「決断を迫られるミッテラン」【1】 | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

11月9日の 「シュタージの最後の秘密」【1】 、11月10日の 「シュタージの最後の秘密」【2】 で言及した、『毎日新聞』の特集「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年」に関連して、Le Nouvel Observateur の2009年11月5-11日、通巻2348に掲載された Mitterrand au pied du Mur (壁の足元のミッテラン)という記事をいずれ掲載するというようなことを書いていました。あれから10日以上経って、少々「今日性」が薄れてしまいました。


以下、週刊誌 Le Nouvel Observateur の2009年11月5-11日(通巻2348)に掲載された Mitterrand au pied du Mur (壁Murが大文字で始まっていることから、 「壁の足元のミッテラン」、または「決断を迫られるミッテラン」という両方の意味がかかっていると思われます)という記事です。長過ぎるので2回に分けます。


Mitterrand au pied du Mur



20年前、ベルリンの壁の崩壊は、フランソワ・ミッテランを慌てさせたのか?予測していなかったためにフランス大統領がドイツ再統一の約束に乗り遅れるほどに。アーカイブと証言を基に、ヴァンサン・ジョベールVincent Jauvertが、20年後も論争の的となり続けている、この歴史に関して調査した。


フランソワ・ミッテランの公開文書から取り出された舞台は、ベルリンの壁崩壊から3ヶ月後、エリゼ宮殿で展開する。その日、1990年2月13日、フランス大統領は古くからの共謀者、自らと同じく、終戦直後から政治家としてのキャリアを積み始めた男を迎える。イタリア閣僚評議会議長(首相)、ジュリオ・アンドレオッティ Giulio Andreotti である。二人の七十代の男は、第三帝国の解体から40年たってもヨーロッパにつきまとう問題について話し合うことを望んでいる。ドイツ国民の再統一である。

 ミッテランは激怒している。彼によると、RDA(ドイツ民主共和国)とRFA(ドイツ連邦共和国)を合併させたいという彼の欲求に反して、西ドイツ首相が余りにも早く事を進め、ほとんど相談しないからだ。ヘルムート・コールの態度について、ミッテランはイタリアの友に言明する、「あれは既成事実だ」、「ドイツ人は耳が聞こえない」と言う。さらに、悔しそうに付け加える、「ブッシュ(父、当時の米国大統領)は、事態を抑えるために何もしない。(ドイツの再統一を)阻止できる唯一のこと、それはソビエトによる武力行使だ。しかし彼らは武力を行使しないだろう。」

 3ヶ月後の1990年5月4日、フランソワ・ミッテランは、仮借ないマーガレット・サッチャーの元、英国のワデスドン・マナー Waddesdon Manorにいる。二人の会談の予定内容には、なおも、常にドイツがあり、そしてドイツの再統一がポーランドとその他の東ヨーロッパで引き起こす不安、フランソワ・ミッテランが、どれだけ共有するかわからない、不安がある。ミッテランはRDAを吸収した後、RFAがその影響力をさらに遠くまで拡げる誘惑に駆られるのではないかと恐れている。彼は説明する、「東に向かいたがるのはドイツ人の性質だ。」 フランス大統領は付け加える、そもそも、『我が闘争』におけるアドルフ・ヒトラーの予知的な言葉を思い出そう。「我々ドイツ人にとって、西に空きはなく、東に空きがある」、ミッテランが暗記して引用する言葉である。

 明らかなことがある。20年前、フランソワ・ミッテランはベルリンの壁崩壊、そしてそれに続いたドイツの再統一を、複雑な感情で受け止めていた。確かに、1989年11月9日の二つのベルリンの間の国境の開放の翌日、彼は「ヨーロッパにおける自由の進歩を画す幸福な出来事」と言っている。確かに、RFAとRDAが統一される1990年10月3日に至るまでの一年間を通じて、「ドイツの再統一は正当で」あり、「それを恐れてはいない」と繰り返している。確かに、1989年の末に、ベルリンで非常に異議の多い訪問をすることになる、旧東ドイツの短期間の国家元首、マンフレート・ゲルラッハManfred Gerlachに言った、「フランスに関して、私は破局を予想していない。ドイツという隣国を持ってから、1000年にもなる。」 しかし、実は、フランスの老いた大統領は心配している。彼は「大き過ぎるドイツ、まだ不可逆的ではない欧州の建設に対するフランス人の不安を強く感じ、回顧し、… 体現している」と、その親しい協力者、ユベール・ヴェドリーヌHubert Védrineが後に記している。


Rebuffades

(手荒い拒絶)


 これほどまでに不安だった年老いた大統領は、当時盛んに言われ、現在も言われ続けているように、ドイツ再統一に直面して下手に振舞ったのだろうか?20年前から、欧州の歴史に決定的に重大なこの出来事の間のフランソワ・ミッテランの態度に関する論争が、周期的に現れている。現ヨーロッパ問題担当大臣ピエール・ルルーシュPierre Lelloucheのように、戦争のことが頭から離れない国家元首が、「過去の人」として振る舞い、「この自由の祭典に乗り遅れ」、そうすることで、「仏独の友情に非常に悪い影響をもたらした」と主張する者がいる。

 死の直前に書かれた自己正当化の本における当事者自身も含めて、彼の疑念や時に非常に荒っぽい言葉に反して、フランソワ・ミッテランはフランスの愛国者として、ドイツの友人として、そして特に大欧州人として行動したと断言する者もいる。どういうことか?我々が参照することが出来た元国家元首の文書は何を明らかにするのか?20年後、この問題について活動してきた彼の主要な協力者や歴史家はどう言っているのか?

 その大多数は一つの点に合意する。そのとき、フランソワ・ミッテランは、ドイツ国民を十分に満足させる言葉を見つけることも、友好的な行動をすることもできなかったし、往々にして、しようともしなかった、ということである。1989年11月9日の夜、ミッテランがコペンハーゲンにいたとき、広報活動担当顧問のジャック・ピランJacques Pilhanは国家元首に、ベルリンに急行してヘルムート・コールと共に象徴的に壁を飛び越えるように奨める。しかしフランソワ・ミッテランは肩をすくめて拒否する。これはドイツの祭典であり、フランスのものではないと、彼は言う。

 数週間後にも同じような手荒い拒絶がある。パリの立場を批判し始めた人々を黙らせるために、ユベール・ヴェドリーヌとジャン・ダニエルJean Danielを含む複数の人物が、ミッテランに大演説をすることを促す。目的は、フランスの偉大な隣国の再統一に対するフランスの支持を強調することである。拒否される。さらに、1990年1月4日、ミッテランのランド県の別荘、Latcheで、ヘルムート・コールは個人的に友人フランソワに、ドイツのテレビで一大インタビューを受けることを提案する。しかしフランス大統領はこの提案を拒絶する。

 コールの前で、ミッテランはこのように自分を正当化する。「私がドイツ人だったら、再統一に賛成するだろう、それが愛国心だ。フランス人として、私はそこに同じ情熱を置かない」、素晴らしい婉曲語法だ。2月15日、ミッテランはドイツ首相に再び言う、「私がドイツの愛国者のように話すことではなく、フランスの愛国者として話すことが私には期待されている。私が興味あること、それは、統一の結果にどのように近づくかだ。」 こうして、彼は「再統一の象徴的な面を管理しなかった」と、ユベール・ヴェドリーヌは要約する(そして悔やむ)。


(つづく)


VINCENT JAUVERT

Le Nouvel Observateur 2348 5-11 NOVEMBRE 2009


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2348/articles/a412272-.html


次回 「決断を迫られるミッテラン」【2】 に続きます。

次回は原文 Mitterrand estomaqué, déstabilisé (唖然とし、不安定になったミッテラン)で始まる段落からです。

上の方で言及した、『毎日新聞』の連載は以下のリンクです。今回引用した記事に関連するのは3行目までかもしれません。


2009年11月 8日 「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年 1-1 独統一、前向きだった仏 」

2009年11月 8日 「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年 1-2 対立していた英仏」

2009年11月10日 「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年 2 東独消滅、なし崩し」

2009年11月11日 「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年 3 ロシア、失われた20年」

2009年11月12日 「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年 4 チェコとEU、残る「小国」の危機感」

2009年11月13日 「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年 5 米「結束」を呼び掛け」

日仏の記事を読み比べるのも、興味深いかもしれませんが、大したこと無いかもしれません。