いやいやまったく。 | 雨夜の月

雨夜の月

堺雅人さん&大泉洋ちゃんの話題を中心に、
日々のよしなしごとや萌えなんかを呟いたり叫んだりするイタいブログです。

ちゃらんぽらんなので、あんまり偉そうなことは言えませんが

なんと言いますか、世も末といいますか。

なんだっけ、青少年なんとか。


行き過ぎた表現は確かに目に余ります。

あまりのイタさに絶句せざるを得ない現状は、確かにある。


暴力にしろ、オトナの表現にしろ、

昔ほど日陰じゃなくなったというか、

堂々と大通りを歩くようになっちゃったというか、

色んな意味で手に届きやすくなってしまった。


適切に言い表せないのがもどかしいのですが、

「イケナイモノ」に対する抵抗感というか羞恥心というか…

そういうものが大いに希薄になっているのをひしひしと感じます。


とはいえ当然、20年前だろうが30年前だろうが、

そんな書籍やマンガや映画やドラマはゴマンとあったわけで。

「イケナイモノ」側にも当然そういう”日陰者”的な自覚があって、

表現者、あるいはその媒体の発信者、手に取る人間、

つまり社会全体というか、まぁとにかく皆が

暗黙の了解的に分別を持って取り扱って、

分別を持って楽しんでいたわけです。


その分別が、悲しいかな薄れてしまっている現在。

たしかに「表現」する側、「発信」する側も

需要があるから、みんなもやってるから、売れるから、ではなく

今一度節度を持って自ら律さねばならない部分があると思います。


んが。


「イケナイモノ」を隠して、なくして、

少なくとも見た目上はキレイキレイにして。

……って、潔癖にも程があるんじゃないでしょうか。


表現そのものを規制する条例って。


藤間のようなちゃらんぽらんですら、

え、それって違憲じゃね?

って思っちゃうんですが、そこんとこどうなんですか教えて都のエロい人。


去年だか今年だか、某児童書を扱う出版社の月刊誌が、

子どもの本としての配慮に欠ける表現があったとして自主回収されました。


出版社のこの対応を、私は残念に思いました。

やりすぎじゃないのか、と。

他の方法があったのではないか、と。

どうしてそんな怯えるような姿勢なのか、と。

そして、こんな残念な思いを度々繰り返すことになるのではと

憂いに駆られざるを得ませんでした。


子どもはそんなに愚かではないと、無力ではないと思います。

小さい子どもたちへ手わたすもの、見聞きするもの、触れさせるもの

配慮が必要なのはもちろんです。


ですが、我々大人がきちんと子どもたちに向き合って、ものごとをちゃんと伝え、

目を配り見守り、そして”ひとりの人間”として接すれば、

わざわざ魚の骨を取り除くような過保護をしなくても、

子どもたちは何がいけなくて何がいいか、何が悪くて何が正しいか、

何を手にとってはいけないか、自分の身の丈にあったものは何か、

彼らはきちんとわかるし、判断できるし、

魚の小骨だって自分でちゃんと取り除くのです。



何分ちゃらんぽらんなので、もう何言ってるんだか

はちゃめちゃになっておりますが、まぁ要するに


そこは分別と節度の問題であって、

公権力が、法がどうこう言っちゃうのは野暮じゃないのー


と思うのですよ。


その分別と節度がなくなってきてるのは確かなのでね、

そりゃあ頭も痛いってハナシは充分わかりますよ。

でもそこはほら、日本人特有の奥ゆかしさっつーか、

そういうのがさ、ほらさ、あるじゃん?


そもそもそういう「イケナイモノ」を手に取っちゃうお年頃って、

反抗期真っ盛りだったり、多感な時期だと思うのですが、

そんな子どもたちに注意するのもアレだし言っても聞かないだろうし

っていうかどうやって相手して良いかわかんないし

だったら法で規制しちゃえーという逃げの姿勢も見える気がするのは

根性ひん曲がった私の穿った見方がもたらす誤認でしょうか。






大事なのは常識と節度と分別。