349.青柳物語 (怪談より) | かたくりのつれづれのままに

349.青柳物語 (怪談より)

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年末年始の休みに、長女が図書館から大和和紀さんの源氏物語のコミック『あさきゆめみし』全7巻を借りてきていました。

内儀さんと一緒に読んで見ると、よくもまあこれほど平安朝の時代考証をして、原作をこなしてコミックにしたものだと作者のその教養の深さに脱帽しました。

 

学生時代に古文として断片的に読んだ範囲ではそれほど違和感がなかった古典もコミックとして読むと大変シンドイ!

 

高校時代担任だった古文の先生からは紫式部は非常に道徳観念の強い女性で、物語を通じて描かれているのは「もののあわれ」と「因果応報」と教えられてきましたが、「道徳観念が強いはずの女性がどうしてここまで不倫を描けるの?」と思いました。

平安時代の光源氏が石田純一氏に重なりました。

そういえば彼は「不倫は文化です。」と名言を言っていましたがこれのことでしょうか?

 

平安時代妻問い婚の場合、中3日とか中4日のピッチャーのように短いローテーションであっちこっちかけもちしている在原業平や光源氏のような好色な男もいますが、ローテーションの間隔がやたら長い場合、女性の方も二股三股をかけないと経済的に成り立たなかったのも事実。

和泉式部は恋多き歌人として有名ですね。

 

妻問いは歌のやり取りから始まり一夜を共にし男は朝帰りをした後また歌を詠み再会を約す。それがなければ、一夜限りの戯れと世を儚んで平安時代の女性は仏門に下るものと学生時代は信じていたのですが、当時の和歌とは貞操観念のない貴族の戯れ歌だったのかも・・・・

 

雅な言葉に満ちた和歌ですが、仏教の観念がいくら含まれたアンニュイな表現も奔放な遍歴の薬味かと・・・・。

 

2巻と3巻を読んでギブアップしました。(笑)

 

 

口直しに昨年みつからなかったラフカディオハーンの英文対訳の『怪談』を探して読み直しました。

彼の『怪談』といえば『耳なし芳一』『雪女』『幽霊滝の伝説』などが有名ですね。

日本の口伝や古典を彼流に味付けして格調の高い怪しさ怖さ切なさのある短編小説が多いです。

忘れてならないのが、美しい日本文化をよく理解して欧米に紹介していると言うことです。

 

『青柳物語』はそんな小説です。

かたくり的には『源氏物語』を平安時代の貴族文化として世界に知られるより、ハーンの小説が世界に知られるほうが嬉しいです。

仁義礼智信がちりばめられており美しい。

 

序文が長くなりました。

 

★ ★ ストーリー ★ ★

主人公の友忠は能登の大名畠山義統に使えている小姓。

武芸に秀で容姿に恵まれ主君に目をかけられた将来ある侍だった。

 

彼が20歳のころ、主君の親族である京都にいる大名細川政元の元に密使として派遣された。

時は冬。

能登から越前を経由して京都にいくに山里をへて民家の少ない雪深い山路を通らねばならなかった。

 

旅の2日目にひどい吹雪に遭い、難儀している道中思いがけず一軒の草葺の小屋にたどり着く。

 

一夜の宿を請うと、貧しい身なりの老爺が快く中へ招きいれた。

小屋の中には一人の老婆と娘が囲炉裏に薪をくべていた。

 

老婆と老爺はこの若き旅人に吹雪に凍えた体を温めるために酒を勧め、食事の支度をはじめた。

その間に娘はふすまの陰に姿を隠した。

 

友忠は驚いた。

貧しい身なりではあるが、囲炉裏から立ち上がり身を隠すしぐさと火に照らされた娘の横顔に目を奪われたのだ。

かくも美しい娘がこんな惨めなさびしい場所に住んでいることをいぶかった。

 

食事の支度がととのい、身なりを改めた娘が再び現れ給仕をするための所作のひとつひとつに彼を驚かす典雅さがあった。

かれの嘆賞のまなざしが娘の頬を染めてしまうことに気づいていたが彼女から目をそれすことができなかった。

老爺はと娘のふつつかさと無知をわび食事をすすめた。

友忠がこれまで目にした武家のどの娘よりも清楚で美しく思われた。

 

突然彼は心の中の喜びに駆られて彼女に恋歌を詠みかけた。

尋ねつる花かとてこそ日を暮らせ

明けぬになどかあかねさすらん

尋ねて行く途中で

私は花かと見まがう美しい人に出会った。

だからここで私は日を暮らすのだ

なぜ夜明けともならない前に

その人の頬にあけぼののあかね色がさすのだろう

本当に私はわからない

娘はいささかのためらいもなく瞬時に次のような歌を詠み返した。

出づる日のほのめく色をわが袖に

つつまば明日も君やとまらん

もし私の袖であけぼのの日の

ほのかな美しい色をおおい隠すなら

そうすればきっと明日になっても

あなたはとどまってくださいますでしょうね


彼が歌で美しさをたたえたことを娘が受け入れたことも、また娘も彼に好意を持ってくれたことも機知の富んだ歌で感情を表現する手際のよさも驚かされた。

友忠はこの娘に心の底から魅せられてしまった。

 

今や友忠の目の前にいる田舎娘より機知に富んだ女性に会うことはこの世の中にいるとは思えなかった。

主命を帯びた旅の途中だったが、もはやこの娘から離れられなくなった。

使命を果たすために小屋を立たねばならなかったが、無理を承知で老爺老婆にこの娘を嫁に欲しいと頼んだ。

 

老夫婦は老い先短い身の上から快諾した。

友忠は娘をつれだし主命の旅へと向かった。


☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

主君の許しを得なければ婚姻は認められない時代の事、友忠の恋は若くあまりに一途だった。

 

友忠は性急に娘を京都に連れて行き災難に巻き込まれた。


 

悲劇はその娘があまりに美し過ぎたこと、主君の許しを得ない婚姻だったこと、

彼女が密使の相手の大名細川政元の目にとまってしまったこと。

 

娘は城内に奥として召しだされ、友忠は恋人を失った悲しみを28文字の漢詩にあらわして娘に届けることを試みた。

それは絶望的な片道切符の恋歌だった。(難解な漢字のため英文原訳)

Closely, closely the youthfull prince now follows after the gem-bright maid;

The tears of the fair one, falling, have moistened all her robes.

But the august lord, having once become enamored of her

..... the depth of his longing is like the depth of the sea.

Therefore it is only I that am left forlorn,

..... only I that am left to wander alone.

若き公子は宝石のように輝かしい乙女に追い迫る。

佳人の涙は振り落ちてその衣のことごとくを潤した。

しかし貴き公子がひとたび乙女を愛したからには

・・・・そのあこがれの深さは海のようだ。

それゆえに一人さびしく残されたのは私だ。

・・・・残されて一人憔然とさまようのは私だ。

 

漢詩が細川政元の目にとまり、友忠は城内に呼び出された。

 

死を覚悟して謁見の間に向かうと、政元が目に涙を浮かべてその漢詩をそらんじた。

  公子王孫遂后塵 緑珠垂涙滴羅巾 ・・・・・・

この恋に一途な若者の命懸けの歌に政元は深く魂を揺り動かされていた。

 

彼が媒酌として娘と友忠の婚儀を行い能登の主君の元へと戻った。

 

晴れて結ばれ、二人は5年の幸せな月日を送った。



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しかしある朝、友忠の妻は突然鋭いうめき声とともに苦しみだした。

彼女は自分が人間ではなく柳の精である事、

今そのとき自分の柳が誰かに切り倒されたため死ななければならないことを友忠に告げた。

 

妻は影がうすくなり消えて衣類だけが残った。

 

友忠は、剃髪し回国の僧となり巡礼地をまわり妻の霊のため祈った。

巡礼の途中越前の国で吹雪の一夜の宿を請うた小屋のあたりを尋ねるとそこには3つの柳の切り株があった。

2つは古木、若木の切り株は比較的新しいものだった。

 

友忠は老爺老婆と妻の為に経文を彫り込んだ墓をたて幾度も仏事を営んだ。

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蛇足:

ハーンが出雲松江の中学に赴任したのは、鹿鳴館など日本が急速に西欧化をしていた時代の1890年8月のこと。

彼は、西欧化を好ましく思わず、古事記の舞台となった松江の古来の醇風美俗を好んだ。

骨董浮世絵書画の価値を求め、神社仏閣名所旧跡に訪れ学生達に日本のワビサビや牡丹・幽霊・蛍・時鳥のような題で英文を書かせた。

それほど日本の文化に興味をもったハーンが西洋に世界最古の長編小悦と言われる『源氏物語』を紹介しようとしなかったのは何故でしょう?知らないはずはないでしょう。

それは、伴侶となった小泉節子を通じて知った慎ましさ・献身愛・貞節を日本女性の美徳と信じたからだと思います。

時としてハーンは盲目の琵琶法師となり夫人は法師を安徳天王の墓へ導く亡霊を演じ原稿を進めました。

『天の河』は婦人が泣いて話し、ハーンは泣きながら聞いてストーリーを綴ったと。

彼の遺作『日本:Japan: An attempt at Interpretation』は日本の家族制度、祖先崇拝など日本固有の物を論じ仏教・儒教・キリスト教の伝来など日本の精神社会の変遷を綴ったとのこと。

その原稿を送り、最後の校正を確認したのは死ぬ数日前。

日本人より日本の文化と人を愛したギリシャ生まれの日本人でした。   Jan.11 2010