東(ひむがし)の野に
炎(かぎろひ)の立つ見えて
かへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ
柿本人麻呂 万葉集より
<東の野にあかつきの陽炎が射すのが見えて 振り返って見れば月が傾いていた>
この句、ご存知の方も多いと思います。 国語の教科書にもしばしば載っている、万葉集・柿本人麻呂の句です。
いきなりムズイ万葉集などを持ち出してしまいました。
このごろは筆不精がとみに進みまして、ブログ・日記が週記になり隔週記、はたまた月記になりつつあります。 ま、単にメンドイから書かないだけなんですが・・・
さて、本題に戻りまして、の開花便りもあちこちから聞かれ、もうすぐ春ですね。 春の嵐なんて、余計なものもおいでになって、大きな被害が出たようですが・・・
さて、万葉集や俳句などの季語として、よくもちいられるのが「陽炎」
陽炎にはカタカナで書けば、「カゲロウ」というカゲロウ目の昆虫がありますが、漢字で陽炎とした場合は気象のことをいい、厳冬のよく晴れた夜明け、日の出1時間ほど前に現れる最初の陽光をいいます。
大気が光を屈折させて起こる現象で、日本では春の季語とされます。 気象条件から夏にも多く見られる現象です。
このような現象は平原や砂浜など様々な場所で見ることができ、焚き火の炎の上、エンジンなどの排熱には明瞭なゆらぎが見られます。
また、蜃気楼の場合は、密度の異なる大気が層流的な流れをしているか静止していてほとんど混ざり合わないため、鏡写しのように一部分だけがきれいに分離して見えます。
ところで、「源氏物語」五十四帖にも「陽炎」という物語があります。
さて、この一般的なこの読み下しは、江戸時代の国学者・賀茂真淵(かものまぶち)が万葉仮名の原文を初めてこのように読んだだもので、それまでは「あづま野のけぶりの立てるところ見て かへり見すれば月かたぶきぬ」と読まれていました。
しかし、実は、この歌の読み(陽炎)について、現代の専門家の多くが懐疑的なのだそうです。
冒頭の柿本人麻呂の歌の原文は、
「東野炎立所見而反見為者月西渡」
この歌は持統6年(692年)頃、当時10歳の軽皇子(かるのみこ):(後の文武天皇)が阿騎野で狩りをする前夜に詠まれたとされます。
東の曙(あけぼの)を即位前の軽皇子にたとえ、西に沈む月と対比させた高らかな調べは、万葉集の中でも、最も名高い歌の一つです。
しかし そもそもこの歌の「炎」を「かぎろひ」と読むことに無理があるという。 かぎろひは物が燃えたり、日差しで地面が暖められた時に、形が揺らめく「陽炎(かげろう)」のことです。
炎をかぎろひと読む例は万葉集にもありますが、動詞「立つ」が続く場合は「けぶり(煙)」と読みます。
古い写本の多くには「東野(あづまの)の煙の立てる所見て」の読みがつき、夜明けを待つ焚き火の煙の意味とされていました。
しかし 今から約240年前、江戸時代の国学者賀茂真淵(かものまぶち)が、「炎は曙光(=かぎろひ)」とする独自の注釈を付けました。 だから 今の読みは真淵の「創作=オリジナル」なのです。
万葉集にも詳しい大阪府立大(上代文学)教授 村田右富実(みぎふみ)教授は
「真淵の解釈は文法的にも無理がある。 学者のほとんどがそう思っているはず。 だが、歌の調子があまりに見事で、手が出せない」と 推察。
現在 ほとんどの注釈書や教科書は、真淵の読みを踏襲しています。 「それまでの読みでは物足らないと、真淵は感じたのだろう」とも言っています。
長い年月のうちに、歌に新たな意味や解釈が加わる。
それもまた万葉の魅力。
尚、万葉集に収められている約4500首のうち、すべてが解読できているわけではない。 約20首については、今も意味がとれない部分があるという。
例えば 額田王(ぬかたのおおきみ)の「莫囂圓隣之」の歌。
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之射立為兼五可新何本
様々な研究者が何十もの読み方を試みていますが、解釈に決め手はなく、「永遠の謎」と言われています。
後半の読みは、「わが背子(せこ)がい立たしけむ、いつ樫(かし)がもと」と一般的に解釈されていますが、前半はいまだに不明です。
万葉仮名と、漢字を併用して記された歌は読み方や送りがなが難しい。 そんな中、数年前、近畿で「万葉歌木簡」が3点相次いで確認されました。
現在残っている万葉集の最古の写本は平安時代。 木簡に書かれた歌はより原本に近く、今後 発見例が増えていけば、難読歌研究の進展につながる可能性がある と期待する専門家は多いそうです。
万葉の魅力、奥が深いです。
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