コム・デ・ギャルソン研究1
1、デザイナー川久保玲の紹介
日本人のコレクションのブランド、ファッションデザイナーで最も注目を浴びる存在と言っても過言ではない存在のコム・デ・ギャルソン、とその経営者、川久保玲さんの紹介と作品への感想を書いていきたいと思います。今回は川久保玲さん。
川久保玲(コム・デ・ギャルソン代表取締役社長兼デザイナー)
1942年10月11日生まれ。1964年に慶応義塾大学文学部哲学科卒業。旭化成の広報部(ウェキペディアではワコール?)で働き、フリースタイリスト(この頃は名乗ったもの勝ち)になり、1969年に国民金融公庫から借りてマンションメーカーのデザイナーとなる。(本人曰く、「仲間が集まってなんかやろうというノリ」で作った。色々ショップを回って置いてもらえるように頼んでた時代もあったそうで、その時は水玉ワンピとか作ってたみたいです。)
そして「COMME des GARCONS」(コム・デ・ギャルソン、名前の意味はフランス語で「少年のように」、名付けたのは川久保玲本人曰く、自分ではなく知り合いだそう。別のインタビューによれば、言葉の響きが気に入ったから採用したそう。)の名称で婦人服製造・販売を開始し、1973年に「COMME des GARCONS」を設立。
75年、東京コレクション初参加。
81年にパリのプレタポルテにデビュー(パリコレ参加)。初コレクションで"黒の衝撃"、"ジャパネスクカジュアル" 、“東からの衝撃”(みたいな言葉)批判では”ボロルック””乞食ルック”などと銘打たれ注目を浴びる。
(上が代表例の2つ。具体的に言うと、「当時、レディスではあまり使われなかった黒の多様」「穴あき」、「ほつれ」、他には「垂れ下がり」など西欧にはなかった新たな美意識を提案した。70年代ロンドンのストリートで流行したパンクファッションの一部をモードに持ち込んだとも結果として言える。)
山本耀司とともに、賛否両論ありつつも(保守系のフィガロは「ぼろ服」「第三次世界大戦の生き残りルック」と批判、ヴォーグは「モダンで自由、新鮮」などの言葉で賛成。)。
パリコレで生き残れたという事実で見れば評価されたと言える。
そして80年代前半、日本のストリートでもデザイナーに対する共感、敬意も込めてファッションメディア、販売員などが着始め、徐々に広まり、そして一般にも黒色の服はヒットし「カラス族」という言葉が出来るほど流行した。黒は当時、インパクトがある力強い色だったがその普及、慣れによりその力が薄まると万華鏡をテーマにしたカラフルな服を作り上げる。
その後もパリコレクションを中心に様々なブランドを展開し、挑戦し続けながらも事業として成立させ続けている。著名人、ファッション関係者にもファンが多いブランド。
売上は日本を中心に150億円程度、ブランドは従業員400名、店舗200ほど。デザイナーは川久保本人と渡辺淳弥、栗原たおの3人。
最近のインパクト
97年春夏のコレクションで「こぶ」のある服を作る。
参考資料
- フランス グラン, France Grand, 井上 嗣也
- コムデギャルソン
- 深井 晃子
- ファッションの世紀―共振する20世紀のファッションとアート
- 深井 晃子, 古賀 令子, 石上 美紀, 徳井 淑子, 周防 珠実, 新居 理恵
- 世界服飾史
主な参考サイト
K T J + B J O R K { COMME des GARCONS }
今見つけた紹介サイト。
COMME des GARCONS (会社ではなく私的紹介サイト)