未来を見通す鍵は歴史の中にある。PROJECT JAPANの一環として総合テレビでの放送開始。

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中国東北部のハルビン駅。その一番ホームに暗殺者と被害者として散った二人の立ち位置が刻まれている。

被害者は伊藤博文。最晩年は韓国の統監だった。伊藤はハルビン駅に到着。暗殺者は安重根。伊藤は担ぎこまれた車の中で絶命。安は5ヵ月後に処刑された。

韓国で安重根は「東洋平和論」の先駆者として敬われている。

日本の東京では伊藤の没後100年供養が行なわれた。

韓国併合の最先端にいたといわれる伊藤だが、研究によって、韓国人による政治も考えていたことがわかった。

1910年日本は韓国を併合し、以後35年にわたる支配を行なう。

伊藤博文と安重根をグローバルな視点から見つめなおす。

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解説委員の五十嵐さんがナビゲーター。

1868年明治維新。1875年江華島事件。1905年第二次日韓協約。この協約が大きな転換点となる。

番組ではこの協約がどのように結ばれたのかを追う。

1894年日清戦争が始まり、キョンボックンを制覇した日本。この当時、朝鮮は清の属国だった。清の影響力を排除しようとする日本は、日本の独立安全には周辺国の独立安全が大事と考えて、朝鮮半島を清から独立させようと考えた。

清に勝利した日本は思惑どおりに清の影響力を排除することに成功するが、遼東半島の割譲を受けたことで、列強の干渉を呼び、返還を余儀なくされる。

ロシアは極東進出を本格化させていた。ウラジオストクを拠点に、冬も凍らない港を手に入れようとするロシアに対し、日本は大国の脅威をまざまざとみせられた三国干渉であった。

朝鮮王朝のミンヒ王妃はロシアの力を後ろ盾にしようとするが、日本の三浦はミンヒ王妃を殺害し、焼き捨ててしまう。この事件で国王コジョンは日本に反発し、ロシアの大使館で執務を行なう。

1897年10月、国王は大韓帝国設立を宣言し、独立を世界に示した。

安はこの不安定な時期に、ヤンバンという身分の家に育ち、高い教養をもっていた。現在アメリカに住む安の子孫。「祖父は本当に純粋な人だったと思います。無垢でロマンチストで。」

安は17歳のときにキリスト教に入信。カトリックとの出会いで欧州文化などの広い世界を知り。弱肉強食の時代であることを知る。

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日本は義和団事件でロシアの脅威を感じる。伊藤博文はロシアとの戦いは回避しようとしていた。弱肉強食の時代にはまず国力を付けることが大事で、そのためには戦いを回避すべきと考えていた。

しかし英国と同盟を結び、ロシアとの交渉は決裂し、1904年日露戦争が勃発。

韓国のコジョン国王は中立を宣言したが、日本が議定書によって、日本側に組み入れられて中立宣言は事実上破棄された。

日露戦争は、予想を覆して日本の勝利に終わり、列強に苦しめられたアジアの国々は喝采をあげて歓迎した。

安もこの勝利に感動したと記録している。

日本は1905年、7月の桂・タフト協定で韓国の優先的利益を日本が持つことを認めさせる。英国にも同様の協定を結ぶ。そして伊藤博文は韓国の統監として半島に出向く。

11月15日に伊藤はコジョンに謁見し、コジョンは外交権を残すことを主張する。伊藤はその場合は、これ以下の境遇になることを覚悟せよと返す。

コジョンは大臣たちに妥協の道を探らせるが、伊藤の主導で各大臣ひとりひとり個別に聞く。各大臣は協約に不同意を証明するが多数決で成立とされた。このとき締結された第二次協約は、韓国の外交権を日本に委任するとうたわれた。コジュン国王は納得せずに国際法に照らして訴えようと親書を作成する。「署名は武力による威嚇のもとに行なわれた。」、数ヶ国語に翻訳して作成するが、韓国から列強が引き上げたことにより、事実上日本の支配化に入ったことが証明されることになる。

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1907年オランダハーグに密使を派遣したコジョン。一行は宿に韓国国旗を掲げ、国会議事堂で日本を告発することにしていたが、密使たちは議場に入ることを許されなかった。その理由は議長国であるロシアが、密使の登場を拒否したからだった。

ロシアはモンゴルなどの権益と引き換えに、日本が韓国の権益を得ることの取引を行なっていたのだった。

列強の同意を取り付けた日本の前に、コジョンの働きかけは実を結ぶことが無かった。

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①批准書が無い。皇帝の署名が無い。など協定書がゆうこうかどうかをめぐる論争は今でも日韓の間で続いている。

また②軍事的な圧力があったか。という論点もある。

もちろん政府も、日本は「合法」、韓国は「不法」という判断をしている。

これは戦後の「補償問題」にもつながるので激しい論争になった。

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去年の秋、ソウルの町に巨大な手形が登場した。安重根のもので、安は独立運動化として韓国ナショナリズムの英雄となっている。安は「日本は元も親しく、最も近くて、弱くて従順な韓国の主権を脅かした。」と書いている。

1906年伊藤博文が総監となり韓国に入った。

最近の研究では、伊藤の考えに、韓国8道を韓国の議員選出し、責任内閣をつくることによる自立・自治の道も考えていたという。

施政改善を日本から1000万円の借款で行い、日本でも成功した近代化を韓国でも根付かせようと考えたと思われる。ところがこれは人々の反感を買う。「国債報償運動」で借款を返そうという運動が、第4の都市テグから始まった。男性が禁煙してタバコ代を節約。女性は髪飾りなどを供出した。

安もこの行動に賛同した。運動は3ヶ月の間に韓国全土に広まった。伊藤はこの運動に不快感を示す。「国債報償運動」を引っ張ったのは、韓国のナショナリズムだった。学校の設立が2000を超える規模で行なわれ、安も2つの学校を設立した。安はキリスト教を通じて世界を知ったことから英語教育に力を入れた。そして漢字からハングルへの公用語を変えて、大衆への教育浸透を図った。

伊藤は当初、このナショナリズムを容認していた。その後伊藤の批判が言論として新聞に掲載され始め、苛立ちをつのらせていた。

その伊藤が怒ったのはハーグ密使事件だった。伊藤はこの事件を契機にして、イ・ワニョン内閣時代に、国王コジョンを病弱な息子のスジョンに委譲させ、統監への権力集中をはかる。また軍隊を解散させた。

安は義勇兵となっていった。ヤンバンという知識階級だったイさん。その祖父イ・スンヒョンさんは1000人の兵で挙兵、父も義兵を率いて挙兵した。しかし兵器や兵力には格段の差があり、義兵たちはみな死ぬ覚悟だったという。

こういった動きに伊藤は神経を尖らせて、ゲリラとなった義兵に悩み、日本から派兵を増加させる。義兵の死者は1万7千人を数えたという。

伊藤は一方で、国王を重要と見ていた。皇太子イ・ウンを日本に留学させて10歳のときから日本式の兵法を学ばせる。皇帝のスジョンの行幸も実現させる。伊藤は各地で統監の指示を訴えるが、各地で支持が得られていないことを痛感する。根強い反日感情を前に、伊藤の統監は暗礁に乗り上げる。

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伊藤之雄京都大学名誉教授「伊藤は初めて異なる人種の統治だった。」

伊藤は次第に併合へと方針を換えていく。

クラスキノというロシア領に、安は潜伏していた。1909年11人の同志とともに、指を切り落として結束を誓った。流れる血で「大韓独立」と旗に記したという。

1909年10月、安は伊藤の暗殺を決意。ハルビンに向かう。

同じ10月、伊藤は満州に向かう。列強の関心は満州に向かっており、権益を巡って思惑が交錯していた。伊藤はロシアとの関係強化でアメリカなどの力を排除しようとしていた。旅順で演説を行い’戦争は好ましいものではないが、世界は軍備を増強している。武装の平和は免れない。」とこの時代の様子がわかる最後の演説を行なう。

そしてハルビン駅で、68歳で銃弾に倒れる。日本では「国葬」が行なわれ、安は旅順の監獄に送られて、日本側の厳しい取調べを受ける。暗殺にいたる事情を聞かれると「東洋の平和を願っての行動」と答え、東洋の平和は独立してこそと述べ、死刑確定後「東洋平和論」を記す。’韓国人・中国人の希望はまったく断ち切られてしまった。’といった記載はあるが、書き終えることなく処刑された。

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伊藤暗殺から10ヵ月後の1910年8月、日本は韓国を併合。武断統治が開始される。アメリカ大使は「日本は今、’大陸国家’となった。日本は’ドイツ’に似ている。」と報告している。

日本はまさにこの後、中国大陸へと手を伸ばしていくことになる。

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五十嵐「現代のEUの連合構想や、日本が打ち出した「東アジア共同構想」もあるが、こういった過去を見つめていく必要がある。」