こんばんは。

昨日、26年前、22才の時に直腸癌の手術をしたことを書きましたが、今日はそのときの様子を書き留めておこうと思います。

今は千葉県内にある癌の専門病院に通っていますが、当時は実家(東海地方)のすぐそばにある総合病院で手術を受けました。

ど田舎にある無名の総合病院です。

入院してからは検査の連続で、手術前の説明では、人口肛門になる可能性について説明はありましたが、「癌」であることや、ステージがどれくらいか説明はありませんでした。

当時は、本人への癌の告知はしなかったようですね。


手術は開腹手術、おへそのあたりから股間にかけて15センチくらい切ったでしょうか。

これまで4回の手術を受けているので、どのキズがいつのものか記憶が定かではありませんが。。。


今なら開腹手術をするとき硬膜外麻酔をかけますよね。

当時は硬膜外麻酔をかけませんでした。硬膜外麻酔が開発されていなかったのか、その病院が使わなかっただけなのかは分かりません。

手術が終わってICUに移り、麻酔が覚めると、とにかく傷口が痛くてたまらなかった。

痛み止めはお尻から入れる座薬しかなく、直腸を切っているからそれは使えないと看護婦さん(当時は「看護師」ではなかった)から言われて、悶絶しながらひたすら痛みに耐えた。


今は、ICUは手術した日に一泊するだけ。
翌朝には車椅子に乗って一般病棟に移動します。
腸閉塞や合併症を防ぐためにできるだけ体を動かした方がいいと、硬膜外麻酔で痛みを抑え自力でベットから車椅子まで移動させられます。

当時は、術後は絶対安静、できるだけ動くなと言われました。
3日間はICUに居たと思います。
ちょっとでも体を動かすとお腹に激痛が走るため、ただじっとしてベットに横たわっていました。

痛みがだんだん治まってくると、入れ替わるように精神的な苦痛が増大してきました。
日がな一日、ベットの上で仰向けになっているだけ。
することといえば天井の穴の数を数えたり、染みの形を何か別のものに想像することぐらいしかありません。
スマホもタブレットも無い時代だし、本を読むこともできません。
ICUだからテレビも無く、ラジオを聞くことは許されたので、昼間はずっと選抜高校野球を聞いていました。

それでもあまりの退屈さに発狂しそうになりました。(汗)

ICUなので急患が運ばれることもありました。
交通事故で運ばれて来た患者さんがいて、その人は夜中に大声で叫んでいました。
「俺をここから出せ!」とか、「警察呼ぶぞ!」とか。
気が動転し、自分が交通事故に会い病院に運ばれたことを自覚できていないようでした。

すぐ手術をすればいいのに、と思ったのですが、肺に溜まった水だか血だかが抜けるまでは手術ができないと看護婦さんが言ってたような気がします。

その患者さんは初老の男性で、奥さんと車に同乗していて事故にあわれたと。

「○○(奥さんの名前)は大丈夫なのか!」と叫び続け、「別の病院に入院しているから大丈夫ですよ」と、看護師さんが必死でなだめていた。

あとから聞いた話だが、その奥様は即死だったらしい。


3日たってようやく一般病棟に移りました。
相変わらず体は動かせないのでベットのまま移動しました。

術後3日目、今なら病棟の中を歩き回るよう地獄の特訓が続いているころです。

当時は絶対安静、一般病棟に移っても1週間くらいはべットに寝たきりでした。

今のベットはリモコン操作で自分でベットの角度を変えられますが、当時は手動でハンドルを回さないと角度が変えられないベットで、上半身を起こすこともできませんでした。

1週間後、体調が回復し、介助を受けながら上半身を起こしてみたら、頭から一機に血が下がったせいか、目が回って気を失いそうになりました。(汗)

1週間も横になり続けるとこんな状態になるのかとビックリしたものです。


ICUから移された病室は、ナースステーション近くの個室でした。

ナースステーションの近くには重症の患者さんが多いせいか、向かいの部屋には全身大火傷を負った患者さんが入院していました。

その患者さんもよく大声を出して叫んでいました。

看護婦さんから聞いた話だと、その方は精神的な病で自ら体に火をつけたとのこと。

全身にまいた包帯を交換するときに大声を出して暴れるので、看護婦さんが必死でなだめていました。

看護婦さんだけでは押さえきれないので、男の先生も混じって日々包帯を交換していました。

看護婦さんというのはなんと過酷な仕事なのかと、そのとき思いました。


看護師さん、ありがとう。こんなに大変な思いをしてまで患者を支えてくれて。

(続く)