今回は、子どもたちの「スキッピイング・アビリティ」になる。

簡単に言えば、知らない言葉(もの・記号)をほっておく能力、になろうか。



矛盾を無純と書いてしまう大学生について、

「矛盾」が書けないのはなぜなのだろうと内田樹は悩む。



女子大にいて、そうした子どもたちに出会い、

わからない文字を読み飛ばしている、

そして「読み飛ばし能力」が、内田樹の想像を

超えるぐらいに発達していると類推している。



さて、少々長いが彼の文章を引用してみよう。



『(略)ただ、ふつうは意味がわからない言葉に

遭遇するとスキップしようとしても、なんとなく気になる。



引っかかる。喉に小骨が刺さる。

なんだかわからないものが呑み込めないままに

残っていると、気になって気になって仕方がない。



「わからないもの」を「わからないまま」にしておく

というのは、人間にしかできないことです。



というのは、「判断を差し控える」ということは、

「理解したい」という欲望を手つかずに持続させ、



場合によっては「理解したい」という欲望を

亢進させることだからです。



ジャック・ラカンはその知性の働きを

夜の海を進む船の航海士に喩えています。



夜の海上に何か揺れるものが見えたとします。

何となく気になる規則的な動きをしている。



機械や動物(鮫とか)であれば、

その「何か」を既知のものに固定します。



機械や動物には「何だか分からないもの」

というカテゴリーがありませんから、



ですから、とりあえず、「鯨である」とか

「難破船である」とか「月の反射である」

とか、何かに決定してしまう。

というより、機械や動物は決定しない

ということができないのです。



しかし、人間は何かを見たけれどそれが何であるかを

決定しないということができる。



闇夜を航行する航海士は「何時何分、経度何度、

緯度何度、しかじかの物を確認す」と

航海日誌に書き記すことができる。



「それが何を意味するのか分からないものが、ある」

ということを受け入れられるのは人間の知性だけです。

(ジャック・ラカン『精神病(下)』小出浩之他訳、岩波書店)



わからない情報を「わからない情報」として維持し、

それを時間をかけて噛み砕くという、

「先送り」の能力が人間知性の際立った特徴なわけです。



ところが、この「無純」と書く学生の誤字のありようを見ていると、

どうやら「わからないもの」を「わからないもの」に維持して、



それによって知性を活性化するという人間的な機能が

低下しているのではないかという印象を受けます。



「わからないもの」があっても、

どうやらそれが気にならないらしい。



新聞や雑誌を読んでいるとき、知らない言葉に

出会うことは僕たちにもよくあります。



そして、知らない言葉でも、「知らないままでもいい言葉」と

「これは知らないとまずい言葉」の区別ができる。



不思議なものですけれど、「これは知らない言葉だけれど、

知らないとまずいような気がする」と、



「これは知らない言葉だけれど、知らなくても大丈夫」

ということの区別がつきます。



「知らないとまずい言葉」については、

知っていそうな人に「これ、どういう意味なの?」と訊いたり、

家に帰ってから辞書を引いたりして、「穴」を埋めてゆく。



けれども、今の若い人たちは、

その「穴埋め」作業をどうやらしていないらしい。



自分がわからない言葉が、あきらかに彼らを読者に

想定しているメディアの中に頻出してきても、

それが気にならなくなっている。



僕は「わからない」ことより、この「わからないことが

あっても気にならない」ことの方に危機の徴候を感知するのです。(略)』



これを読むと、然り、と思ってしまうだろう。

自分も当時は、そうなのかー、と素直に思い込んでいた。



だが、今になって読み返すと、非常に大きな違和感を感じる。

「読み飛ばし能力」が、発達したことは、現場の人間の経験から、

また、同世代がほとんど本を読んでいないという経験から、

この2つのよく知っている。



現場にいて、どんどん子どもたちの「読み飛ばし能力」が発達し、

それが、教え手にとって非常に切実な問題になっている。



けれども、彼が書くように悲愴には感じていない。

子どもたちが、躓いた箇所に気づいて、

直ちに、理解してもらい、身体に刻む作業を行えば、問題はない。



問題はないどころか、子どもたちは、その瞬間、

あ、そうかー、となったとき、急速な成長を遂げる。



わからないものをそのまま置いておく行為は、

確かに人間の知性の特徴であるが、

それを知ろうとするか、そのまま放置しておくか、

その選択は、個々人によるものである。



例えば、内田樹にとって、知っておかねばならないもの、と

無純とかく女子大学生にとって、知っておかねばならないもの、は、

大きく異なることに気づいていない。



彼女は、いつか、え、そうなの、マジやばいー、と認識を

改めて、そこからまた彼女は、別の世界像を作ることができる。



つまり、彼女には、タブララサ(白紙)の部分が多く残されており、

人生の各段階において、そこに書き込み、

彼女の世界像を他者との関わり合いにおいて、

常に、変更していく可能性が多いにある。



若者とは、そういう存在である。

あ、そうか、としっくりきたり、ピタリときたりすることで、

驚異的に成長していく。



ところが、内田樹はどうであろうか。

もう既に、彼の世界像は完成されているように見える。



人間は、老若問わず、速さを無視すれば、

自分の世界像を、さまざまに変化させ広げる。



レヴィナス研究者(弟子)である内田樹は、

常に、レヴィナス的な「絶対的な他者」を信奉する。

ここが、彼のコアの部分であり、大いなる歪みである。



彼が知らないとやばいものは、かなり限定される。

現代思想で飯をくってきたのだから、

そっち系の知らないものは、不可欠だろう。



はて、それでは、理系分野においては、どうだろうか。

特に、彼が言葉を使用する時、用いるのは、

数学の概念を記号にした言葉がある。



彼は、複素的身体などという概念をだそうとしていたが、

ならば、複素関数をきちんと理解しているのだろうか。



複素という言葉を使用するならば、実数と純虚数からなる、

複素数の世界を知らないで使用できないだろう。



彼は、複素数の世界を知っているとも思えないが、

使用するならば、きちんと複素関数を習得しないと

認識に大きな誤解と誤差が生じるであろう。



彼が複素数の基本を理解し、

複素数を微積分できるとは、考え得られない。



それができないということは、分からないものを

そのまま放置していき、この齢までそれでやってこられたのである。



ほんの一例に過ぎないが、人間の知性にも、

欲望が絡んでおり、知の選択は個々人の欲望に基づくのである。




教え手の役目は、子どもに、わからないものを

わかるとき感じる、あーそうか、なーんだそうだったんだ、

という感覚を身につけてもらい、

学問という体系だった世界に足を踏み入れてもうらことである。



数学好きには分かるだろうが、あ、そっかー、という感覚は、

とても心地よいものであり、自分の知的レベルがぐーんと

上昇する、というたまらない気持ちのよさをえる。



この感覚に近いものが、思想にもあるだけれども、

それを味わうためには、長い道のりが必要だ。



現代日本の豊かさ、忍耐、継続などといったファクターを無視して、

この女子大学生を持ち出して、否定することは、

近視眼にもほどがある。


ヘーゲルは、精神現象学の中で、こういう輩を

手厳しく諌めており、ニーチェも同じである。



子どもたちは「下流志向」で振舞っているのではない。

それだけは、確実に言うことができる。