「こんな事」としか思われない、権力者による「思想信仰の自由の迫害」「表現の自由の迫害」「基本的人権の迫害」に対して、むしろ積極的に賛成するであろうクリスチャンは少なくないと思われる。
何故「こんな事」というのかわからないクリスチャンは更に少なくないであろう。
そして無関心なクリスチャンは結構多いだろう。
そうでないことを私は望んでいるが・・・・
あいもかわらず「日の丸君が代問題はむずかしいよねぇ~」「日本は信仰の自由がまもられて感謝ですねぇ」「政治と信仰は別だから~」と言い続けるのでしょうか。
日の丸・君が代は「ただの国旗」「ただの国歌」ではなく、あきらかに国粋主義的イデオロギーとそれを支える宗教(国家神道)と結びついており、それを拝ませる強制力をもった祭儀道具であると思います。
それらは「ただの記号」と「意味」をわけて考えることはあり得ない話。
それは今回の大阪の橋本知事の発言にあきらかに現れています(彼だけではない。某帝国老人都知事もそうだし、国粋主義的イデオロギーを持ち、国家神道を奉じているいる人たちは、日の丸・君が代を「ただの国旗」「ただの国歌」とはみていない。強制力をもった祭儀道具として扱っている)。
クリスチャンが「ただの国旗」「ただの国歌」だから、日本に住んでいるものとして、日本人として当然!と言えちゃう呑気さに驚きあきれます。
百歩譲って「ただの旗」「ただの歌」としても、それを権力者が強制し、そうしなければ仕事(収入)を奪うという発言をした時点で、それは「ただの旗」「ただの歌」ではなくなってしまう。
明確なファシズムの為の道具・踏み絵だ。元弁護士が聞いてあきれる。
日本のキリスト教会、集会は100年前の韓国より「人の価値と自由」への意識ははるかに低いのではないかと思わされる。
「私たち国民は維新治下でついに反省し、目覚めました。「自分の力でやらない民主主義はほんものではない。自分が血と汗と涙をささげない民主主義はほんものではない」と。
こうして多くの人たちが、牧師、神父を先頭に監獄へ行き、外で祈祷会を開いてたたかい、直接参加できない国民は心からこれを声援しました。」
「韓国はクリスチャンが多くていいねぇ。」「何故、そんなに多いのか。」その答えを求めて国民性や方法論ばかり議論しているクリスチャンは、完全に本質をみうしない、日本に遣わされた自分の責任を棚上げしている。
「信仰と政治」を分け、「旗や歌とその意味」を分けて恥じない「霊的」指導者たちと先頭で監獄へ行った霊的指導者の違いだろう?
日本の統治下、韓国ではクリスチャンが命を捨てて偶像礼拝と戦い、解放後は、クリスチャンが命を捨てて思想と信仰の自由(民主主義の基礎中の基礎)の為に戦ったのだ。
歴史を学べば(ただし謙虚に)、日本の教会に力がない理由。そしてまた同じ道を歩んでいることが分かるはずだ。
では、私はどうしたらいいのか・・・
震災で何もできないこととは比べようもないほど、無力感と忸怩たる思いです。
なぜならキリスト者である限り、当事者のはずですから。