気温の乱高下はあるものの
なんとか平年並みを維持しているらしいフィフィ村
田んぼの稲も
日々、ちょっとづつ伸びてきている。
五月に上流の田んぼから水が入り始め
(と言うことは下流のフィフィ村は最後)
川の水が少なくなることで気が付く。
これは結構、村同士で、或いは農家同士での喧嘩に発展することが多いと聞く。
時期が来たら、一刻も早く植えたいのは誰もが同じ。
とくに寒い地方ではちょっとの遅れが
収穫量に大きく響くときもあるから。
温度不足や日照不足になりやすい北国では
早く植える(霜害もあるので、難しい部分もある)が必須
早く植えるには早く水を田んぼに入れなくちゃない。
だけど隣の田んぼで水入れてると、うちらのとこまで水が来ない~って
そういうので喧嘩が起こりやすい~と聞いてる。
で、これが一気に江戸時代まで遡れば
新田開発には用水確保が条件だった。
今みたいにポンプがあるわけじゃない。
川は当たり前だが、土地の一番低い場所を流れている。
だから目の前の川から揚水するのは水車なんだが、
水車では水確保の量が限られ
それよりも、上流部分(と言うことは土地の高低差を利用できる)
そこから用水堰を掘って、導水をするのも、全て人力
或いは、山から流れ出る澤水を堰き止め、用水池を作る。
フィフィ藩ではこれを○○堤って言ってた。
(他藩では、どうなんだろう?なんて呼んでいたんだろ?)
用水池を作るには然るべき場所に土手を築く。
土と「やちくれ」と砂利と乱株(間伐材、切っただけの丸太)
今みたく、ブルトーザーだのがある訳じゃない。
人の他は精々、馬、牛くらい
土手を築くには、どれだけの労力がかかったんだろう。
今でもフィフィ村のあちこちに
その名残を見つける事が出来る。
地名にも○○堤が残って居たり
今も現役で活躍している用水池があったりする。
新田開発が
その前に水確保が重要で
これが出来ない為に平らな土地があっても耕作出来なかったんだよ。
畑だって、それなりに水が必要だから
やっぱり、ある程度水路がなければ困る。
それと新田開発しても肝心の御百姓さんがいなくちゃ
どうにもならない。
年貢(税金)が重くて御百姓さん達に逃散されて
年貢も入らなければ、土地も荒れたり
異常気象で不作の年は飢饉で大勢がシンじゃうし
(東北太平洋沿岸では度々あったよ)
フィフィ藩では7万人いた人口が2万人まで減ってるよ。
逃散もあるが、どれだけ凄まじい事態だったか、想像を超える。
こんな年の藩日記を読んでいると
今の飽食が恥ずかしくなるよ。