かこうと思っていて忘れた記事を思い出した。


命と性の日記


>A「牧師の言葉には、間違っていると思っても従うべきです」
>B「本当に間違ってもですか?信徒は修正をお願いすべきでは?」
>A「牧師が間違っていたら、神様ご自身が牧師を正し、罰します。信徒は責任がないのですから黙って従えばいいのです。」
>B「なるほど、よく、わかりました。そうします。」

>日本のキリスト教界では、「なさそうでありそうな会話」ではないでしょうか?


「ありそう」どころか、うちの教会ではあります。大きな違和感を感じながら、「うーんそうかなぁ」「俺はできそうにないなぁ」と思った記憶があります。


それを言う時の聖書箇所は、第一ペテロ5:5 「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」

「長老たち」の前に、「すぐれた」「学びができる」「おもしろい」「成熟した」とかなんの修飾語もついていないので、無条件で長老に従うべきという「理屈」です。

今ははっきりわかります。まちがいなく読み込みすぎだし、まちがった私的解釈だと。

修飾語がないから無条件なんて、とんでもない論理の飛躍です。

逆の意味の読み込みをあえてするなら、「そこに条件がなくても他の聖書個所には明確に条件が書かれています。その他の聖書個所であげられている高い条件の倫理性と道徳性、御言葉への深い理解と従順は、書く必要がないほど当然の条件です。ですから、その条件を書く必要もないほど当然の前提として実行している長老には従いなさい」という話もできるはず。

全く無批判・無条件にただ長老に従うというのは、私も神の前に責任を放棄した無責任な態度だと思います。

>多分こういうのは、日本伝統美学、国家神道的美学、軍人美学、儒教的美学、任侠道的美学などであって、「聖書が示す従順の美学」ではないでしょう。これは、よくある福音が福音以前の価値観を転換させるどころか、支持材料とされ、福音が福音以外の価値観に従属するという構造のように思えるのです。


すごくすっきりしました。

なぜなら上述のような学びをするのは日本の西側に多い傾向があるなぁと感じており、しかも西側の人たちはやたら勇ましいというか、キリストの犠牲と(例えば特攻隊等の)天皇教に捧げられた犠牲との区別もつかないほど右翼顔負けの愛国者がいたりして不思議でしかたがなかったのです。

なぜこれほどキリストに「熱心」で「忠実な」人たちが、右翼顔負けで国家神道的異教の価値観を支持できるのか。ずっと不思議でしたが、なんてことはない「福音が福音以前の価値観を転換させるどころか、支持材料とされ、福音が福音以外の価値観に従属するという構造」なのかもしれないということに気付いた時すごくすっきりした次第です。

というか実は、明確に気付いてはいたのですが、「これほど明らかな事にだれも気付いてない」「こんな明らかな事を気付かないはずがない」ということは、「また私の独りよがり的批判だ」と思っていたので、ヤンキー牧師さんがこういうやって言語化なさっているのを読んでうれしかったのです。