最近、「人間回復の経済学」(神野直彦・岩波新書)を

読み終えて、いろいろと思うところがある。


政治的な話題は、あまり好きではないのだが、

舵取りを誤ったがゆえに、私たちは現在の状況にある。


かつて、高坂先生は、ご存命の際、

親切な税金の高い国か、

冷たい税金の安い国か

の二択だとおっしゃっておられたことを思い起こす。


先生が、今の状況を見れば、ため息をついて、

あら~、税金の重い、冷たい国もできるんだな

とおっしゃることだと思う。

中曽根内閣以降、改革、改革の嵐だったようである。

いけない、そうじゃない、という声は、全てかき消され、

とどめは、コイズミのアホの登場だった。

この前の衆議院選挙は、自分にとっては、

唖然とする結果だった。

内田樹先生も、おそらくこの結果に唖然となさったようで

ブログで「勝者の非情、弱者の瀰漫」という題で

このように書いておられた。

『(前略)

日本人は鏡に映る自分の顔につばを吐きかけた

自己否定の契機をまったく含まないままに

「自分とそっくりの隣人」を否定して溜飲を下げるという

この倒錯を私は「特異な病像」と呼んだのである。』

もっと読みたければ、こちらを。

http://blog.tatsuru.com/archives/2005_09.php


自分は、別に、自民党に投票してしまった人を

非難しているのはなく、Tvメディアというもの

その次に新聞を唾棄すべきものと、

この選挙以来、思っている。

もっと愕然としているのは、

現在の日本の状況である。

よくもまぁ、これほど悪化してきたものだと

心底、思う。


いつもながら、政治的に無力な私たちは、

どうしようもないが、為政者に任せていれば、

よその国の悪いところばかりをまねをする。

今の労働状況で、雇用環境で、

耐え続けることは、もう、できないだろう。

男性の異常な長時間労働を、放置したままで

市場原理主義の跳梁跋扈を許してきたがために

こんなに生きにくい社会にしてしまった。

生産性をどうのこうの言う前に、

一番先に解決しなければならないのは、

日本男性の異常な長時間労働であって、

ありとあらゆる問題は、ここに帰着するように思える。


生産性が向上した、という文脈は、

給料が払われない労働時間が長くなったと捉えていいだろう。

非正規雇用が、正規雇用にとって代わったと

捉えていいだろう。

公的セクターの医者しかり、熱心な教師しかり、

小売業の店長、飲食店の人たちほか、ほぼ全ての場所で

労働が融解を始めている。


真面目に縁の下の力持ちをやることは

それを感謝されて始めて、嬉しく思う。


感謝どころか、当たり前、いや、そんなことには

目もくれなくなった。


例えば、教師も、クラブ活動なんか、余分に給料もでねぇのに

やっていられるかという、経済合理性に巻き込まれて

頑張り屋さんじゃないと、もう、やりたがらない。


楽したものの勝ち、口先だけの奴の勝ち、

いい世の中になったものだ。


こなせない量の仕事を抱え込まざるをえない現場は、

肉体的にも、精神的にも、限界点に達し始めている

のではないだろうか。


なぜなら、先が見えれば、人には希望が湧く、

もう少し頑張るかと、ムチも入れることができる。


今、それが見えなくなっていることが問題であって

どこまで、この厳しい雇用環境と労働環境に

日本人は耐え続けることができるのだろうか。

さまざまな問題は、日本男性の激しい労働状況と

かなり繋がりがあって、その根治的療法は、

かなり強力な政治の介入が必要とされることを思うと、

憂鬱な気持ちで、胸がふさがる。




という自分もクソッタレな体を引きずって、

一ヶ月以上も休みがなかったりする。(゙ `-´)/

人のことをとやかく言える状況にないことは確かである。