大仰なテーマをつけているので、

この本を批判するのは、かなり恥ずかしい。



著者は、間違いなく、マルクスに魅了された一人であり、

その後、立つ場所を探して、フッサール現象学から

ポンティなどを経てから、レヴィナスに至った。



彼やレヴィナスがやってしまった、

フッサールの誤読を指摘しないといけないのだが、

この本から、始めてしまい、哲学を論じることができないで、

もどかしい。



さて、今回からは、かなりぶっとばして、

隙だらけの乱暴な批判をやって、

とっとと片付けていきたい。



まず、矛盾と書けない大学生、のところからいく。


彼は、大学入学者の学力低下に、嘆き、

「しみじみと実感されます」と述べている。



「内容はさておき、文字がすごい。」

「小学生のような丸文字がほとんどです。」

「内容に関しては、一昔前なら小学校高学年程度が全体の半分・・」



著者の言う「小学生的」とは、自分の主観的な

「好き・嫌い」「わかる・わからない」が、

ほとんど唯一の判断基準になっていることだ。



「好きではない」「わからない」という二つの言葉で、

やすやすとほとんど勝ち誇ったように、

教師が提示する論件を乗り越えてしまう、

このことにびっくり仰天している。

(だが、慣れちゃって驚かなくなったとも書いている)




世界最高の教え手であると勘違いしている私にとって、

「わからない」という言葉は、恐怖であり、かつ、

意欲に火がつく代物である。



「好きではない」、これもまた意欲に火をつける。

ほとんどの子どもにとって、お勉強が好きではない、

このことは、誰もが認識できる事実である。



快・不快、もしくは、好き・好きではない、

これは、ハイデガーが追い詰めてくれた

〈感情性〉、〈情動性〉という還元不可能な最終アイテムである。



好きではない、という子どもの情動から、

お勉強をしてもらうという作業をしなければならない

ということが、教え手のやるべきことの

もっとも根源的なものなのである。



好きではないー分かりたくもないー学ばない

この一連の流れが、一応、彼の言う「学びからの逃走」である。



では、現場はその事態にどういう対処をしてきたのか、

私自身が、現場の人間であるので、

どういった対処をすればいいのか、

常に模索してきたし、現在も模索しながら行っているので、

その日々の実践からの異議申し立てをする。



子どもというものは、いきなり大学生になるのではない。

諸学問が体系だっているのと同様、

それぞれの個体にそれぞれ特有の現象が重なり合うことで、

時間を経て、例えば、大学生とかになる。



それぞれの現象は、一番起きる場所は、家庭である。

現代の日本社会は、さまざまな欲望を追求できうる可能性が、

一般大衆の隅々にまである。



子どもの欲求は、基本的に、「快」である。

昔の牧歌的な時代と異なり、

子どもにもたくさんの「快」が開かれた時代になった。



「快」は、Tv、ゲーム、ケータイ、ネットなどなどあり、

「不快」である「お勉強」と、根本的に相容れない。



しかし、ほぼ全ての家庭が、子どもに「お勉強」してほしいと願っている。

かつ、子どもも、大きく逸脱してしまうまで、

「お勉強」は、しなければならないということは、分かっている。



別に、リアライズしているわけではなく、

ふあ~んとそういう気持ちを持っている。



だから、分からない、という乗り越えで、自らも親も

騙そうとすれば、分からせればいいのである。



分からせて、カラダに浸み込むまで、させればよいのであって、

そこで、放置してしまうから、「学び」から、放り出しているのだ。



分かって、浸み込んで、がんがん解けるとなれば、

あっというまに、子どもの世界は変わる。

世界を変えてあげれば、後は、楽なものなのである。

だから、分からない、という言葉は、私にとって、

うし!ラッキーという気持ちになる。



好きではない、という乗り越えをされたとき、

教え手にとっては、これまたラッキーと思うべきである。



めっちゃ好きになってくれることは、あまり期待できないが、

アリ、けっこうおもろいじゃん、とか、

テストで点数がとれれば、「好きではない」という乗り越えは消える。



つまり、彼は徹底的に、現場の人間ではないのである。

現場の人間という存在は、常になんとかする、こういう場所にいる。


まず、問題を見つけ出し、なんとかしようと行動し、

試行錯誤し、その問題を片付ける、これが現場であり、

これは、ニーチェの言葉に従っている。



それにひきかえ、彼の言動と行動は、ニーチェが注意を喚起したもの、

まさに、そのものなのである。



ニーチェは、「意識されたもの」が価値を呼びよせるかぎり、

諸制度は永遠にニヒリスティックな(生を否認する)本質を導く、

したがって現にある人間を超えよ、と説いたのである。

(「エロスの現象学」竹田青嗣・海鳥社)



われわれ現場の人間は、このニーチェ側にいるが、

彼は、その彼岸にいるといっていいだろう。



ぱくりまくったのは、

「下流志向」(内田樹・講談社)