あなたはパンパンの語源を知っていますか?現在公開中の映画「ゼロの焦点」は、このパンパンをめぐって起きる殺人事件が核となっています。松本清張原作の時代設定は昭和32年。前年の七月に経済白書が「もはや戦後ではない」と発表。神武景気、太陽族、一億総白痴化からナベ底景気の年。さて、このパンパンだが、朝日新聞「昭和語」では、「敗戦後街頭にあらわれた私娼のこと。パンパンガール、パン助ともいう。語源は不明だが南方の土着のことばともいわれ、それが米兵のスラングになったらしい」とある。今ひとつはっきりしない。実は、南方の土着…の由来は、日本帝国海軍からきているのだ。第一次大戦のとき、海軍がマーシャル諸島のサイパンに上陸し占拠(大正三年)。日本水兵が、言葉が通じないため椰子の木かげで手をパンパンと叩くと地元の女(チャムロ族)がやって来た。彼女たちの好む品物をやって交換に黒い身体を自由にできた(パンパン語源考・神崎清志)。「私のラバ(恋人)さん、酋長の娘」という南方の島で流行した歌も、占領した島々で海軍兵士たちが夜になるとジャングルの中でパンパンと手を打って合図をする愛の交換合図だった。つまり、日本海軍の隠語でもあった。サイパン島のガラパンという町には、日本人の経営する料理屋(売春宿)が30軒近くあり、上陸すると水兵たちの間では「明日は日曜、パンパン上陸」なる歌まで流行した。料理屋はパンパン屋とも呼ばれ、ガラパンにつながる坂道を「パンパン坂」と呼んだ。昭和の初期には、すでに日本人娼婦のことをパンパンと命名していたことになる。そして、敗戦から三日後の八月十八日。日本政府の戦後初仕事として議題にしたのが「国家売春指令」だった。時の副総理の近衛文麿公爵は、警視総監に会い、「四千万の大和撫子の純潔を鬼畜米英の陵辱から守る防波堤を築く」ことを要請した。二十一日には、アメリカ兵専用のセックス慰安施設を作る計画を、東久邇宮稔彦王首相、重光葵外相、米内光政海相列席の上で承認した。さっそく専門業者へ運営資金調達に暗躍したのが大蔵省主税局長で、後の首相になった池田勇人だった。二十七日には、大森海岸に一号店がオープン。翌日には皇居前広場で「特殊慰安施設協会」宣誓式が行われ、銀座の焼け跡街には「新日本女性に告ぐ」という大看板が掲げられた。こんな文面だった。

「戦後処理の国家緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」。国家によるパンパン女性の公募だ。応募者殺到で、1360名が採用された。焼け跡の夜に立って身を売ったのは、娼婦たちだけでなく、子供を抱えた未亡人から素人の娘たちだった。そうしなければ戦後を生きていけなかった。戦後日本のスタートはパンパン政策からという事実は忘れてはならない。平和と民主主義なんてパンパン政策の後jまわしにされたのだ。日本を救ったのは、武器で殺し合いをした男たちではなく、女性たちであった。

映画「ゼロの焦点」では、幸いに身を崩すことなく会社員となれた広末涼子に、元パイパンだった中谷美紀と木村多江の過去がからみ連続殺人が起こる。パイパンであった過去を知られないための殺人だが、それは戦後十年くらいしか経過していない時代背景を考えないとすぐには理解できない。戦後六十四年が経過した今日、高卒、大卒女子生徒たちの人気ナンバーワン職種は何だかご存知ですか?、キャバクラ嬢ですよ。援助交際なんて、もうすっかり巷では定着している。現代だったら、自分の過去のために連続殺人を起こすだろうか…と考えながら私はスクリーンを眺めていました。唯一、心が和むシーンがありました。新婚間もない広末涼子が出張から戻る夫(この時、すでに能登で殺害されている)のために食事の仕度をしながらラジオから流れてくるプラターズの「オンリーユー」を口づさむ。音楽は時代を体現する。そしてラスト近く、この「オンリーユー」が犯人逃走のバックに流れると時代背景が明確化されてさらに盛り上がりを見せるのです。ここまではよかった。能登の寒い海に漂う小船に、犯人の名前がクレジットとともに流れる。素晴らしいラストシーン。ところが一転、阿佐ヶ谷の自宅の庭で手紙や写真を燃やす広末涼子の姿が写る。途端に、テレビの二時間ドラマになってしまった。犬童一心監督のご乱心!?。銀座の画廊の店頭に掲示された犯人の自画像だけでよかったのに…。しかも、エンディングタイトルのバックには、中島みゆきの悪声がゲップが出るほど流れはじめる。「金返せ!」とつぶやきながら私は劇場を出た。「オンリーユー」と漂う小船のシーンで席を立てばよかった…。でも、映画評はともかく、パンパンには戦後生まれの私たちは足を向けては眠れません。実際に存在したパンパン娘のボルネオ・マキ、関東小政のせん、ふうてんのお六などは、敗戦当事はまだ19歳の素人娘たちだった。久しぶりに田村泰次郎の小説「肉体の門」を読みたくなった。