クリスチャンの政治的立ち場というのは不思議で、みな同じ信仰をもちながら、
それぞれ確信をもって全く違う立場にいる場合が多い。
私などは、信仰の結果として当然のように人権(信仰の自由)、平和、平等という思いが出てきて、それを真剣に守ろうとしている党と考えると日本共産党という結論に至ります。
しかし共産党=共産主義=無神論という理由で、主張を聞きもせず、名前だけ自由、民主という私には実際は正反対のことをしているように見える天皇教信者・日本教信者の党を
支持している兄弟姉妹もいます。
ただ誤解しないで頂きたいのは、それは私にはまったく理解できませんが、それを否定するつもりは全くないということです。
ですから、私としては、正しいことを言っているように思えて仕方がない共産党がなぜ党勢を伸ばせないか不思議でしかたがないのです。
と、思っていたらやはり先生がそのことを分析していました。
で、上記のものを読んでいて我々クリスチャンも同じ批判があてはまるのではないかと
思わされました。同じ病魔が潜んではいないでしょうか。
以下の括弧は私の言い換えで、そのように言い換えると教会にも学ぶべきところがたくさんあると思いました。
「往々にして説教調であり、国民・人びと(未信者)の目線に立って、一緒に考え、話し合い、相手の気持ち、考え、意見を謙虚に聞いて双方向の話し合い(交わり)を心がけるという姿勢のなさ」
「何ものも恐れず、自己分析性を発揮して、真理を探究していくという精神で臨めば、必ず前途への方途が見えてくる」と言われると、要するに、「共産党(教会)こそが真理を代表するんだ」という従来の立場にはいささかの変わりもないと感じとるしかないのです。
これがよく共産党(教会)について言われる「独善的な党(教会)」というイメージにつながる
「くみ上げる」という発想からは「学ぶ」という謙虚さが感じられません
しかも権力(に迎合した)歴史の後遺症が戦後も克服(悔い改め)されておらず、逆に日本共産党(教会)のスタイルからはどうしてもエリート意識(選良(選民)意識)が抜けないということではないでしょうか。
国民(未信者)は働きかけ(伝道)の対象であって、共産党(教会)が無限の(奉仕の)学びの材料をくみ取る源泉である尊敬するべき「他者」として認識されていない。
「他者感覚」をもって謙虚に接することの重要性を指摘しておきたい
ここでも中央(長老)と現場(兄弟姉妹)との双方向の意思疎通(交わり)が欠落しているのではないでしょうか。
それは、すでに述べた「国民が主人公」(万人祭司)の形骸化ということにつながっていると思います。
子どもたちを教える立場にある広島の教師たちがおかれた状況は、1998年のいわゆる「是正指導」以来、かなり絶望的であるのに、共産党(教会)が真正面からこの問題に立ち向かっているという姿は私にはまったく見えてきません。