「アウシュビッツ・ツアー」【2】 | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

前回の 「アウシュビッツ・ツアー」【1】  の続きです。

今回は原文 の «Guerre des mémoires» で始まる段落からです。


AUSCHWITZ TOUR

(つづき)

« Guerre des mémoires »

(「記憶の戦争」)

 「ポーランドではいつものように、事態は見かけより複雑だ」、CNRSの研究者で『ポーランドのユダヤ人、1939-2008』の共著者、ジャン=シャルル・スジュレックJean-Charles Szurekは弁護する。「少しずつ増えている祭典、博物館、追悼施設などとともに、ユダヤ文化への真剣な熱中があるが、現実的な商機もある。そして、ユダヤ人に関するポーランド人の態度に関する本当の議論にもかかわらず、多くの偏見は今も根強い。」 「ユダヤ人をガスへ」、収容所に隣接する都市、オシフィエンチム(アウシュビッツのポーランド語名)の壁には今もなお時々、こう書いてある。それでも落書きしかなかったら・・・ ポーランドでは、反ユダヤ主義がラジオ局を持つ。超国家主義者のRydzyk神父が推進する、Radio Maryjaである。300万人の聴取者がいると主張する。反ユダヤ主義は複数の新聞(『Nasza Polska』など)や政党も持つ。Ligi Polskich Rodzinは2001年の国政選挙で総投票数の9%を掻っ攫い、その党員の一人、ピョートル・ファルファルPiotr Farfalはポーランド公共放送TVPのトップに指名された。2月に実施されたユダヤ名誉毀損防止同盟Anti-Defamation League (ADL)の調査によると、ポーランド人の55%が、ユダヤ人はビジネス界で権力を持ちすぎていると考え、48%はユダヤ人がキリストの死に責任があると考えている。

 「それに、記憶の戦争を付け加えなければならない」と、ユダヤ文化誌、『Midrasz』の創刊者、コンスタンティ・ゲベルトKonstanty Gebertは説明する。「ポーランド人は、戦争中はユダヤ人と同じくらい苦しんだと考え、アウシュビッツは何よりもまず、74000人が死亡した、ポーランドの囚人の収容所だったと考えている。」 博物館が作られた1947年7月以来、アウシュビッツは「ポーランド国民と他の国民の犠牲者」の象徴的な場所に仕立てられている。「ポーランド展示館」は作られている(「ユダヤ展示館」は1968年まで作られることはなかった)。カトリックのミサが、ガス室の廃墟まで続く行列と、長い一続きの最初としての、十字架の建設に続いて挙行された。

 1984年、カルメン会修道女の収容所施設、特にチクロンB入りの箱の貯蔵庫跡への入居は、大騒ぎを起こすことになる。論争の真っ最中に、枢機卿Jozef Gempは、ユダヤ人が「自分たちに都合の好い多くの国で」反ポーランド・キャンペーンを展開していると非難する。自身がポーランド出身のイスラエル首相イツハク・シャミールは、有名になった言い回しで反論する。「ポーランド人は母親の乳と一緒に反ユダヤ主義を吸う。」 1992年、バチカンの圧力下に、カルメン会修道女は最終的に、収容所から2キロ離れた場所に引っ越すことを受け入れる。


Plan de rénovation

(修復計画)

 今日、博物館のガイドは、その解説の中で、ポーランド国民の苦しみを前面に出し続けている。ミランダに案内される、クラクフ・シティ・ツアーズの我々のグループは、アウシュビッツ第一強制収容所(労働収容所)で1時間半を過ごし、ビルケナウ(絶滅収容所)ではわずか30分を過ごすことになる。バラックを駆け足で通り過ぎる訪問だ。選別所、ユダヤ人の列の「処理」、ガス室と、説明は最小限に簡潔だろう。「我々はガイドの説明に非常にがっかりしたので、5年前、元囚人の証言を記録した持ち運び可能なオーディオ・ビデオ・システムを作ることに決めた」、アウシュビッツ囚人連合の事務局長で収容所から生き残った、ラファエル・エスライユRaphaël Esrailは語る。ビルケナウを訪問して同じように衝撃を受けたカトリーヌ・Pは、祖父の思い出のために予定された儀式を行うことを断念したほどだった。

 観光客が多過ぎるのか?商業主義が過ぎるのか?曖昧な、あるいは遠まわしのメッセージが多過ぎるのか?ショアーの記憶のために闘い、否定論的な説に対して闘う団体の大部分は、多くの逸脱があるとする。「しかし誰もが非常に遠くに行ってしまう」、フランスにおけるユダヤ人囚人の息子と娘の会の会長、セルジュ・クラルスフェルドSerge Klarsfeldは説明する。「結局、この場所が存続することを約束したのはポーランド人だ。ポーランド政府からの補助は年間予算の45%になる。元囚人たちに、アウシュビッツが毎年100万人が訪れる博物館になると言われれば、熱心に署名していただろう。」 訪問者が殺到する方が、忘却よりは良い。「蒔いたものを刈り取っているのだ」、歴史家のアンリ・ルソHenri Roussoは分析する。「アウシュビッツが博物館に変わったときから、政府と協会が教育的な旅行を優遇したときから、最大多数の人々を収容所の象徴的な役割に関心を持たせようという意思が存在したときから、多人数の記憶から逃れることはできなかった。したがって多人数の観光旅行からも。これらの状況では、こうした場所に神聖な次元を保つことは難しい。多くの人が訪れるほど、その本来のメッセージは薄まり、月並みなものになる。空調つきのバスによるアウシュビッツ・ツアーは、衝撃的に見えるかもしれないが、避けて通ることはできなかった。」

 少なくとも、観光客の訪問による収入は、必要不可欠な維持作業の資金を得るのに役立てるだろう。その収入は博物館ね予算(年間550万ユーロ)の50%に相当する。その博物館の消耗は館長ピョートル・シウィンスキ ピオトル・グウィンスキ Piotr Cywinski を不安にさせる。「収容所は長年持ちこたえるように建てられてはいない。毎年少しずつ老朽化している。」 ガラスケースの中に展示されている、ガスで殺された人々の毛髪は、今から15年か20年後には単なる塵に過ぎなくなる。湿った畑の上に建てられたビルケナウの囚人用バラックが同じ運命に苦しまないために、1億2000万ユーロの改修計画が検討され、欧州の基金への呼びかけが開始されている。

 クラクフ・シティ・ツアーズの集団とともにビルケナウを離れるとき、1年前の前回の訪問時に出会ったガイドとすれ違う。当時、建物内部での写真撮影を禁止する看板があったにもかかわらず、縞のパジャマや囚人のスーツケースの前で写真を撮り合う、少数の騒がしい三十代の集団がいることを、そのガイドに通報していた。彼は手でうんざりという仕草をし、それからため息をつく。「ご存知のように、最も悪いのは、ユダヤ人です。連中は、自分の家にいると思い込んでいる。」


NATHALIE FUNÈS




Trois camps principaux

アウシュビッツは3つの主要な収容所から成る。アウシュビッツ第一収容所(基幹収容所)、アウシュビッツ第二収容所ビルケナウ(絶滅収容所)、とアウシュビッツ第三収容所モノビッツ(労働収容所)であり、およそ40の付属収容所が、40平方キロメートルの範囲に造られている。強制収容所複合体の大部分は1947年に博物館となった。


Un groupe scolaire en visite

訪問中の学校のグループ。戦後に設置された説明用のパネルは、アルファベット順に並べられた名前で、アウシュビッツで「他の国民と同じく」ポーランド人が死んだことを示している。最後はユダヤ人である。なぜなら彼らのポーランド語での名前(zydzi)は zで始まるからである。


Boutiques de souvenirs

ホテルのロビーや、布張りの古いホールのアーケードの下など、至る所にあるクラクフの土産物店では、何ズロチかでユダヤ人の木彫りの小像が売られている。


Jean-Paul II

1979年、ビルケナウの線路上で行われたミサで、ヨハネ・パウロ2世は6メートルの高さの十字架を立てる。そこには16670番をつけた囚人の赤い三角形とともに収容所の制服の切れ端が下がっている。この囚人はフランシスコ修道会の僧侶マクシミリアン・コルベMaximilien Kolbeで、アウシュビッツで死亡し、1982年に列聖された。


Robert Thalheim

『そして次には観光客』、ドイツの映画監督ロベルト・タルハイムRobert Thalheimの映画(ぺサック国際歴史映画祭で審査員賞)は、2008年に上映される。彼は今日のアウシュビッツを語る。その数十万の訪問者と記憶の守護者を。


Janusz Marszalek

1996年、(オシフィエンチム市長から)不動産開発業者(になった)Janusuz Marszalekは、アウシュビッツ収容所の入り口に5000平方メートルの商業センターを建設する許可を得る。国際的な非難に直面して(「受け入れ難く、忌まわしい」とシモーヌ・ヴェイユは断定していた)、ホテルとレストランの入ったより小さな複合体に留めることになる。


Le Nouvel Observateur 2319 16-22 AVRIL 2009

http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2319/articles/a399254-auschwitz_tour.html


今月は、これで終わりかもしれません。

次回、可能であればフランスの核実験の被害者に関する記事、 Essais nucléaires - La dernière guerre des sacrifiés (核実験‐犠牲者たちの最後の戦争)を掲載したいと思います。可能であれば。