講談社現代新書というものは1964年に刊行されたようですが、
巻末に「講談社現代新書の刊行にあたって」という言葉がありました。
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「教養は万人が身をもって養い創造すべきものであって
一部の専門家の占有物として、ただ一方的に人々の手元に配布され
伝達されうるものではありません。
しかし不幸にして我が国の現状では、教養の重要な養いとなるべき書物は、
ほとんど講壇からの天下りや単なる解説に終始し、知識技術を真剣に希求する
青少年・学生・一般民衆の根本的な疑問や興味は、けっして十分にこたえられ、
解きほぐされ、手引きされることがありません。
万人の内奥から発した真正の教養への芽生えが、こうして放置され
むなしく滅び去る運命にゆだねられているのです。
(中略)
単なる博識以上の根強い思索力・判断力、および確かな技術に支えられた教養を
必要とする日本の将来にとって、これは真剣に憂慮されなければ
ならない事態であると言わなければなりません。」
以下のように脳内変換をしてすごく反省させられました。
「聖書理解は万人が身をもって養い適用すべきものであって
一部の牧師・長老・伝道者・教師・メッセンジャーの占有物として、
ただ一方的に人々の手元に配布され伝達されうるものではありません。
しかし不幸にして我が教会の現状では、信仰生活の重要な養いとなるべき聖書は、
ほとんど講壇からの天下りや単なる解説に終始し、真理といのちを真剣に希求する
青少年・学生・一般民衆の根本的な疑問や興味は、けっして十分にこたえられ、
解きほぐされ、手引きされることがありません。
万人の内奥から発した真正の信仰への芽生えが、こうして放置され
むなしく滅び去る運命にゆだねられているのです。
(中略)
単なる聖書に関する博識以上の根強い思索力・判断力、
および確かな解釈に支えられた信仰を
必要とする日本の将来にとって、これは真剣に憂慮されなければ
ならない事態であると言わなければなりません。」
・・・はい。反省です。