欧州経済をみながら色々と考えてみた
世界はますます複雑化して、混沌としている。ジョージ・オーウェルは、著書「1984」の中で、ビッグ・ブラザーの世界を描き、全体主義国家における世界観を鮮やかな筆致で表現した。国民にとってビッグ・ブラザーとは、独裁者であり、民主化に舵をきるために、打ち砕かねばならない存在であった。人々は恵まれない現状を打破するために西側諸国に憧れ、資本主義体制確立に向けて突き進んだ。ある意味ではこの行動は正しく、一部の者を救い出したことは間違いないだろう。しかし「アラブの春」に見るように、近年の民主化運動では、独裁者を打倒したあとに民衆がみたものは、さらなる混沌という悲しき現実であった。現代は権力構造が複雑になっており、一人の人間が権力の全てを掌握し、その個人を打ち倒すことで、その権力から解放されるといったようなシンプルな世界ではなくなっていたのだろう。そしてこれほどまでに民主化運動が拡大したのは、ネットワークが世界に張り巡らされ、パソコン一つで誰でも容易に世界にアクセスできるようになったことにより、独裁者が情報をコントロールし続けることが難しくなってきたからかもしれない。また現代は無数の小さな権力がそこかしこに存在し、政治・経済をはじめとして、あらゆる分野でグローバル化が進んでいることが理由としてあげられるだろう。
経済のグローバル化は、確かに人々の生活水準を向上させ、様々な問題を解決に導いたけれども、一方で先進諸国における簡易的な職務は高度化したシステムに奪われ、他国の低賃金の人々に移譲された。
英国でEU離脱が起きたことは、多くの人々に衝撃を与えたけれど、世界中に蔓延した職を失うかもしれないという不安が噴出しただけかもしれない。英国政府は貧困層の社会保障給付を減額する一方で、すでに十分に低い法人税減税に着手しようとしていた。これではブルーカラーの有権者からの支持を得られようはずはない。さらに移民問題が根強い欧州において、パリのテロ事件なども根底にあるのだろうけれど、英国民のグローバル経済に対する不安が大きく影響しているのだろう。生産性の向上による経済活動の活性化よりも、競争力を失ってでもローカリゼーションに向かおうとする強い意思がそこには見える。資本主義の世界は良くも、悪くも、低コストで商品・サービスを提供できる「場所」を求め続ける。多くの金融機関では、約10年前から急速にコスト削減を押し進め、アジアの金融センターを日本から香港、シンガポールに移した。関係者以外にとっては、これがどれほど衝撃的なことだったかは、イメージできないかもしれないけれど、これは大きな事件だった。日本のビジネスであるにも関わらず、あらゆる意思決定が日本のみでは執行することがかなわず、香港、シンガポールに勤務する上級管理者にお伺いをたてねばならないことになったのである。さらに近年は、金融規制の影響もあり、さまざまな業務をインドなどの、さらに低賃金の地域に移ろうとしている。
では英国のEU離脱の決定は正しかったのか。年金生活者や単純労働者にとってみれば正しかったのかもしれないが、他国がグローバル経済の敷いているなかで、この決定は、若年層、シティで働く人にとっては大きなダメージになることは間違いない。いまコストをかけることに敏感な金融機関は、英国からその場所を移すことになるどうし、若年層の労働者は、居住区を他地域に移すだろう。
欧州金融の中心であるシティの不確実性は、もうすでに顕著にあらわれている。イタリアでは銀行の経営問題が泥沼化しており、イタリア国債の足かせとなる現状が継続している。そして長期的な欧州の経済停滞は、イタリアにその原因があると考えられていて、市場から冷ややかな視線を浴びている。生産性の向上が長期的な経済発展に欠かせないことは周知の事実であるが、グローバル化を否定することは、コスト競争力をさらに減価させることに他ならない。生産性の伸び率を向上させるためには、企業投資をしたり、労働力の質を高めることが重要な選択肢であることは疑いのない事実であるが、イタリアにおいて、高等教育を受けた人材は10数パーセントに過ぎず、今後数年間で急激な回復は見込めないことを示している。
社会主義国家であるか、資本主義国家であるかどうかに関わらず、規制が緩やかで、汚職がなく、高度なビジネスセンターが存在することが、多くの多国籍企業を呼び込む要因であることは広くしられている。これに対して、英国がEUに留まることにNOをつきつけたことは、関税が高くなり、規制がかかることを意味し、ビジネスに負の圧力がかかることになるだろう。
またもっと言えば、税金が安くて政府支出が少ない国がビジネスのしやすい国であるだろう。だけど残念ながら日本は正反対の道に進んでいる。それはさておき、英国がEU離脱を決定したいま、反EU感情が強い国は、イタリア、ついでフランスであるが、これらの国が税金が高くて政府支出が大きい国であることは偶然でないだろう。英国もこれからそういった国に埋没していくか否かは誰にも分からないけれど、多国籍企業にとって進出しづらい国になることは誰の目からも明らかだ。現代の問題は、もはや「大きくて潰せない企業」から「大きくて潰せない国家」にその様相を変えてきている。そんなイタリアでさえも破綻したら多大な経済インパクトがあろうことは、想像に難くない。
資本主義の仕組みは、そもそも安価な労働資本市場を見つけ出し、製品やサービスを創出して販売するというインセンティブに基づいて発展してきた。それが過去の日本であり、中国であったわけだけれど、そろそろ限界に近づいてきている。その根拠として、米国経済は、リーマン・ブラザーズの経営が行き詰る前から急降下しており、資本主義の仕組みそのものが変革の必要性がせまれていた。現代のビッグ・ブラザーの世界は、全体主義国家から資本主義国家打倒に向かっているが、打ち崩したあとの夢の場所はまだ見つかっていない。これが一番の問題であり、人々に不安をもたらしている要因となっている。欧州にとって、EUに反旗を翻すことが、正解に向けた第一歩なのだと考えている人々もいるだろうが、一部のひとを除き、いまより不幸になる可能性のほうが高い。では打倒すべきモノは、村上春樹が「1Q84]で主張したようなシステム化して張り巡らされた複雑な何かなのだろうか。それも少し違う気もするし、正しいのかもしれない。そうした「迷い」は政治の世界でも見られる。これ以上財政支出の余裕のない先進諸国の政治家は、良くも悪くもポピュリズムに傾倒してきている。本来国会議員は、地方議員とことなり、国家の中長期的な成長を見据えて政策を提示するために、一般大衆にとって、その瞬間は「わかりづらい」意思決定をしていくものがどうしても多くなってしまうはずだ。しかし米国のトリンプや日銀の政策をみても理解できるように、近年は人々が短期的に「わかりやすい」政策を掲げて支持者を募っている。人々は一時的に高揚し、満足するかもしれないけれど、瞬間的に経済が上向き、賃金が向上し、生活水準がよくなるような魔法の杖は存在しない。トルコのクーデター失敗によってさらなる世界経済混沌に向かっているけれど、これからぼくらの生活はどうなっていくのだろう。そんなことを考えながら、ビールを飲んでいる。日本の夏は蒸し暑すぎますな。やれやれ。
映画「レオン」をみて思ったことなど
誰にも印象に残る映画はあるとおもうけど、ぼくはいくつかあるなかで『レオン』が上位にはいる。冷酷無比の殺し屋を主人公とした映画とシンプルに言いきることもできるけれど、人の感情を失い、閉ざされた世界で生きる男の成長物語ともいえるし、隔絶された世界で苦しむ少女の小さな恋の物語ともいえるかもしれない。見る角度によって、はたまた鑑賞者によって、その印象は異なるのかもしれないが、ぼくは、温かく、そして悲しい映画だと思った。ワンカット、ワンカットの丁寧な撮影描写によって、一人ひとりの配役の感情変化を明確に感じるとることができ、それが故に数々の名台詞が生まれたのではないかと思う。アクション映画のような派手なシーンはあるけれど、静かでいて、何となくおとぎ話のような柔らかさがあるのが印象的だ。
物語は、ニューヨークでプロの殺し屋として、孤独に生きるレオンを主人公とした作品だ。レオンの表の顔はあくまでもイタリアンレストランの経営者であるが、イタリア系マフィアのボスであるトニーの依頼を完璧にこなす殺し屋が本来の姿である。
ある日、レオンが依頼をこなしたあとに、偶然父親から虐待を受けて、鼻血を流している少女マチルダに出会う。レオンがハンカチを差し出すと、息を呑むような問いかけがそこにあったのだ。
「Is life always this hard, or is it just when you are kid?(人生っていつもこんなにつらいの?それとも子供のときだけ?)」
「Always like this (いつもこんなもんさ)」
冷めてはいるが、子供に対する言葉とは到底思えないほどの尊厳をもった言い方で応じる。レオンはこのときに自分の孤独感と少女の孤独感を重ね合わせたのかもしれない。そんなワンシーンであった。
麻薬捜査官スタンフィールドは、立場を悪用して、麻薬を横領して利益を得ていた。そのスタンフィールドは、マチルダの父親が麻薬の一部をくすねていることを嗅ぎ付ける。アパートに乗り込むと、家族共々皆殺しにしてしまうのだ。マチルダは、たまたま外出していて難を逃れたが、何も知らずにアパートに戻ってきて、事態を知ることになる。マチルダはこのとき、その聡明な頭脳で機転をきかせ、そこの部屋の住人ではないかのように振る舞い、泣きながら、レオンの部屋のドアベルを鳴らし、レオンは逡巡したあと、彼女を保護する。このあとの二人のやり取りが、またはかない。
「Leon? What exactly do you do for a living? (ねえレオン、あなたはどんな仕事をしているの)」
「Clear (掃除屋)」
「You mean you're a hit man? (殺し屋ってこと?)」
「Yeah (そうだよ)」
「Cool (素敵)」
マチルダのセリフのこの「Cool」には、大事な弟を殺された復讐を誓った心情がこめられているのかもしれない。これまで孤独を感じながら、家族からの虐待を耐え忍びながら、人生を無為に過ごしていたが、初めて、生きる目的を持った強い光を感じた。
「I've decided what to do with my life. I wanna be a cleaner (私は人生でやるべきことをきめたわ。殺し屋になりたいの)」
「You wanna be a Cleaner. Here! Take it! It's a goodbye gift. Go clean. But not with me. I .work alone. Understand. Alone.(殺し屋に?じゃあこれを餞別として持って行け、掃除にいけ。だがおれとじゃない、おれは一人で仕事をする。わかったな、一人でだ)」
「Bonnie and Clyde didn't wrok alone. Thelma and Louise didn't work alone. And they were the best (ボニーとクライドは、組んで仕事をしたじゃない、テルマとルイーズも一人じゃなかったわ、そして彼らはベストだった)」
「Mathilda. Why are you doing this to me? I've been nothing but nice to you! I even saved your life yesterday, right outside door.(マチルダ、なぜそんなことをする?おれは何もしてないぞ、ただ親切にしただけだ。おまえの命すら助けてやったりもしたんだぜ。ちょうどあのドアの外で)」
「Right. And so now you're responsible for it.If you saved my life, you must have saved it for good reason. If you throw me out now, its like you never opened your door. Like you let me die right there in front of it. But you did open it. So.... (そうね、でも助けたからには、きちんとした理由が必要じゃない。私を追い出すのなら、それはあのときドアをあけて私を救わなかったのと同じよ。私を死なせたのと同じよ、ドアの前のちょうどあそこで。でもあたなはしてくれたじゃない、どう?…)」
ボニーとクライドは、実在する男女の銀行強盗を映画「おれ達に明日はない」の主人公の名前であり、テルマとルイーズは、アメリカの人気映画で、これも殺人犯と恋人がコンビを組んだ物語であった。12歳の少女とは思えないほどの言い回しにレオンは戸惑いながらも、マチルダに屈しないでいられたが、次の瞬間、マチルダはいきなり拳銃を取り上げると、窓から発砲する。それによってアパートにいられなくなり、一緒に住むことになったが、「おまえを突き放すと何をしでかすかわからない」という理由は、説得力のないものであり、ここから愛情が芽生えはじめていたのかもしれない。
「Leon, I think I am kind a falling in love with you. It's the first time for me, you know? (あなたに恋をしたみたい、はじめての経験よ、わかるでしょ?」
「How do you know its love if you've never been in love before? (はじめてでなぜわかるんだ?)」
「Because I feel it. ( そう感じるの)」
「where? (どこで?)」
「In my stomach..it's all warm. I always had a knot there..... and now Its gone (お腹のあたりよ、ここがなんだか温かいの、いつもしこりのようなものがあったけど、それが消えたわ)」
「Mathilda, I'm glad you don't have a stomach ache anymore, I don't think it means anything.. I 'm late for work. I hate being late work for work! (マチルダ、腹痛が治ってよかったな、それは恋とは違う。仕事に遅れるから、おれはもういくぞ)」
少女のはじめての恋愛感情をうったえた発言に対する回答としてはあまりにも厳しく、理解のない言葉を返すが、レオンの複雑な表情から、彼女の思いにこたえたい気持ちと、昔の冷酷無比で孤独な自分に戻りたいという思いが交錯していたことが読み取れる。一方ナタリーポートマンの黒く鮮やかでいて、純粋な瞳が、光をゆっくりと失っていくような落胆を読み取ることができ、見ていていとおしい。
「Mathilda, since I met you, everything's been diffrent. So I just need some time alone. And you need some time to grow up (きみにあってから全てが変わった、だから少しだけ時間がほしい、きみももう少し大人になるための時間が必要だ)」
「I finished growin' up, Leon, I just get older (私はもう大人よ、あとは年を取るだけ)」
「And for me, it's the opposite. I'm old enough. I need time to grow up (おれは逆で、年は取ったが、これから大人にならないとな)」
レオンは、結局マチルダの幼き愛を理解し、こんなことを言うのだ。心の成熟した12才の少女の言葉が、胸につきささるようであり、互いに心に秘めた思いを打ち明けるようにゆっくりとよりそっていく。二人の時間がシンクロするようになってきたこの夜が悲しくも二人で過ごせる最後になってしまう。
マチルダはスタンフィールドが家族を殺した張本人だということをつきとめ、ひとりで麻薬取締局に乗り込み、復讐をはじめようとするがつかまってしまう。一方レオンもマチルダのために、マチルダ一家殺害に関与した麻薬取締局の捜査官を一人殺害し、復讐の手助けをしていた。
一方、スタンフィールドは、トニー配下の殺し屋が仲間の捜査官を殺害しているのだと目星をつけ、トニーを訪問しに出向く。実はスタンフィールドこそが、今までトニーを仲介役にレオンに殺しを依頼していた元締めだった。
すべてはレオンの仕業だと確信したスタンフィールドは、次の日の朝、警察の全部隊を総動員して、レオンの住むアパートを包囲、突入した、レオンは激しく抵抗し、その戦いの中で、マチルダを脱出させることに成功する。マチルダとはトニーの店で落ち合うことにし、レオン自身は負傷した突入部隊に扮し脱出を試みるもスタンフィールドに見破られ、あと一歩のところで撃たれてしまう。このときの撮影のアングルで、レオンが倒れていくさまが音声がなくなっていきながら、揺れ動くのが、見ていてつらい。そして虫の息の中、身に着けていた手榴弾のピンをぬき、スタンフィールドを道連れにしてレオンは爆死する。
そして一人残されたマチルダは、トニーに殺し屋の修業をさせてほしいと頼むが、断れ、学校の寄宿舎に戻り、レオンの形見となった観葉植物を学校の庭に植えるのだった。
不器用でいて冷たくはあるが、同時に優しさを内包した男をジャンレノが上手に演じ切っており、ナタリーポートマンの幼さの中に、成熟さを秘めた少女をチャーミングに演じた演技が感動できる。いいときもわるいときも長くは続かない、その時間を一つ一つを大切したほうがいい、そんなメッセージを感じたようであった。
参考文献
レオン 映画Wikipedia
書評『奴隷のしつけ方』
奴隷のしつけ方
最近、世界中で経済活動の減速が明らかになり、各国中銀は打開策に追われている。日本ではついにマイナス金利政策が導入されたけれど、市場のボラティリティ上昇に寄与しただけで、経済に好影響かどうかは、まったくわからない。リーマンショック後から、金融機関は、厳しい規制に疲弊している。必要以上の規制は、経済活動を鈍らせるが、まさに最近の欧州市場の混乱は、欧州の金融機関が、新しい規制の枠組みの中で、収益を上げられるか、投資家が疑問を持ったことが大きな要因だ。
グローバル金融機関は、もはや収益を昔のように伸ばすことは不可能だと知って、人員削減などのコストを下げることに注力している。数年前とコストの下げ方が異なるのは、一部の業務をシンガポールや香港といったアジアの拠点に移すことではなくて、その拠点でビジネスを行うにあたり、どれくらいのコストが掛かるのかといった根本に立ち返った分析が始まっている。例えば日本では、日本の顧客は、グローバルの視点で見ると、実に要求過剰だと思われている。1円でも相違があれば、すぐに訂正を求められるし、書類によっては、それぞれの顧客独自の規定のフォーマットがあり、規定にそうように書類の提出を要求されるのだ。仮にそうした要望に応えられなければ、取引停止なんてことは当たり前のように起こりえる。つまり一つ一つの取引を実行するにあたり、それだけコストが掛かるということを意味しているわけだ。規制を準拠するための所定のコストがうなぎ登りで上がるなかで、日本の顧客の厳しい要求に応えるのが難しくなってきている企業は少なくないだろう。ではどうして日本の企業は要求水準が高いのだろう。これは、日本の制度体系に由来していて、日本は年功序列制度を採用し、解雇規制も厳しいから、雇用を守るために、社内の業務を一定以上効率化を行うことはできないのだ。そのために、一見無駄に見える作業に対して、人員が割り当てられ、失業率が低位で推移しているわけだけど、外国資本が日本でビジネスを行う障壁になりえるだろう。
だけど、経済活動が縮小し、コスト意識がはっきりしてくれば、日本でも効率化に対する考え方が変わってくるに違いない。経営層は、労働者の扱い方を意識することになるだろうし、圧力をかけることもあるかもしれない。
本書は、「奴隷のしつけ方」という衝撃的なタイトルになっているが、原題は、「How to manage your slaves」であり、ローマ時代の奴隷を貴族がどのように管理していたかということがテーマになっている。内容は、あくまでもローマ時代の奴隷制度下において、奴隷の扱い方を書いたものであるが、本書における奴隷に対する主人の正しい接し方が、あまりにも経営者と労働者の在り方に似ていて、なんとも悲しいものがあり、スマップの事件があってから売上が伸びているようだ。
奴隷の購入の仕方からはじまり、扱い方、そして罰し方など当時の様子も含めて、細かく書かれている。奴隷を買うときは、若い奴に限り、働かせるときは、目標を持たせて成果報酬を採用した方が作業が効率的に進むのだそうだ。そして奴隷を罰するときは、感情の赴くままに罰してはならず、自分の「資産」として捉えて、公正に扱わないとならないとある。奴隷が年老いたら、子供の面倒を見るような軽い仕事にしてやって面倒をみてやるのがよいのだそうだ。
本書は、作者がローマ時代の貴族に生まれた架空の人物である「マルクス・シドニウス・ファルクス」を語り手として説明しているが、現代の労働市場における環境を考えると、なんとも言えない。大企業にいけば一生安泰といったものが過去になった現代において、転職も昔とは比べものにならないくらいに一般的になってきている。転職市場でも若い人材が有利なのは、もちろん変わらないし、年齢があがってくると、いままで正社員であったひとが、契約社員や派遣社員採用になることだって普通に存在する。社畜なんて言葉が横行して、会社に身を捧げている様が揶揄されているけれど、賃金をもらってあくせく会社のために働いて、上司と部下といった権力ゲームに参加していると、本書の中で紹介されている奴隷に対して気持ちが入りこんでしまう。
資本主義の枠組みが壊れてきているとはいえ、ぼくらはお金を稼がないと生きていけない。資本主義の世界が限界にきてしまっていることは、多くの人が薄々気づき始めている。若い世代まで年金が支払われるかどうかは不透明だし、自分の勤める企業が何十年後も存在するかどうかもわからない。この間まで経営者としてえばりちらしていた人も、いまは一従業員として、上司に頭をこづかれながら働いているかもしれない。本書にもあるが、ローマ時代は戦いの歴史の真っただ中であり、戦争にやぶれ、捕虜となったものが、自由人から奴隷として扱われることも当然のようにあったのだ。
もちろん奴隷制度は憎むべき制度であり、不道徳極まりないものであるけれど、本書はそのようなことに配慮しながらも、丁寧に当時の様子を読み解いていく。思いがけず驚かせられることも少なくない。複雑になった現代の社会組織を意識しながら読んでいくと、色々と学べることも多いかもしれない。ぼくらの生きる時代は、想像以上に残酷なのだから。
「選択」について考えてみた
ぼくらは意識的に、あるいは無意識に物事を選択しながら日々の生活をおくっている。そしてその選択によって、進むべき人生を変化させながら、現在の自分の場所にたどり着いているのだ。中学の卒業と同時に高等学校に進学することは、もはや当たり前になってきているけれど、中学の卒業と同時に専門学校に向かう人もいるだろうし、自宅で自主学習する人もいるかもしれない。限られた時間の中で、その人にとって人生を最大化するために、個人には選択の自由というもの与えられている。そして社会の枠組みで生きるぼくらは、個人的な事象に関しては、ある一定の裁量権を付与されているけれど、他者にまで影響を及ぼすような事象においては、立法、行政などの世界で決定づけられる。
ぼくは先日の週末、自分の余暇の時間をベッドで寝て過ごそうか、ランニングでもしようか、食事にでかようかとあれこれ悩んだあげく、映画を鑑賞することを選択した。TSUTAYAを訪れて、数多くのDVDの山の中から、選択したのが、「十二人の怒れる男たち」だった。特にこれといって見るべきものが決まっていないとき、ぼくはいままでに既に何度か見たものを選ぶ傾向にある。内容もほとんど覚えているし、セリフすら頭に残っていることも多いが、なぜか同じものを選択してしまう。他人にとってみれば、無駄な行為であったも、優位性のある選択なのだ。さて話を戻すと、これは1954年に製作された法廷ものサスペンス映画であり、白黒映画の歴史あるものだ。
本編に話をむけると、父親殺しの罪に問われた少年の裁判に陪審員として選ばれた主人公が、評決に達するまでの一室で議論する様子を描いた作品となっている。この「一室」というのが、この映画の核となるもので、映画の最初から最後まで、この一室で巻き起こる一連の議論に焦点を当てながら描かれており、他の舞台は一切でてこない。内容が面白ければ、映画は売れるのであって、莫大な資金を投入すればいいというものではないという映画評論の話のタネによく使われる。
さて内容に話を戻すと、法廷に提出された証言は、被告人である少年に圧倒的に不利なものばかりであり、、陪審員の大半は、少年の有罪を確信していた。だけど、ただ一人、本編の主人公である陪審員八番だけが、全陪審員一致で有罪になると思われていたところ、少年の無罪を主張するのだ。彼はほかの陪審員たちに対して、固定概念にとらわれず、証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを要求する。陪審員八番の熱意と理路整然とした推理によって、当初少年の有罪を信じきっていた陪審員たちの心にも徐々に変化が起きる。
陪審員の中には、社会的、もしくは他者の人生を左右する最大の選択である「生死」を決める事象にも関わらず、ヤンキースの試合観戦予定の時間ばかり気にしているものや貧困層への偏見丸出しで有罪を主張しているものまでいる。
ここでは一票が大きな力を持ち、全員一致でないかぎりは、有罪、無罪という「選択」を執行することはできないことになっており、全員一致でどちらかに決まらない場合は、再度新たに無作為に抽出された別の組に意思決定権が委ねられることになるのだ。つまり、陪審員の中には、その責任や選択を他の誰かに預けてしまえばいいと考えるものまでいた。そうした中で、主人公は、無罪という確たる証拠がないなかで、真摯に事件を見つめ、「有罪とまでは言えないのではないか」という論拠を次から次へと提示していく。映画の都合上、時間的制約があるせいか、後半に入ると、他の陪審員からも、無罪に有利な疑問が発次から次へと発見されていき、異常なほどのハイペースで無罪に傾いてく様は、少々強引すぎる嫌いはあるけれど、そこは映画だから仕方ないことかもしれない。
しかし世の中は、一票の差が大きな意味を持っているケースも多い、小中学校での選挙で一票の差で代表者が選ばれることもあるかもしれないし、政治家が一票の差で泣く泣く当選できないということもあるだろう。とりわけ最近注目の話題となっているのが、マイナス金利政策の導入である。日本銀行は、金融政策決定会合で、賛成5、反対4とうい僅差の中、導入することを決定した。瞬く間に日本国債市場では、あらゆる年限で過去最低利回りを更新し、これまで以上に、かつてないほどの低金利市場になった。この選択が正しかったとは到底思えないけれど、結果はいますぐにはわからない。一つの選択をするときは、その選択が影響を与えるまでの期間、そして、そもそもその選択が及ぼす影響を考慮せねばならないが、選択するまでの期間は限られているケースも多いし、時間をかけたからといって正しい解が得られる保証はない。
個人のレベルで考えてみても、誰もが過去に選択したことに関して、一度や二度は、その選択をやり直したいと思うことはあっただろう。ぼくも当然のことながらそうした経験はあるし、やり直せるものであれば、やり直したいとおもう。しかし、大抵の場合、過去に執行した選択は、ある程度修正することはできるかもしれないが、やり直すことはできないことが多い。だからこそ、一回一回の選択は、大切にしないといけないのだ。
これから世界が小さくなり、テクノロジーが入り組んだ時代においては、ちょっとした選択が、思いもよらないところに波及する可能性すらある。ぼくらの「選択」はそれほど複雑になってきていて、尚且つ波及先を明確化することが難しくなっている。いまぼくは、コンビにでペットボトルを購入しようか、このまま眠りにつこうか、真剣に考えている。この選択によって、明日の世界が大きく変わってしまうのではないかと思いながら。
蜘蛛のお話しって色々あるよね
世界経済は混沌としており、リーマンショックを彷彿とさせるような荒れた相場が続いてる。日経平均株価は音を立てて下落し、15日には、北海ブレンド原油価格が1バレルあたり、29ドルを下回った。原油の供給過剰が目に見えて明らかになってきており、イランとサウジラビアとの地政学的リスクも上昇している。もはや各国中銀の量的緩和だけでは、この状況を打破できようはずもなく、悪戦苦闘している。さらにここに中国経済のハードランディングが懸念されてきており、新興国に暗い影を落としている。
さらに最悪なことに金融規制は年々厳しくなってきており、グローバル金融機関は、リスクアセットを大幅に減少せざるをえない現状だ。これからますます投資資産に叶う収益率が求められるのは紛れもない事実で、それに沿うような形で、組織を縮小するしかない。そうなると、経営層は、なんとかコストを減らして見た目の収益率を良く見せようと躍起になる。つまり初期投資を恐れずにシステム開発にかじ取りを向けるはずで、これからますます「生産性」は向上するだろう。人件費削減という犠牲を恐れずに。
ぼくはあまりにも暗い気持ちになったので、ふと本棚から芥川龍之介の「蜘蛛の糸」が目に入り、手に取った。あまりにも有名であらすじを話す必要はないかもしれないけれど、一応書き記していく。これは釈迦が、極楽の蓮池を通して、地獄をみていたとき、罪人の中にひとりの男を見つけた。この男は大変な悪党であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。それは小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだった。それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出そうと、一本の蜘蛛の糸をこの男めがけて下ろした。極楽からの白い蜘蛛の糸が見え、男は「この糸を登れば助かる」と考え、糸につかまって昇り始めた。ところがふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れると思い、「この蜘蛛の糸は俺のものだ。下りろ」と喚いた。すると蜘蛛の糸が男の所から切れ、彼は再び地獄の底に堕ちてしまった。
この話を読んでぼくは、ふとギリシャ神話を思いだした。それは「蜘蛛になったアラクネ」というものだ。これは少しあらすじを話しておいたほうがいいかもしれない。
昔、リュディアという地方にアラクネという機織りの上手な娘がいた。そして娘の技術は相当なもので、「工芸を司る女神アテナ」に教わったに違いないと噂になるほどだった。アラクネは、この噂を誇りに思うのではなく、逆に自尊心を傷つけられた。そこでアラクネは、「私の機織りの技術は、アテナ様であろうとも負けるはずがなく、当然アテネ様から教わったものではない」とふれまわるのだ。
これを聞いた村の人たちは、「早くその言葉を取り消しなさい」と諭すが、一向に聞き入れずにいると、あるとき、老婆に姿を変えたアテナが地上に降りたち、アラクネを戒めにいった。しかし、その言葉も無視して頑として言葉を取り消さなかったため、アテナは、ついに変身をとき、「それなら私と勝負しましょう」とけしかけた。
そこで機織りの勝負が始まったが、アラクネの技術は本当に素晴らしく、甲乙つけがたい腕前だった。しかしアラクネの織る布には、ゼウスが人間の娘たちを誘惑する姿が描かれており、尚も神々を侮辱するものだったことから、アテナはこれに対してひどく怒り、アラクネの織った布を引き裂くと、頭を機織りの道具で叩いた。この時になってアラクネは、やっと自分の犯した罪に気がつき、その恐ろしさに絶望したアラクネは、自殺を図ってしまうのだ。しかし、これを哀れに思ったアテナは、彼女の命を助け、彼女を蜘蛛に変えることでその罪を許した。こうして、助けられたアラクネは、今でも空中にぶら下がって、懸命に機織を続けているのだそうだ。
ぼくはこの二つの話が繋がっているような気がした。蜘蛛になったアラクネは、懸命に機織りを続け、罪を償おうとしていたのかもしれない。そして釈迦がその蜘蛛になったアラクネを地獄に向けて糸を下ろすように指示したのだと思うと、興味深い。人間は一度失敗しないと、学ばないのだろう。このあと糸を切られた男は、どう地獄で過ごしたかはわからないが、「あのとき皆を登らせてやればよかった」と後悔するかもしれない。
リーマンショックの影響は計り知れない。今もなお続いていると言って過言ではない。米国からはじまった金融危機が、欧州債務危機を引き起こし、それをなんとか正常に戻そうと各国中銀が巨大なマネーを市場にばらまき体力を失っただけでなく、規制委員会は、二度とあのような大惨事を引き起こすまいと、過剰なほどの規制を作って、金融機関を締め付けている。金融機関は、もはや絶対額の収益をあげることから、少ないアセットで、莫大な収益をあげるという無理難題を課せられている。当然ながら、負担が過度にかかり、多くの金融機関は疲弊しきっている。
この辺で蜘蛛の糸おろしてくれないかなぁ。もういいころだとおもうのだけれど。