昔の日記を整理していたら、2007年の9月に山藤章二さんの「ブラックアングル」の切り抜きを発見。あの年の夏は、安倍晋三が突然辞任を表明。8月1日には、作詞家・阿久悠さんが70歳で亡くなった。今ほどではなかったが嫌になるくらいの残暑だった。「夏のひとりごと」のタイトルで阿久悠さんのヒット曲に、安倍晋三の胸中を語らせ絶品だった。何か、今の自民党9人の総裁選にも当てはまる皮肉さ(山藤さんの作品を参考にして)

「真夏のあらし」いくら低支持率とはいえ、突然の自民党総裁辞退の岸田首相

「夏にご用心」とは思っていたが9人の候補者はどれも「ざんげの値打ちもない」「憎みきれないろくでなし」ばかり!猛暑で電気料金も物価も「どうにもとまらない」自民党党員しか参加できない総裁選なんて「勝手にしゃがれ」が正直な気持ち。公約のタレ流しは「時代おくれ」で、政治家の面構えを見るととても「笑って許して」なんて身内だけ。現閣僚が総裁になったら!の公約のオンパレード!それ言うなら、今やれよ!と突っ込みたくなる「真夏の夜の夢」。どの政治家も「時の過ぎゆくままに」と「花のように鳥のように」としか世間の動向を思っていない。

閑話休題。9人の候補者討論会での「あれもこれもやります!できます!」には、やはり与党政治家は面の皮が厚いのだ!と思ってしまう。

「正しいことを言うときは少しひかえめにするほうがいい。正しいことを言うときは相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがい」

 吉野弘さんの「祝婚歌」の一節です。

 結局、この国の政治は全国民参加じゃなく、一部の党員組織内で決められていく。かって、大東亜戦争で気狂い超大国と無謀な戦いに走り破滅した時代を決して我々は笑えない。

 私のレパートリーの阿久悠作品の「青春時代」じゃないけど、(道に迷っているばかり、胸に棘さすことばかり)だ!!

 

 

 猛暑の夏から初秋に少しずつ進んでいる。でも、残暑はまだ厳しい!

夏は先妻と親父の命日が続き墓参りも、一番丁寧にする。自慢じゃないが、月命日の20日と31日は毎月墓参りしている。だから、お墓は周りのものよりこぎれいだ。ただ、いつからか、雑草もそれじたい花なのだから、むしり取ることはせず、そのままにすることにした。墓は雑草も仲間としてある。

 私は霊など信じないから、墓に手を合わせても、この場所に故人の霊が眠っているとは思っていない。

 作家・伊集院静さんが、墓参りで墓に納まっている父親、先妻、弟の名前を胸の内て呼び、母親のことを頼むよ!とだけ言うとコラムに書いていた。私も同じだ。そのお寺の住職と話す機会があった伊集院さんは「実は、死んだ者が夢の中で一度も出て来ないんですが、自分が薄情だからでしょうか?」とたずねた。和尚は「そりゃあ、良い寝方ができとるからだ」と答えた。そして「お前さんはやさしい兄貴だから、気遣って出てこんのだろう」と。私は故人もよく夢に見る。毎晩の夢が楽しみだ。つまり、身内の故人が夢に出てこないのは、残された者の幸せを祈っているからだ…との説を否定はしない。

 97歳の母親は、毎日仏壇にお茶をあげる。時おり、私が季節ものの果物や和菓子を買ってくると、まっ先に仏壇に捧げる。その度に「爺ちゃんの好きな柿ですよ」「ヒロミさんいちじく美味しいよ」と亡き人の名前を呼びながら手を合わせている。生前には、決して仲はよくなかった。それを知る私は(今頃そんなこと言ったって…)と、覚めた思いで見ている。ただ、生きている人に話すように声かけする。その姿を見て、月日の流れという時間を思う。どんな過去があろうと、喜怒哀楽は自然と昇華される。なくなっていくのではなく、胸の内でしか語りあえなくなると人は争うことはしない。菩薩になるのかもしれない。

 伊集院さんが、この世で生きている時に出逢ったこと、それだけで十分に価値がある!そして、「近しい人の死の意味は、残った人が幸せに生きること以外にない!」と、書いていたが、まさに人との邂逅には何らかの意味がある気がする。私は、生きていたら何歳になったかなあ?と墓参りの帰り道に思う。そして、生きたかった分の人生をしっかりと生きよう!と胸に刻む。

 

 関東大震災(大正12年9月1日)から101年。つい先日、私の住む日南市はマグニチュード6.5の地震でものすごく揺れた。しかし、関東大震災はマグニチュード7.9!死者・行方不明者10万5千人という大惨事だった。

 そこに、朝鮮人虐殺事件だ。歴史的事実をなかったことにしょう!という大バカ集団がいる。2017年、朝鮮人犠牲者追悼式で、追悼辞を取りやめたのが小池都知事だ。歴史的事実をなかったことにするなんて、正常な人間は考えもしない。小池都知事は、いくら自分の学歴をなかったことをあったかのように画策して成功したから、その逆も可なり!と思っているのか?

 それなら、あの大震災後に、トチ狂った日本人から、朝鮮人を守った日本人の存在はどうなるのか。私も以前のブログで、世田谷区で砂利採取していた大丸組社長・吉島さんのことを書いた。当時、数十人の朝鮮人が大丸組で働いていた。そこへ、日本人の集団がやってきて、差し出すように迫った。ところが、吉島さんは「使用人は俺の息子と同じだ。その息子に害を加える者は俺が相手する!」と立ちはだかった。日本人は誰一人として手をださなかったという。今日に至るまで、吉島さんのお墓には、誰か分からないが香華が絶えないそうだ。

 昨年の10月1日朝日新聞「社説」に「朝鮮人を救った署長に思う」記事が掲載された。神奈川県鶴見分署長・大川常吉さんは、のがれてきた300人ほどの朝鮮人を署内に匿った。そこに1千人近い群衆が武器を手にして押し寄せたが、大川署長は追い払ったという。警察官の前に、優れた人物であったのだと思う。大川さんは63歳で亡くなられたが、鶴見区内にある寺には、朝鮮人が建てた大川さんの碑文が残っている。こうした、歴史的事実をどうやったらなかったことにするのか?学歴詐称を平然とした顔で触れもせず、再び都知事だなんて、こんな人物に一票を投じた東京都民の気がしれない。

 第二次世界大戦でユダヤ人を救ったドイツ人のオスカー・シンドラー、日本人外交官の杉原千畝さんの功績をなかったものにするなんてあり得ないことだが、日本人の中には、歴史的実話でさえマジにそう考える輩がいる。これこそ、嘆かわしくて言葉もない。地震でマグニチュード6.5では、人はただ立ち尽くすのみで、何もできない! それがマグニチュード7.9の揺れの恐怖を体験した後に、濡れ衣で無惨に殺戮された朝鮮人のことを想像して欲しい。

 人間が狂うと暴走してしまう。極限の中であっても、私は吉島さん、大川さんのような人間でいたい!

 

 盆入り前に、机の周辺を整理した。2015年9月15日号の週刊現代の切り抜きが出てきた。故人になった伊集院静さんの連載コラム「男たちの流儀」だ。277回目は「物事を必要以上に追いかけるな」とある。伊集院さんは、人に対しても、物事に対しても何かを必要以上に追いかけたことはないそうだ。

「追いかける、という行為が私には未練に思えたからだ。追いかけて何か解決がつくならそれはよかろうが、世の中で起こっている大半は追いかけることでますますおかしくなるものだ」私も体験上、そう思う。

 伊集院さんが女優・夏目雅子さんを亡くした通夜の席で、夏目さんの祖父に斎場の隅に呼ばれてこう言われた。

「君は若い。一年と言わず、良い女性がいたらさっさと次の家庭を持ちなさい。いつまでも追いかけていたら、周りも不幸になるからね。それが大人の生き方だから…」通夜で皆んなが涙している席でのことだった。その時、伊集院さんは何を言い出すのだ?と思った。が「今はわかる。去って行った人は、時間は、それを追いかけられては迷惑をする」

この記事を保存していたのは、一年前に先妻を亡くして帰郷していた私の胸にバシッと響く直球のストレート球のような言葉だったからだろう!と今は思う。本棚の奥に、ビロードの青いグラスの中に妻の遺骨の一部が入れてあった。これを目にする度に、「ああ…あの人はもうこの世に存在しないのだ!」と実感していた。別に追いかけることもしなかったが、新たな出逢いを避けることもないのだ。とコラムを読み思った。そして、書店でひろさちやさんの「人は死んでもまた会える」(青春新書)を購入。そこには「お浄土は私たちの心の中にあります。愛した人とお浄土で再会できる。怨み・憎んだ人ともお浄土で和解できる。そう信じたとき、私たちの心の中にお浄土があります」

 お浄土で亡き妻に会った時には、あの後、愛する女性と出逢い、楽しい老後を過ごせたよ!と言えればいいのだ!と、思える自分がいました。もともと、自己肯定感(何はなくとも、自分は自分であって大丈夫)が強い私は、伊集院さんの文章で心が軽くなっていました。

 そして数年後に、私は最愛の女性と出逢い再婚しました。

 

 海の向こうでは今も戦争が続く暑い夏。79年前に2発の原爆投下を体験した日本は灼熱の日々。原爆が爆発すると、瞬間五千度の高熱。そして爆風は円状に広がり地上の全てのものを巻き込むようにして上空に向かい急速にもりあがる。キノコ曇です。広島の銀行前の玄関の階段に座って光線を浴びた人は瞬間に消え去りました。原爆資料館に展示してある「人影の石」です。女性でした。家族のための預金をおろしに開店を待っていて消されたのです。

「戦後何年と、毎年、夏の原爆投下や終戦日が来る度言われますが、私の場合その戦後が自分の年齢なんですよ。女として少し抵抗あるけど逃げることはできない」と、今年79歳になった吉永小百合さんは取材の時そう話して苦笑いされていた。東京大空襲の3日後の3日13日が誕生日。今、ウクライナ、イスラエルの戦争をどう見ていらっしゃるのか?

 吉永さんより10歳年上の美輪明宏さんは長崎での被爆者だ。爆心地から3.9キロ。一面ガラス窓の前の机で、美輪さんは万寿姫の絵を描いていた。出来上がりを確認するため椅子をずらし立ち上がり後ろへ3歩ほど下がった途端にピカッ!と白い光が窓から入りこんできた。一瞬、周囲がシーンとしたかと思うと幾千万の雷が落雷したかのような凄まじい音響が轟き爆風が身体全体を包むかのようにやってきた。出島近くの大波止桟橋で美輪さんは焼け焦げたポンポン船が油の浮いた波に揺れているのを見ながら思った。

「長崎は昔、信仰深い切支丹の大人やこどもたちが殺され焼かれた土地です。殉教の街なんです。きっとこの土地は、信仰深い善良な人々が悲しい死に方をしていく場所に定められているのかもしれません。私は、港の波の音が何千何万という人たちの悲しい鎮魂歌の声のように感じていました」

 89歳になった美輪さんは今もお元気で歌っておられる。たぶん、生きたくとも生きることができなかった多くの人たちに見守られているからかもしれない。朝日川柳に「ゲンは今 八十路を超えて胸におり」(京都府・音羽豊)とあった。被爆少年のゲンも老人となった。戦後79年の日本。核兵器廃絶の先頭に立つべき立ち位置にあるのに、我が国の指導者は、原爆を落とした国の腰巾着となり、軍備増強の兵器を購入して小判鮫状態だ。広島出身である首相よ、無惨に焼き殺された先祖に顔向けできる仕事しているのか?