景山民夫さんの思い出 | 「BLAST塾長日誌」

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早いもので、直木賞作家でもあった、景山民夫さんが亡くなって(帰天されて)から、もう13年になる。

1998年1月27日午前1時過ぎ、夜、プラモデルを作成中に、タバコの火が、有機溶剤に引火して、大爆発を起こし、火事となり、一酸化中毒となられたのが、直接の死因であったとお聞きしている。

あの日のことは、よく覚えている。

一日の終わりか朝に、一日を振り返るという習慣があるのだが、同日の同時間帯に、その日、一日を振り返っていた。偶然、時計を見ると、夜中の1時20分だったのを覚えている。

その日は、それで寝た。

翌日、頼まれていた司会のボランティアがあり、行事が始まる前に、関係者から「吉田さんの好きな、景山民夫さんが、亡くなったね」と言われて、訃報を知った。

唖然とした。

景山さんが、そんなに早く亡くなるとは、考えたこともなかった。涙をこらえつつも、半泣きのような状態で、司会のボランティアを終えた。

後日、出版の関係者に出会った時、生前、こういう話をしたことがあると教えて頂いた。

景山さんと、その方は、ホテルで話をしていたらしい。「どういう死に方をするか」という話題になった時、出版関係の方は「孫に看取られて、畳の上で…」ということを話したらしいが、景山さんは、「ぼくのは、きっと、みんなビックリすると思うよ」と言ったと、お聞きしたことがある。

生前、よく予知的な能力についても話しておられた方なので、もしかすると、予見はしておられたのかもしれない。

その後、数年して、「ザ・リバティ」という雑誌で、「私の好きな先人の言葉」という企画があり、自称「カゲヤマニア第1号」の私としては、ここで「景山民夫」という名前を「風化」させてはならないと思い、景山さんの言葉というか、「すべては愛に始まる」という書籍のタイトルで文章を書き、応募をした。すると、雑誌に載せて頂いたことがある。

(もう、かれこれ9年近く前のことです。若き日の塾長の顔写真も載っています。)

http://j-blast.com/liberty.html

(「ザ・リバティ」2002.6月号より)
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これも、後日、編集の方が見えられた時に、「もう、景山さんも『先人』になっちゃったのね。」と、仰った。おそらく、雑誌の企画としては、歴史上の偉人であるとかを、予定されていたのだ。

「それでも、ありがとうございます。『景山さん』の名前を出して頂いて。」とも、仰って頂いた。その方も「カゲヤマニア」だったのかもしれない。

景山さんとは、生前、何度かお会いしたことがある。直接、言葉を交わしたのは、1988年の3月ではなかったか。姫路に見えられた時に、お会いすることがあった。その当時は、まだ、直木賞作家にはなっておられなかった。

当時、「原発反対運動」をやっていたことがあり、景山さんに「署名をお願いします」と、用紙を差し出したら、「この署名は、僕もすでに東京の方で、署名したよ」と、仰っていた。

(時代背景を説明すると、1986年4月に、ソ連でチェルノブイリ原発事故というのがあり、ユーラシア大陸全域が、多かれ少なかれ、放射能で汚染された。世界の当時、環境問題に興味があった人間、あるいは、比較的、こういったことに意識の高い人間にとっては、原発問題というのは、大きな問題であり、無視できない問題ではなかったか。ちなみに、その当時、「エコロジー」という言葉を知って、生活の中に取り入れていた人は、私のまわりには、ほとんどいなかったと記憶している。)

景山さんの、著書をお見せして、サインをお願いした。

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「ONE FINE MESS 世間はスラップスティック」(マガジンハウス刊)をお見せしたら、「よく、この本をお持ちですね。部数も少なくて、僕の手元にも、もうほとんど残っていないのに…」といったことを仰った。初版本を、すぐに買っていたのだ。

ついでに、リチャード・ブローティガンの洋書版の「Tokyo-Montana Express(東京モンタナ急行)」を持っていたので、「こちらにもサイン、お願いできますか」とたずねてみた。

「いいの、これ?僕の本じゃないけど…」と仰ったので、
「以前、ブルータス誌で、ブローティガンと対談されていたじゃないですか。私も学生時代から、ブローティガンが好きだったので…」
「ブローティガンも、亡くなったね」
「今度、アメリカに行くことになったので、お墓参りでもしようかと思ってるんですが、場所は、サンフランシスコでしょうか。ご存知ですか」
「僕は良く知らないけど、四谷にある◯◯さんのバーで聞けば、分かると思うよ」

と、こういった会話を交わした。

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このページには、今も、その時の署名用紙がはさんであった。「ONE FINE MESS 世間はスラップスティック」のあとがきを確認すると、1986年1月とある。そうか、もう25年が過ぎたのだ。

そうだ、一つ書き忘れたことがあったので、追加しましょう。

現在の中学1年生のクラスが、小学校5年生の時のことですが、今よりも、ずっと少ない人数でスタートした。男の子2人だ。

ある授業の時に、この2人の誕生日の話題になった。すると、一人は「1998年1月24日生まれ」で、もう一人は「1998年1月30日生まれ」だった。

この時は、本当に驚いた!

景山さんの亡くなった「1月27日」の、ちょうど前後3日に生まれた子が二人、目の前で授業を受けているのだ。

そのことを、彼らに話したら、「じゃあ、景山さんは、このあたりやね」と、自分たちの机の真ん中の通路を指差していた。

これって、偶然としか言えないけれど、「カゲヤマニア」の私の目の前で起こったこととしては、「偶然」と片付けるには、「きれいに」出来すぎていると思いませんか。とにかく、こんなことがあったのでした。

ところで、先ほどの「歴史上の偉人」のことだけれど、今やBLASTでは、景山民夫さんは「BLASTが選ぶ偉人ポスター」の中では、「一偉人」となっている。

私にとっては、景山さんは、ある意味において、大恩人ともいう人なのです。

このあたりの話も、また、いつかできればいいなと、思っています。



【追記:2013.08.12】

ところで、BLAST塾長、現在は「原発反対論者」ではありません。

このブログの読者なら、よくご存知でしょうが、どちらかといえば「原発推進」へとコペルニクス的転回をしています。

だって、このチェルノブイリが起こってからの25年間、それほど大きな事故も起こらず、比較的安全に運転されていたことでも「日本製の原発」に関しては、一定の信頼を持つように至ったからです。

現在、「1日100億円を燃やして」電力を生み出していることを考えるなら、1日も早く「原発稼働の再開」が望まれますし、それが取るべき道でもあるでしょうね。