今回は原文 の Perturbations chromosomiques で始まる段落からです。
La dernière guerre des sacrifiés
(つづき)
Perturbations chromosomiques
2006年6月、若い未亡人は貯金をかき集め、パペーテで企画された、核実験に関する討論会のために出発する。彼女はそこで、ギュスターヴ・ルシー研究所Institut Gustave-Roussyのクロード・パルマンティエClaude Parmenterと、ニュージーランドの遺伝学者、アル・ローランドAl Rowlandの両教授に出会う。長い間イオン化する放射線の影響について研究している二人の研究者は、被爆した元従事者において、染色体の重大な混乱が起こっていることを確認し始める。この混乱はしばしば、ガンの進行の出発点となる。マリ=ジョゼ・フロックは、ようやく自分に耳を傾けてもらったと感じる。法廷闘争が空転しているとしても、報道機関が元従事者の問題を取り上げるだけになおさらである。政治家が後に続く。左翼からも右翼からも、補償に関する20の法案が提出される。「我々はこの問題に対するメディアの可能性を過小評価していた」、国防省のある高官は冷静に感想を述べる。そして外交的影響も。なぜなら、核実験国もまた、説明を求めるからだ。そして、核実験に関する異論の余地のない専門家になった、ブリュノ・バリロに問い合わせる。
アルジェリア政府は彼にサハラのイン・エッケルの基地跡を訪れるように促す。バリロはフランス軍が残していった地下核実験場を発見する。彼のガイガー・カウンターが音を立てる。「どうやって汚染除去するのか?」、アルジェリアの役人が尋ねる。2007年、退役軍人省が今度は核実験に関する討論会を主催する。ブーテフリカBouteflika大統領は直前に参加を取り消す。マスゴミが、植民者フランスがさらに犯した過去の犯罪をさらにもう一つ、告発するのに任せる。テレビ局アル・ジャジーラはFLNの囚人が原子爆弾の足元につながれていたと断言する。カール・ガスKarl Gassのドキュメンタリー、『行こう、子どもたち…アルジェリアのためにAllons enfants.... pour l’Algérie』でドイツ人の外人部隊兵士が、既に1962年に断言していたように。弁護士、ファティマ・ベン・ブラハムは、フランスを人道に対する罪で訴えようとしている。ブーテフリカ政権は感情を表に出さないが、密かに行動している。かくして、昨年秋、映画監督ジャメル・ウアハブDjamel Ouahabは映画『青トビネズミGerboise bleue』をアルジェで上映するように勧められる。費用は全て彼とヴォクリューズVaucluse から召集されて、1960年にレガーヌに送られ、必ずしも生還しなかった元兵士のために支払われる。「あそこに残してきたものによって、私は頭に銃弾を受けるのを覚悟していたのに、英雄のように迎えられた!」 フランス3のジャーナリストで、注目すべきドキュメンタリー『砂の風Vent de sable』の作者、ラルビ・バンシアLarbi Benchihaもまた、生まれた国に勇気付けられた。「アルジェリアは、代償がどのようなものだったかも知らずに、核実験を許可した。アルジェリアには恐らく、この事件に光を当てても特にならない」と、彼は説明する。「そこでアルジェは、問題が解決されたときにフランスに影響力を持つために、それを利用している。」
ポリネシアでも、緊張は高まっている。仏領ポリネシアの行政長官に選ばれると、独立派のオスカル・テマルOscar Temaruは核実験に関する調査委員会を任命した…ブリュノ・バリロが指揮した実験の。このとき、フランス領にいたために、国防省は核の安全のために代表者を送る労をとった。マルセル・ジュリアン・ド・ラ・グラヴィエールMarcel Jurien de la Gravièreによって、発言は少し変化している。核実験は「決して環境を汚染しないものではなかった」、いくつかの実験は放射能による影響を引き起こした、「しかし、偶発的な汚染の場合を除いて、我々は有害な量の範囲にはない」。CEAの技師は、懐疑的な住民を前に、自分の研究と数字をあわせて、環礁にメッセージを持っていこうとしている。数十年の沈黙の後に、さもなければどのように進めるのだろうか?真剣な疫学調査を一切実施しなかった軍が、今回は真実を語るなどと、どうして信じられるのだろうか?「互いに理解しあうのは、並外れて難しい」、マルセル・ジュリアン・ド・ラ・グラヴィエールは悔やむ。
彼を通して、自らに対して行われている訴訟を良く受け取らない世界の無理解が感じられる。フランスの利害において行動したと考える社会である。CEAの職員は、補償に関する法律が避けて取れなくなったことを知っていた。共産党の元老院議員エレーヌ・リュックHélène Lucが発案した、右翼と左翼の共通の法案が秋に提出されていた。核実験の元従事者の問題に常に敏感だったエルヴェ・モランは、議会によって出し抜かれる危険を冒すことはできなかった。2008年11月27日、彼はできるだけ早く法案を提示することを約束した。しかし、核のロビーにとって、国防相はあまりにもかけ離れてしまった。「サハラとポリネシアの民間人は皆、金を要求するだろう」、ある士官は震える。彼が安心することは、補償委員会が被爆の証拠を要求することである。そうした証拠を全く持たないマリ=ジョゼ・フロックは、確実に何の権利もないだろう。少なくとも彼女は、いつの日か歴史の教科書が、多くの無実の人々と同じように国益の名において犠牲になった夫を思い出すことを望んでいる。
SOPHIE DES DÉSERTS
Le Général de Gaulle
Mururoa
Lucien Parfait
Protections
Hérvé Morin
Le Nouvel Observateur 2320 23-29 AVRIL 2009
http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2320/articles/a399943-.html
フランスの核実験の犠牲者に関する記事は今回で終了します。
なお、上記のLucien Parfait リュシアン・パルフェ氏については、以下のサイトに詳細が記載されています。
世界のヒバクシャはいま:サハラ砂漠でのフランス核実験被害:新たな証言映画がフランスで封切り