尼崎市で田能と言えば、田能弥生遺跡。

横に広い3市共同配水場がある。
その建設工事中に、じゃかすか土器が出てきて、遺跡の存在が判明した。

残された部分に遺跡が集中していたとしても大集落であったから中心部分は他にあったかも。

今遺跡として残っている部分では3棟の住居跡だけが確認されているが、数百年間利用されていたので、より古い部分(住居跡)は柱跡なども残らなかったかも。

目の前に猪名川が流れている。かなり高い土手になっているが、弥生時代にはかなり海に近い低湿帯であったであろう。


今日の猪名川の流れ

水深10センチもない流れである。涸れる寸前といった感じ。
その分、草地は広い。両岸の内側は公園になっている。

画像にみえるのは、配水管。向かって左に配水場があり、この位置よりかなり背後(北側)に浄水場がある。

15世紀に於いてこの地区には田能村荘があったらしい。

実名・生没年未詳。室町時代1461年(寛正2)、田能村荘の領主であった大和守は、原田荘(六車郷)の久米井をめぐって領界杭を取り除く行動にでた。興福寺春日大社は大和守を排除するため訴訟を行なった。田能村氏は、国人と呼ばれる土豪層で、当時、管領家で摂津守護細川勝元被官であった。この事件では興福寺側は久米井の件で大和守を死刑に、その所領田能村荘を寺社へ寄付するよう幕府に申し入れてきた。幕府は大和守の逃亡を理由にその跡(欠所)を守護の支配下とすることとしたが、寺社側は承諾しなかった。守護は没収地を支配し続ける代わりに橘御園の得久名ほかを渡すことで妥協した。これを受けて寺社側は大和守の田能村城(屋敷地)の外城(出城)に放火し、その一画に神木を立てて勝利を宣言した。これを後の田能春日社とみなすことができる。

↑ウェッブ版尼崎郷土史事典からの引用。
最終行に見える春日神社は、私の尼崎66社中49社訪問記のどこかで紹介したが、最近では豊中市在住の方の街歩きブログ内で紹介されてる。

尼崎市内だけでもこの種の「井」(灌漑用水取水口)と水争いの記念碑はいくつかある。

三平井にまつわるエピソードはこのブログで紹介したことがある。

今の猪名川は、やや上流の藻川との分流点で、2市(伊丹 尼崎)ないし3市(西宮)が大量に川の水をかすめ取って、水道水として利用するための浄水施設、配水施設へ廻しているが、15世紀においては川筋の変化と渇水により、川から灌漑用水を安定的に確保するのはかなりむつかしかったようである。

 取水したものは用水路で各小地域(小さな村)へ分配するのだが
各所に堰を設けて調整するが、絶対量が足らないと堰の開け閉めは
村の存亡がかかる一大決定となる。

↑の碑の存在は知っていたが、初めて見た時には
原健三郎という建設大臣の名だけが印象に残った。

中選挙区時代の兵庫2区選出の大物代議士である。
こういう人が大臣になると建設省の課長連が、局長の耳打ちがなくても
気を利かせて、兵庫の案件に優先的に予算をつけ、
知らせを受けた県は急いで大臣に揮毫などを依頼するのであろう。

ともかく原さんの揮毫ないし名入りの記念碑は多い。



春光や遠まなざしの矢大臣 吉岡禅寺洞

朝食うまし我は朝の木の大臣 阿部完市

双六の上り大臣関白に 下田喜代

大臣の台詞のごとき海鼠かな 藤井三吉

春光や遠まなざしの矢大臣 吉岡禅寺洞

口開いて矢大臣よし初詣 阿波野青畝(1899-1992)

萱に生るゝ蜻蛉大臣も此日生る 久米正雄 返り花

すき者の大臣気疎き月の宴 寺田寅彦

夕涼を井の字飛白の大臣かな 尾崎紅葉

山荘客を見すして大臣の試筆哉 尾崎紅葉

大臣はかかしづくりと言はざりき 佐藤春夫 能火野人十七音詩抄

泳ぎ子よ大臣などになる勿れ 津田清子

大臣(おとど)雛頬ひんやりの忠義かな 渋谷道

猫髭の大臣ありしよ鮎を食ふ 堀口星眠 樹の雫


宗鑑に葛水給ふ大臣かな 蕪村 夏之部 ■ 探題寄扇武者