3・11、石巻赤十字病院の様子がカメラに収められていた。

すぐに自家発電に切り替えられ、大災害発生時マニュアルに従い動き出した。

石井正医師を中心にトリアージの準備が始まり、赤ブース(命の危険のある患者)、ここは小林道生医師がチーフになり対応を開始。「当社は患者があまり来なかった。」という。

その理由は、その外では想像を超える事態が起きていたからだった。

石井医師は状況を把握するために自衛隊ヘリに乗せてもらって様子を見た。

-----------------------------------

発生直後はほとんど来なかった患者。ところが一気に状況が変わる。巨大津波の被害が大きく当初病院に来ることができなかった患者が、大量に訪問した。どこにも行き場の無くなった人たちが訪れ、赤ブースにも次次と患者が運ばれ、どの人も今までに無い状態だった。「死の海でした。」と患者。低体温の患者がほとんどで、蘇生も不可能な人たちもいた。

津波に襲われた人の「津波肺」、ガソリンなどを一緒に吸い込んだ人に起きる珍しい症状。木村さんは崩れた家の一階にいて津波に襲われた。

亡くなった人の9割は溺死だったといわれる。

-----------------------------------

震災から10日目、生存者が発見された。災害医療でも稀有な生存者で、赤ブースに運ばれた。80歳の阿部さん、16歳の阿部任さん。孫子だった。ギリギリ水分などが保たれていた。しかし任さんは足は凍傷になり、震えだした。祖母も冷蔵庫が近くにあり、かろうじて食料にも恵まれた奇跡の生還だった。

石巻赤十字病院はいきなり20万人の地域の医療を一気に任されることになった。

石井医師は陣頭にたって、地域の医師・看護師の配分などを行う。

しかし市内のほとんどの道路が寸断しており、避難所への往診もままならない。7万人いるといわれる避難民にいかにして医師を投入するか。石井さん「早くしないと。この瞬間に亡くなっている。」と訴える。

本来調査すべき自治体行政は動けない。医師自らが300箇所の避難所をローラー作戦で調査する。

被災地に広まっていたのは、想像を絶する状況。瓦礫に挟まったまま動けない老婆もいた。避難所には医薬品や水が不足していないかなど調査して回る。避難所の環境は劣悪で、寒さから体調を崩す人が多く、命の危険にさらされる人も少なくなかった。

「携帯もきかないし、このあたりの避難所は足で情報を得るしかない」と避難所にいた看護師は語る。

-----------------------------------

医師たちの仮眠室となった場所で石井医師は調査の結果をまとめた。

深刻な状況が浮かび上がってきた。明らかになったのは医療以前の問題だった。震災後10日たっても、避難所に食料などが回っていない箇所があった。石井医師は食料を配るよう市に依頼。市の職員に直談判するが埒が明かず、県の直接依頼に行く。「県がダメだったら国に行きます。それでもダメだったら日本はダメだってことです。」

仙台市に車を走らせる。そこはコンビニが営業しており、店舗も開いていた。

石井医師は県に訴える。「市に送ったから終わりじゃなくて、県レベルで石巻救済で動くべきだ。」窮状を誰に訴えていけばいいのか、現状を知っていただきたいと訴える。

石巻市に何故食料が届かないのか?

それは市が実態を把握できず、(自身が被災したため)、県への要求。国への要求が不足していたためだった。

訴えが実ったのは、2週間後だった。石巻市で唯一明かりが灯る赤十字病院。医師たちも被災した人がいるが先の見えない対応に従事していた。

-----------------------------------

1日300人、通常の5倍にもなる患者数。重症の患者も少なくない。

小林医師は被災地以外の病院への患者搬送も決める。「全部受け入れたら患者の数が多すぎて溢れてしまう。」

タムラミツコさん、破傷風という診断。自宅を片付けているときに指先にキズを負って、そこから感染したと思われる。

震災から2週間たっても瓦礫に覆われる被災地は感染症の危険が潜んでいた。

タムラさんの自宅。夫の照記さんが片付けを行っていた。

ミツコさんの容態が急変した。照記さんも見守る。県外の病院に転送は可能か?小林医師は埼玉の病院に要請する。しかしヘリコプターが悪天候では飛ばない。県や自衛隊に依頼し、ようやく2時間後に山形県からヘリが到着。ミツコさんは夫や小林医師に見送られながら、埼玉に向かい、2時間後に到着した。

-----------------------------------

石井医師は感染症の予防に乗り出した。

汚物を新聞紙にくるんで捨てている現状。水道が出ないので手を洗うこともできない。

唯一使える水はプールに溜まった津波の水。住民はバケツにくみ上げて使っていた。しかし感染症の危険にさらされることになる。

こうした劣悪な避難所が100箇所以上あった。家が無い、下水が無い、上水が無い。せめて水が使える環境への移動を進める石井医師。しかし住民は住み慣れた土地を離れることに腰が重い。

-----------------------------------

行政によるインフラ復旧が追いつかない中、石井医師は国際赤十字のルートを使って簡単な水道施設の付設を計画・実施。被災地の11箇所に取り付けた。給水車が来て水を提供する。応急措置ではあるが前よりはいい。と石井医師。

-----------------------------------

4月末、新たな直面が出てきた。気力を失いカラダが弱ってくる人が増えてきたのだ。

水沼清美さん68歳。敗血症で運ばれてきた。抵抗力があればかからない病気だ。水沼さんは急激に体力が衰えて、翌日亡くなった。

この3ヶ月で264人が亡くなった。

小林医師「終ることは無いと思うし、1日1日できることをやるしかない。」

埼玉に運ばれたタムラミツコさんは、一命をとりとめて、夫が面会に来た。

「元気でみんなに会えてうれしいです。遠いところ来てくれてありがとう。」と筆談。

照記さんは石巻に戻り、小林医師に報告。つなぎとめた命だった。

-----------------------------------

3ヶ月以上たった石巻。冠水している場所もある。下水から水が上がってくるという。

石井医師は避難所を訪問し、他の地域への移住を勧める。体調を考えるとそれがベターと考えているからだ。

災害地の医療システムを再立ち上げするという途方も無い仕事に、石井正医師は向き合っていく。

梅雨を迎えて、医師たちは今もなお終りのない闘いを行っている。