初心者による初心者のための江川太郎左衛門について | 徒然探訪録

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前述の記事の江川家は、幕末に新選組結成に関与した、韮山の江川太郎左衛門の家系ですよ~という追記。

江川家と多摩の関係は戦国時代からだったようだと前述の記事に書きましたが、それは幕末まで続いていて、新選組結成とも繋がっています。

江川家36代の英龍は世直し江川大明神などとも呼ばれた人で、①二宮尊徳を呼んで農地の改良を促す②種痘の接種を領民に積極的に推進③西洋流砲術を導入④パン祖。日本で初めてパンを焼いたんだって。
などで知られています。

幕府はペリー艦隊来航後、ただちに海防強化の検討に入り、品川台場の築造を計画しました。海中に十一基もの大砲を据えるための人工島を作るというものです。これを指揮したのが伊豆韮山代官であり、砲術家でもあった江川太郎左衛門でした。台場の建設はペリーが去ってからわずか二ヶ月後から着工され、材料を運ぶ船は二千隻にも及び、工事に使われた人夫の数は五千人、築造経費は七十五万両とかなり大がかりなものだったと言います。昼夜兼行で工事は行われましたが、第一から第三、第五、第六は無事竣工したもののそれ以外は財政難などの理由から未完のままに日米和親条約締結を迎えることとなってしまいました。

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▲第三台場

彼はまた農兵構想を持っていた人でもあり、土方歳三は佐藤彦五郎を通じ、英龍の農兵構想を学んでいたとも言われ、身分を問わない実力主義を採用した新選組のやり方はこうしたところからきているのだろうと思われます。
多摩は家康の時代からある程度の自治を幕府からも認められてきたという特殊な背景もあり、江川は幕府に多摩農兵隊の設立を嘆願、幕府も始めはしぶったようですが、最終的にはこれを受け入れ、これは明治政府がとった国民皆兵制の端緒になったと言えるでしょう。
江川家の支配地域には武州多摩も入っていたため、英龍は日野の佐藤彦五郎に京都出陣を命じました。佐藤彦五郎は天然理心流日野道場から精鋭を集め、これに江戸牛込柳町道場の実力者を伴った農民武士団を結成させて、京都出陣を託した、それが後の新選組の核を為した近藤、土方、井上、沖田らというわけです。


参考文献:『幕末歴史散歩 東京篇』 一坂太郎著(中央公論新社)
参考HP:佐藤文明 『私説多摩通史』