あるアメリカ人作家の大統領選挙観(Obsの記事)【1】 | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

日本では、アメリカの51番目の州ででもあるかのように、アメリカ大統領予備選の報道が毎日のように見られます。好まざる好むと好まざるとに関わらず、アメリカが世界全体に与える不快な影響を考えてか、フランスでも、ニュースサイトや週刊誌には連日のように報道が見られます。

その中で、アメリカ在住の「アフリカ系アメリカ人」(アメリカでは「黒人」と言ってはいけないらしい)作家Percival Everett パーシヴァル・エレヴェット氏の、週刊誌Le Nouvel Observateur の先週号(2008年2月7-13日、通巻2257)に掲載された論説が一風変わっていました。

明らかにフランス人の読者を意識して書かれたものですが、原文の「アメリカ語」をフランス語に訳して掲載されたものを、わざわざ日本語に訳すのは回りくどい、と言われるかもしれません。

タイトルの à la recherche de la Nouvelle Star はフランスのオーディション番組のようで、今回初めて知りました。これを見ると、A la recherche du temps perdu (『失われた時を求めて』)を連想してしまうのは、年寄りくさいでしょうか。


『アメリカ合衆国:新しいスターを探して』

Etats-Unis: à la recherche de la Nouvelle Star

par Percival Everett



本国で有名で尊敬されているアフリカ系アメリカ人の作家は、どの点でバラク・オバマがヒラリー・クリントンと異なるのかを見出すことができないでいる。



 
Percival Everett
7年間、長く恐ろしい7年間、ジョージ・W・ブッシュを「選ぶ」ことによって、アメリカ合衆国は世界全体と、自身に対して悪魔的な役回りを演じてきた。私は「選ぶ」élireという言葉をわざと強調する、なぜなら私は、ブッシュ氏が現実に完全に公正に選ばれたとは納得していないからだ(そして、そう考えるのは私だけでないことは言うまでもない)。最初に選ばれたとき、ブッシュは弟がフロリダ州知事であり、最高裁が法の遵守よりも政治を気にするという事実を利用して、勝利を不当に手に入れた。2回目は、彼が「再選」されたとしても、投票総数の過半数は政敵に渡っていた。したがって我々は前代未聞の競争に直面していたことになる。唯一の本当の良い知らせ、それは現政権のメンバーの誰一人として大統領候補になっていないということだ。

 あなた方のお気に入りの番組、「la Nouvelle Star」へ、ようこそ。今シーズンは大統領予備選という題だ。この選挙を取り巻く議論に巻き込まれなければならないのは、私の心臓に悪い。メディアによる扱いが相変わらずで、文化的進歩のいくつかの指標にもかかわらず、基本的に何も変わっていないことを見るにつけて。確かに、女性またはアフリカ系アメリカ人が真剣に大統領に立候補できるという考えには興味を持つが、しかしアメリカのメディアが自国民に報道するやり方を検討すると、私はまた倒錯的な幻惑と落胆をも抱くようになる。そして、これらのメディアが行使する支配力にはぞっとする。


 何週間か前から、私は朝5時30分に起きている。選んでそうなったのではない、18ヶ月になる息子の指図によるものだ。テレビのニュース番組を見ながら、ブドウを食べている。結局、ニュースを見るのは私だ。息子は、「パパ通り」と呼ぶ、私の腕と脚で、小さなトラックを走らせる、余りにも狭い道路網に飽きるまで。私は同じことを感じている。私はテレビの画面で口が動くのを見ている、そして乏しい才能には非常に複雑な問題の漠然とした理解を拾い集めようとしている自分に気づく。キャスターやコメンテーターがしばしば文法の間違いを犯すこと(それは誰にでもあり得ることだ)には不快になったりしない。しかし、「問題を提起する」soulever une question が正確には「質問をする」poser une quesion という意味でないことを理解しない、「格差」 différentiel が「差異」 différence の同義語でないことを理解しない人々がそこにいる。このことは、許される、教育の不足だけでなく、許されない、熟考の不足をも証明している。最も気がかりなこと、それはキャスターが、候補者それぞれの立場の意味に決して言及することなく、この選挙は重要だと私に向かって執拗に繰り返すことだ。彼らは候補者の「人気を得る潜在力」に言及するか、他の候補に「差をつける」ための財力があるかどうかを問うだけで満足している。かくして我々の多くは、一人の候補者が優位に立つ機会があるというだけの理由で支持するように仕向けられるという危険を冒していることを、私は恐れる。「la Nouvelle Star」に、ようこそ。

 候補者たちが面白みに欠けるというわけではない。むしろ全く逆だ。二大政党が、興味深い登場人物を一揃い提示している。なぜなら、いくつかの明らかな物理的違いにも関わらず、全員が基本的に似通っているからだ。


 見たところ、ヒラリー・クリントンは多くのアメリカ人に嫌われている。ところが彼女は特別に嫌な人間というわけでもない。確かに、彼女は上院議員になるためだけにニューヨークに居住したし、続いて大統領候補にのし上がるためだけに上院議員になった。それは日和見主義的で、恐らく皮肉な策略ではあったが、独創性はほとんどない。ロバート・ケネディが1960年代に同じことをしていた。この日和見主義的な行動は、アメリカ人が彼女を好まない理由の一つにはなる。家庭以外の目標を、かくも執拗に目指す女性を、冷たいとか機械的だと見なすアメリカ人がいて、一方で、彼らによれば、彼女は健全で安心させる「母親のような人物」になるべきだとされる。悲しい真実、それは、企業の社長であれ、大学教員や法律家であれ、全ての野心的な女性に対して同じことを考えているということだ。しかしながら、クリントン女史には、確かに嫌われる何かがある。それは政治家ということだ。良い政治家だ。不当で、女性差別だが、しかし、人々が女性により期待している一方で、政治家が表面的で逃げ腰で曖昧であることを覚悟していると信じている。それは見かけ上、愚かだが、それでもやはり真実ではない。私がヒラリー・クリントンで好きになれないところ、それはミット・ロムニーでも、ジョン・マケインでも、バラク・オバマでも好きになれないところだ。彼らは、話し、話すが、しかし独自性のあることは決して何も言わない。

 民主党の側では、デニス・クシニッチとジョン・エドワーズ(撤退したばかり)がいるが、しばしばメディアに忘れられる。クシニッチは最近の討論会で数に入れられさえしなかった。これら2人の候補はメディアに問題を投げかけた。この2人はリサイクル可能なスローガンで自分の考えを表現しない。共和党の側では、ロン・ポールについて同じことが言えると想像する。


(つづく)

出典

LE NOUVEL OBSERVATEUR 2257 7-13 FÉVRIER 2008

http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2257/articles/a365991-.html




次回、 あるアメリカ人作家の大統領選挙観(Obsの記事)【2】 に続きます。

次に引用する段落では、今回以上にブッシュ現大統領をけなすくだりが見られます。率直に言えば、それを引用したいがために、全文を訳して引用しているようなものです。