、現時点で応報刑のみで刑罰を決めてしまうと実現できないような残虐な刑罰に発展してしまう恐れがある点、以上二つだ。



目的刑主義は、今ほとんどの国で使われている。

日本の刑罰の仕方を見ても良く解ると思う。

少年法などはそれの最たるものだ。

これにももちろん落とし穴はある。

それは、社会の利益を目的としすぎるため、個人にまで手が行き届かないという点だ。

うわべだけで見れば目的刑主義は血なまぐさくもなく、大人びた、現代の風潮に合ったいい考え方に見えるかもしれない。

だがよくよく考えてみると、この「社会の利益」の裏側にはとても恐ろしい落とし穴が開いている。

ぶっちゃけた話、この考え方は、冤罪を許可してしまっている言っても過言ではない。

もちろん目的刑主義を唱える人が、冤罪を許可しているとは言わないが。



解りやすくたとえ話にしてみよう。

今刑務所に100人の死刑囚が居たとしよう。

いかに日本警察が頑張っても、冤罪が起こる確率は決して0%にはならない。

適当に100人中1人が冤罪の可能性がある、というふうに仮定しよう。

目的刑主義なら、99人の死刑囚の死刑執行を、たった一人の冤罪かも知れない死刑囚のために止めるだろうか?

答えは否だ。

「社会の利益のためなら、少しの犠牲(刑罰)くらいしかたない」

という考え方が、目的刑主義の考え方なのだから。





上の二つの主義を踏まえたうえで・・・。

今の日本はどうなのか?

他の国はどうなのか?

あなたの意見は?

これからの日本はどうすべきなのか?

死刑廃止やら、終身刑導入やら、色々法改正に対する意見が飛び交ってる中で、考えて自分なりの答えを出していただければ本望なり。
アメリカでは日本と同じように、犯罪を犯した未成年者達は少年法という法律で守られ、使用する裁判所も専用のJuvenile Hallを、収容されるのも専用の鑑別所がある。なぜなら、未成年者は大人と違いまだ未完成なので、大人と同じように裁いては不公平だからだ。



ところが最近、あまりの未成年者による凶悪犯罪のニュースで、アメリカの世論が変わってきている。







「未成年も大人と同じ権利を有しているならなら大人と同じように裁かれるべきで、重犯を犯したなら刑務所に入れるべきだ」と・・・。



確かに一理あるともいえる。

アメリカだけでなく、日本でも未成年による衝撃的な事件が目立つようになってきているのも事実。

そういった事件を目の当たりにすれば、「いくら未成年でも重い刑を受けて然るべき」という意見も出てきて当然だろう。

だがそれでは何のために少年法は存在するのだろうか?







未成年が成年者と同じように扱うのが難しい理由は複数ある。

たとえば「非行」。

大人や成年者には非行といわれる行為は適用されない。

中学生が学校をサボるのは問題だが、大人が会社をサボるのは問題ではない。本人が職を失うだけの話なわけで。

非行という行為は、「これから犯罪に走ってしまうかもしれない」という一種の目安のようなもので、少年法は未成年犯罪者を裁くだけでなく、未成年の犯罪の予防や更生をも担っているのだ。

(少年法自体については、後日に深く語ってみようと思う)







大人が入る刑務所と、未成年者が入る少年院の大きな違いは、中で行われている「教育」にあると思う。

それがちゃんと機能しているかどうかは置いておいて、少年院は犯罪者もしくは犯罪者の種としてやってきた未成年者を、これ以上犯罪を犯さないよう、犯罪者にならないよう教育しているわけだ。

ところが刑務所にはそれがない。

重犯罪を犯したからといって、未成年者を刑務所へ入れるということは、本当にいいことなのだろうか?







まず、少年院で行われる教育(その是非はとりあえず無視する)が、刑務所では受けられないという点。

未成年者は刑期を終えてから出所してくる確率が、大人の受刑者より多い。つまり社会復帰が重要な過大なわけだ。

だからこその教育なのであって、いくら重い刑だからといって刑務所に入れてしまうのは、+にはならないんじゃないだろうか?







次に所内の環境の違いだ。

私が見たビデオなどの資料は全てアメリカのものなので、日本の少年院や刑務所の様子とは少し違うかもしれないが、そこのとこは大目に見て欲しい。

ビデオの中で、ある女受刑者がこういっていた。



「ここ(刑務所)に来るまで、私はドラッグもやらなかったしレズでもなかった。ここに来てから私はそういうものを学んだ」



同じような年代の非行者たちが集まる少年院と、本物(と言っては語弊があるかもしれないが)の犯罪者に囲まれて生活する刑務所。

どちらの方が未成年者に悪影響を与えやすいかは、書く必要もないくらいに明らかだろう。







「刑務所に入れられる」ということは、多くのみ成年者に対して犯罪を抑制する脅しにはなるだろう。

だが、実際にそれを行って、未成年者の、地域の、強いては国のためになるのかと問われれば、否と答えるほかないように思う。



未成年者を刑務所で服役させることは、未成年者の更生や犯罪率減少たいした影響はないと思われる。