まず、このクソ野郎のたわごとをぱくってみますか。


『(前略)

五年間に及んだ小泉政権の功罪を問う時に、

必ず議論になることは「格差」という問題だ。


私は、会社や個人に生まれる経済格差は、

健全なものだと思っている。


公平・公正なルールのなかでなら、努力した人は

努力しなかった人より認められ、多くの果実を得るべきだ。


むしろ、その格差こそが、社会に活力を生み出す

モチベーションになると思う。


そして今の日本でこの格差が固定しているとは思わない。


目指すべきは、結果の平等ではなく、

機会の平等である。


機会の平等を担保することによって、

人々のマインドも前向きになり、

社会も活性化する。  (後略) 」




なめたことをほざいてくれるではないか。


会社や個人に生まれる経済格差のどこが健全なのか、

いまさらルソーでもあるまいが、

ひとは生まれながら、様々に不平等を背負って生きている。


これが、人間世界の本質である。


不平等とは、世の中を見渡せば、

掃いて捨てるほど有り余っている。


例えば、施設に預けられた子などは、

生まれながらに経済格差を背負っているではないか。


機会の平等は、彼らに与えられてはいない、

むしろ逆回転がかかっているではないか。



そして、ひとがひとを評価することが前提に立つ、

ルールというものは、公平であったり、公正であったり、

などという例を探すほうが困難なぐらいである。



また、努力をした人が報われるというのも、

激しい妄想である。頭がおかしいのではないか?


この日本社会で、自殺者が3万人規模で発生する社会で、

息苦しいほど働かなければならない社会で、

懸命に努力しないでいる人々を探すのは、

砂浜でダイヤを探すようなものである。


個人個人、もがきながら、厳しい一日を懸命に生きているのである。



しかし、確かにええかげんな人、努力しない人、

能力的に劣っている人、などはたくさん見てきた。


その人たちは、仕事に精を出すより、

口だけで大手を振っていることが多いではないか。


機会の平等などは、どこの世界にも存在しないし、

歴史上どの時代にも存在しなかったと言い切っていい。

(結果の平等は、う~ん・・・・)


機会の平等は、実力を示した人が必ず報われる

というものではない。


どうしても人のなす行為だから、公正で公平な評価など

どこにもないので、実力を、圧倒的な実力を示すほど、

周囲の嫉妬をもたれてしまい、逆にマイナスイメージを

集団の中ではもたれてしまう。


口だけのやつ、政治的な動きの得意な奴、

おべんちゃらの得意な奴の勝ちとなっているのが、

現状ではないか。



機会の平等を謳うならば、教育に関して実際にやってみるがいい。

この場所には、一切、平等なんて存在しない。



老害なんてことは使いたくもないが、

こんなボケ老人のたわごとを聞けば、

「はよ、どっかいけ」と言いたくなる。


この国にとって有害極まりない。老害は有害なのか?

かつての経済人は、日本の行く末を憂う人々で構成され

こんなけち臭い奴などいなかったらしいが。(゙ `-´)/



ムカついて、文章がむちゃくちゃだ。


ぱくったのは、

「希望の国へ―私の日本再生計画」

(日本経団連会長・キャノン会長・御手洗富士夫)

(文芸春秋2月号)