「ダンシガシンダ」回文のお手本でよく紹介された。落語界の風雲児、立川談志(75)が逝った。喉頭がんでありながら、商売道具の声帯を取るか残すかで迷うことなく手術拒否。声をなくした噺家なんかプライドが許さなかった。
私は記者時代に二回電話取材だけで直接お会いすることはなかった。内容は忘れてしまったが、政治家のトラブルと流行語のコメントだったと思う。最後には必ずこう言われた。
「いろいろ語ったけどね、これでいいの? 記事になる。何かもっと面白いこと言った方がいいかなあ…どう?」
サービス精神のある人だった。「マスコミはあることないこと勝手に書くからなあ…」とまず前ふりがあってガツンと批判される。でも、やがてこちらがタイトルになるようなフレーズを機関銃のようにしゃべる。そして、最後にはいたわりの台詞をさり気なく語る。本当はシャイで真面目な人ではなかったかと思う。人間国宝の落語家・桂米朝(86)さんが「わがままな性格から物議を醸したこともありましたが、実は『むちゃ』を演じていたような気がします。ああ見えても、神経の細やかなところがあるんです」(朝日新聞)
私も米朝さんと同意見だ。「人生、成り行き-談志一代記-」(新潮社)は愛蔵本だが、談志師匠の生い立ちが詳しく語られている。聞き手が立川流の顧問であり演芸評論家・吉川潮さんだからかもしれない。吉川さんも今回の死に対して「これまで名人と呼ばれた落語家でも、『名選手、名監督ならず』で、後進の育成はできなかった。でも、家元は名選手でありながら名監督、名コーチ、名伯楽として立派に弟子(志の輔、談春、志らく)を育てた」(日刊ゲンダイ)
立川談志こと松岡克由は東京小石川生まれ。父親は、三菱重工の社用車の運転手だった。小学校に入ると同時に、貸本屋通いがはじまる。自宅には一冊の本もなかったそうだ。目蒲線
「落語家になりたいんですが…。このまま高校、大学なんかへ行って月謝払うより、親に経済的な負担もかけないし、そっちの方がいいと思うンですが、どうでしょう?」
この訊き方が気にいられた。「誰に?」と質問されると「小三治の弟子になりたいんです」と、もう柳家小さんになっているのに、前名を語ることで真山さんの心をグッと掴む。このあたりが頭の良さだろう。16歳の高校生がいきなり柳家小よしで前座になった。二つ目の18歳のときにはすでに百席のレパートリーがあった。立川談志を襲名したのは入門から11,年目の27歳。
民法テレビ開局前からキャバレーで話術を磨いた。クリスマスなんか、7軒の掛け持ちをする売れっ子。酔っ払い客の前で落語は無理で、漫談のスタンダップトークだった。私は、談志師匠は最高の漫談家だと思っている。ブラックジョークや毒舌の天才だ。落語「芝浜」は確かにすごいとは思うが、志ん朝や小三治の方を何度も聴いてしまう。
意外だったのは、奥さんの則子さんを「ノン君」と結婚以後も亡くなるまで呼んでいたことだ。則子夫人は、第一生命ホールの案内嬢で、「若手落語会」が第一生命ホールであったとき、何かで則子さんのことを談志が怒った。そうしたら「怒られちゃった…」と可愛いく呟いた。
「その様子にネ、ほう、これはいいなあ、かわいいな、こいつは大事にしとかなきゃと思った。向こうは結婚を約束した人があったらしいんだけど…」
談志師匠は、すぐに則子さんのアパートへ転がりこんだ。談志師匠は「則子(のんくん)語録」をしたためたノートを大切にしていた。「談志十八番のひとつ『野ざらし』をアザラシが出てくる落語だと思っていた」「談志が自宅で癇(ひきつけ)を起こしたとき、なぜかすぐにガス栓を閉めた」「パチンコと談志ひとり会のどっちに行こうかと悩む」則子さんは天然で不精者らしい。長く新宿のマンション暮らしから、練馬に百坪の土地に部屋が10ある家を購入したのに三ヶ月で新宿へ戻った則子さん。理由は「近くに伊勢丹がないんだもの…」だった。
多くの人たちが談志の美学と毒舌変人ぶりを語る。でも、長男・松岡慎太郎(45)さんや長女・弓子(48)さんから家族全員に看取られてあの世に旅立った。父親似の弓子さんが16歳の反抗期の頃、父親と喧嘩になり「殺せ!」みたいな売り言葉に買い言葉で、つい家元から張り倒されたことがあった。それでも晩年には「とても優しい父でした」と涙ぐむ弓子さんに、もう一人の談志師匠が見えた。談志亡き後も、その落語家スピリッツは弟子や子供たちに受け継がれていると思う。もう二度と出ない噺家にサヨナラ!合掌