で、結局なにを言いたいかというと、次の事です。



だから、例え講壇から、戦後からバブル崩壊までの時代に御言葉に生きて

「単なる聖書に関する博識以上の根強い思索力・判断力、および確かな解釈に支えられた信仰」と彼が生きた世界での適用を語られたとしても、我々が御言葉を適用しなくてはならない生きている世界が、あまりにも違っているので私には殆ど理解できなかったのだろうということです。

(*ただし、その生き方を私は見て、見習うことはできると思います。そしてそれこそが受け取るべき本質的なメッセージなのでしょう。)




まして、聖書から原則を抽出し、日々我々が歩む世が、どのような世かを理解しようとし、その世で必死で生きようとし、どのように適用していくかという作業を日々真剣に繰り返していない人(私のことね)の話は、ただの講壇からの説教にすぎず、伝わる言葉には決してなりえないのです。

いわんや、聞く人が御言葉に生きるように変えられるなどありえないでしょう。

まさに今は「御言葉を聞くことの飢饉」なのです。




そしてもう一つの結論。

兄弟姉妹が生きている世がどのようなものかを見極め、その中で必死で生きている兄弟姉妹に伝わる原則を聖書から紡ぎだし、それをどう適用していくかを真剣に考え、言葉を練り、すり合わせていく作業を私自身がするしかないということです。



私自身が聖書から原則を抽出し、適用し自分が御言葉に生きて、その御言葉の原則と適用とその方法を同じ世代かその下の世代に伝えていかなくてはならないということです。

その生き方を、私は戦後直後クリスチャンから学ぶことができるはずです。


更にもう一つの結論。

兄弟姉妹が生きている世がどのようなものかを見極められなくなり、それを理解しようとする意識と思考力が衰えた時、そして世で必死で生きている兄弟姉妹へ取次いでいく為に

言葉を練ることができなくなったら、私は、講壇に立つ順番が回って来ても御断りするべきだという事です。



それまでは、もし順番がまわってきたら講壇に立たせて頂き、つたないメッセージを語らせて頂きたいと思いました。



ということで、私はサタンが作り出した日本版マトリックス(仮想現実)から
たぶん覚醒してしまいました。

飛んじゃうかもよ(笑)。





最後に再度申し上げますが、私が聞いてもよく分からないので、その人の学びが駄目だとか言っているのでは決してないということ。

決して誤解しないでくださいね。

その人の働きや人格、信仰を否定するつもりは毛頭ありません。

それほど素晴らしい人の素晴らしさを理解できない自分が残念であったということだけです。