「山粧う」に合った画像がない

 

一つのネット句会に参加している。

11月句会の結果が報告されたところである。

今回は「山粧ふ」が主テーマ(兼題にちかい位置づけ)で、紅葉関連3句が条件だった。

「山粧ふ」がテーマであったが、私は現代片名使い派だから「山粧う」で、句を提出。

 

山粧う寡婦を麓に迎え入れ

 この句は、私自身の判定基準でいえば、(100点満点で)65点句。

 

「未亡人」という単語には「早く亡くなれ」といった語感があるので、私は使わないが

「寡婦」にも、夫唱婦随(が美風であり女性の義務でもある)で、夫が亡くなれば自活能力がなく困惑している女性のような語感がある。

「麓」も、この句には季語に山が明示されているので、重複感がある。

自己採点で60点以下なら出句しないが、敢えて(やむなく締め切りに迫られて)出句したのは

類句はないだろうという自信があったから。

 

選句集計の後、出句者のお一人がご自分のブログで、

出句紹介と自解と自戒を公表なさっていた。

 そこで「山粧う(ふ)」について研究。数時間。

 

その方の出句は以下の3句

 

山装ふ城崩れしも威の存り来 

蔦紅葉白壁に揺る影も朱

紅葉山配しダム湖の静かさよ

 

山装ふ城崩れしも威の存り来 

を取り上げる。

 

一読、熊本城を思い浮かべる。同じく一読「存り来」の「来」の意味が分からなかった。

「存り」と書いて「あり」と読ませるのは、まあ~アリといえる範囲だろう。「在」よりは「存続」

の意味合いが出るかも。

私は一度しか熊本城を覗いていないが、作者は何度も訪問・見学なさっているようで、

今回も地震でキャンセルしなければならなかったが訪問を予定なさっていたよう。瓦などが吹っ飛んでしまい、櫓の石垣なども崩壊寸前なれども、全体としての城の威厳は保たれている。そして城の背後の山は今年も色鮮やかに「秋の山」となった。

 

「山粧ふ(う)」の例句は、多くはない。

 

楢くぬぎ枝染め分けて山粧ふ 荒 久子
 

滝になる水湛へたり山粧ふ 菅 裸馬
 

芭蕉像置去りにして山粧ふ 斎藤 都

 

水靄の奥に色あり山粧ふ 手島靖一

 

山粧う八瀬童子が謀りごと 仁平勝 東京物語

「清月歳時記」(野田よたか編)の記述がコピーしやすいので、引用。

中国の林泉高致の画論に次のような言葉があり春夏秋冬の各俳句季語が生まれている。


  春山淡冶にして笑うが如く→山笑う(春)


  夏山蒼翠として滴たるが如し→山滴る(夏)


  秋山明浄にして粧うが如く山粧う()


  冬山惨淡として睡(ねむ)るが如し→山眠る(冬)

野田さんは、「山笑う」、「山粧う」と現代仮名遣いで表記。

山粧(よそお)う の解説(三省堂大辞林) 

俳句で,紅葉美しく彩られた山の形容。 [季] 秋。 《 搾乳朝な夕なを- /波多野爽波 》

 

 

水牛歳時記(水牛という名の人の編じたネット歳時記)での解説:

 

秋の山の景物は一に紅葉である。夏の間盛大に茂った落葉樹

は秋の訪れと共に頂上の方から次第に色づいて来る。黄色、紅

色が杉や松の緑の中に縞模様や斑点模様を描いて際立つ。この

頃のあたかも山が化粧したような景色を「山粧ふ」(やまよそ

う)あるいは「山粧ほふ」(やまよそおう)と言う。

・・・・

 

挙げている例句は、

 

谷底の朴より山の粧ふらし   皆吉爽雨

滝になる水湛へたり山粧ふ   菅裸馬

搾乳の朝な夕なを山粧ふ   波多野爽波

粧へる山に働き石を切る   加藤三七子

三山のことに羽黒の粧へり   角川照子

粧へる山ふところの深さかな   成田昭男

芭蕉像置き去りにして山粧ふ   斉藤郁

 

ここで、「山粧う」と「山粧ふ」で別個に検索した「俳句検索」(清水哲男編)を

再度検索 (「山」 & 「粧」で) 。粧へる山といった句を検索対象とするために。

検索対象を「俳句検索」2000年から「続 俳句検索」2007年に変更

 

ひ香搗き水車音高む 高橋六一
 
搾乳の朝な夕なをふ 波多野爽波
 
寂寞と滝かけてへり 永作火童
 
ふ箱根八里を遠巻きに 吉田克己
 
むかし女人禁制のへり 伊藤トキノ
 
ひしにしづもる百の罠 吉田英子
 
ひしのどこかに忍釘 直江裕子
 
へるへもの焚くうすけむり 中村代詩子
 
ふパン工房四方ガラス張 高橋美智子
 
ふいつよりの火の記憶かな 石田阿畏子
 
ふ銀河鉄道始発駅 土居夏枝
 
大佛の夢のお告げに 高澤良一 鳩信
 
う地道な術(すべ)といふべかり 高澤良一 寒暑
 
はず俵藤田の唐沢 高澤良一 ぱらりとせ
 
奈良ひそめし直哉の忌 足立行子
 
女体よりひの始まれり 本桂仙
 
百羅漢抱きて室根のふ 畑中次郎
 
田が海へぐいと迫り出しふ 猪又秀子
 
ぐいと曲る赤べこの角う 吉田トヨ
 
へるに傷みし磨崖仏 原口英二
 
狩くらと聞えしへり 武藤和子
 
ふ一灯で足る露天の湯 菅崎磨もる
 
最澄のふことをせり 鷲谷七菜子
 
湖覚めぬに囲まれて 畠譲二
 
お出ましの少なき貫主ふ 竹中碧水史
 
大由布に従ふへる 五十嵐播水
 
水晶をもはや産まざるふ 藤田湘子 てんてん
 
国果つるここの岬ふに 田元北史
 
ひて古里の高からず 土不鳴

例句採録の多さを誇る角川『俳句大歳時記』(2006)の「山粧ふ」より圧倒的に多い句が登場。

 

 

水原秋櫻子・加藤秋邨・山本健吉監修『カラー図説日本大歳時記』 (講談社 1981 参照したのは1991年発行の第12刷)

 

 「山粧う」は「秋の山」の次に別季語として登場。

「やまよそう」 「やまよそふ」と新旧仮名遣いで左右にルビが振られ、

関連季語の中に「やまよそおう」とルビ打ちされた「山粧う」が登場。

(講談社版は現代表記法を優先)

 

解説は飯田龍太が書いている。

龍太は、「山粧う」という季語に対しやや低い評価を与えている。

 

「山笑う」は「卓抜」で、「山粧う」は「妙味に欠ける」そうである。

山笑うには、俳諧味があり、他方多義的な受容が可能であるのは事実だが、

例句などみれば、初めてこの言葉(山粧ふ)を季語として利用した人が予想できなかった

展開がなされているのも認めざるを得ないと思う。

 

↓参照。

 
カラー大歳時記の「秋の山」の画像

 

 

角川版大歳時記では、「山粧ふ」と旧かなで表記して、右横に、「やまよそおう」、左側に

「やまよそほ」と旧かなでルビを振っている。その上で、関連季語の中で、「山粧う」と現代表記のうえ、「やまよそ」とルビ打ちしている。

 

角川版の「山粧ふ」の解説は長谷川櫂が書いている。言葉は違うが、山眠る、山笑うに比較して「闊達さに欠ける」と否定的評価だが、龍太の2番煎じといった感もある。

(どちらにしても、私は龍太、櫂の山粧うの低評価に与しない。)

 

私は、春の山の風情を「山笑う」と表現して「砕けた雰囲気」があるとは思えないし、

「山粧う」をかしこまりすぎたとも思わない。「笑う」「眠る」より「粧う」の方が、リアリズム、リリシズムの点でよほど素直で、率直な感がする。

 

『俳諧歳時記』1933 (1947年発行のものを利用)では「山粧ふ(やまよそほふ)」 は「秋の山」の傍題扱い。古書校訂欄で、北宋の人の詩は、「年浪草」からとして引用されている。しかし

例句は挙げられていない。

 

山粧うを軽視するなら、こういった扱いも考えられるところであろう。

 

「年浪草」とは?

 

華実年浪草

歳時記。曲亭馬琴著。1803年(享和3)刊。内容は,〈発端三論〉で,俳諧の字義,連歌権輿(はじめ)の論,俗談平語の弁を記し,季語を四季別に,各月と三春(夏,秋,冬)を兼ねる詞に分けて解説し,後に,俳諧の式や恋の詞,付合の論,点取の論などを付している。収録の季題は2600余にのぼり,従来の歳時記の京都中心の記述と異なり,江戸中心の解説が施されている点に特色がある。1851年(嘉永4),藍亭青藍により本書が増補されて,《増補俳諧歳時記栞(しおり)草》が刊行された。

 

 馬琴とは?

滝沢馬琴

江戸後期の戯作者。江戸深川生。幼名は倉蔵、本名は興邦のち解、字は吉甫、別号に曲亭馬琴・著作堂主人・蓑笠漁隠等。亀田鵬斎に入門し、黄表紙を出す。『椿説弓張月『南総里見八犬伝』等読本に力を入れ第一人者の地位を占める。嘉永元年(1848)歿、82才

 

 

ついでに1933年の俳諧歳時記の位置づけにも関連して

 

wikipedia の解説

歳時記(さいじき)は、「歳事記」とも書き、もともと四季の事物や年中行事などをまとめた書物のことであったが、江戸時代以降の日本では主として俳諧俳句季語を集めて分類し、季語ごとに解説と例句を加えた書物のことを指す。現存する最古の歳時記は6世紀中国荊楚地方の年中行事を月ごとにまとめた『荊楚歳時記』であり、これが奈良時代に日本に伝来し「歳時記」という呼称が知られるようになった。日本独自の歳時記としては貝原益軒による『日本歳時記』(1688年)が始まりとされる。

一方、季語を収集した「季寄せ」や四季別の類題集句集は連歌のころから存在していたが、両者の要素を組み合わせたものとしては北村季吟の『山の井』(1647年)が最初であった。この種の書物で「歳時記」の名を最初に使ったのは曲亭馬琴の『俳諧歳時記』(1803年)で、明治になっても増補版が翻刻されていた。

1872年12月より日本に太陽暦が導入され、歳時記の内容に大きな混乱をもたらした。1874年の『俳諧貝合』(香夢)が陽暦による最初の歳時記であり、同年序の『ねぶりのひま』(四睡庵壺公編)では四季とは別に新年の部を立て、立春を2月において陰暦から1か月遅れで調整しており、現在の歳時記の多くがこの方法を引き継いでいる。その後改造社の『俳諧歳時記』(1933年、全5巻)が出て近代の歳時記の体裁が整えられた。

 

ここまで書いて(コピー・ペーストを重ね、制限字数が心配。一度upしてまだ書けることを確認。

 

「山装ふ」の句に戻ろう。

 

ワープロ打ちするかぎり「やまよそおう」と打てば「山装う」の字がでてくる。「う」を「ふ」に直すと「山装ふ」になる。

ところで題は、「山粧ふ」で、これは多分明治以降ひょっとすると宝井馬琴以後、漢詩の一節から新たに作られた「季語」ということもあり「山粧ふ」と表記されている。

それを「山装ふ(う)」と表記するにはそれなりの「覚悟」「構え」が必要。

 

そういったことが大好きな私の句、

 

 花粉症が一面記事に山恥じる
 

この場合は花粉症という新季語が配置されているが、

笑う山は恥じる山であるという貞門的俳諧味を・・・ まあ自賛はやめにして・・・

 

どの歳時記も公認していないが、いまでは「山装う」も受け入れるべきというのが私の立場。

 

さて威をもって崩れた城が尚装う山に立ち向かっているという姿勢をもう少し前面に出してはいかがというのが私の評。

 

威という以上は、雄大な自然に対して城と言えど脆いものというのが句意ではないと

思う。

 

字数制限が怖いので後の句はまた別の機会に。