以下はNHKの放送内容を忠実にメモしたものです、私個人の意見や感想を述べたものではありません。あらかじめご了承願います。

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日本の近現代150年をたどる「プロジェクトJAPAN」の1回目。

150年前、世界にデビューしアジアの1等国を目指した日本。

長年の鎖国を解き、近代化の道を歩み始めた。1859年デビュー、1919年戦勝国となり世界の一等国になるが、1945年太平洋戦争に敗れて焦土となる。

第1回のテーマはアジア。「台湾」は初めて日本が植民地とした地域。

毎年秋に行われる祭りは大陸から移り住んだ「漢族」の行事。

太平洋戦争当時、日本兵として戦地に赴いた。その年代の方が集まって戦歌を歌う。

半世紀に渡り当地した日本は、太平洋戦争時20万の台湾人を兵士として徴用した。満州国にも台湾から移住させ日本の支配を支えた。インドネシア、ここも日本の支配が及び、日本語教育がほどこされた。

原点は台湾統治。台湾の先住民を1910年ロンドンの博覧会に見世物として「出品」した写真が残る。

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当時英仏は競ってアジア進出、植民地化していった。台湾はフランスとドイツが争っていたが、日清戦争に勝利した日本が先んじた。その頃フランスでは日本の植民地化も議論されていたという。日本は危機感を持ち、植民地を持つことで三等国ではないことを示す必要があった。その南の要として台湾を統治。台湾総督府を置き、伊藤博文があたった。

初めての植民地の統治の様子がわかるのが「台湾総督府文書」2万6千冊に及ぶ。最大で27000人の官僚を抱える巨大な総督府であった。

しかし漢民族としての誇りを持つ民族は激しい抵抗を示し、戦闘に発展したこともあった。抵抗は激しさを増して、小競り合いから、戦争というべき規模にまでなっていった。

台湾では「樟脳」が採れ、セルロイドに使われたり、無煙火薬の材料として世界に広く輸出されていたが、日本統治下で混乱し、次々と工場閉鎖に追い込まれていった。イギリスは日本の統治の手際の悪さが報告され、フランスも「まったくの未経験者に統治されて混乱」と報告されていた。

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日本政府内でも大きな混乱が起きていた。明治憲法のもとでは国民は「天皇の臣民」であるということになるが、台湾人をどう扱うかで議論になった。そこでフランスのアルジェリア統治を見習い同化政策をとるのか、イギリスのインド統治を見習い、別人民とするのか。日本はその折衷案をとる。

後藤新平が統治に当たって先住民族を調査する。後藤は村々に足を運んでいった。その文書が資料館に残る。後藤は「台湾人を日本人と同じように扱うのは困難」と判断する。

後藤は台湾人にのみ適用される刑罰令を決め、まずは治安の維持を最優先する。条例施行後の5年間で3000人が死刑に処された。また台湾人の協力者を取り込んでいった。

カ・シュウケツさんは住民を監視し、総督府に報告する役割を担った。日本側がそういった人たちを組織化していった。後藤は台湾人の通う「公学校」を設置。カさんは息子ブントクさんを日本人が通う学校に通わせようとして大問題に発展し、退学を命じられた。後藤は台湾人と日本人の児童は教育内容が異なると通達した。

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後藤は樟脳の生産現場の整備も進めた。貿易の拠点となったキールンを大型貿易船が入るよう広げ、輸送のための鉄道を敷き、樟脳の生産は黒字化していった。

イギリスも樟脳生産が安定化したことを歓迎。

そして日本は統治能力を世界に訴える機会を持つ。日本の産業や文化を幅広く紹介する日英博覧会。特にパイワン族の家を作り暮らしぶりを見世物にした。英仏の「人間動物園」を真似したのだった。民族の違いで階層があるという世界観が根付いていった。

台湾南部高士村。約100年前に博覧会に連れていかれた人たちの祖先が住んでいる。展示された青年の息子と娘。父チャバイバルさんはこの子供たちに当時のことを語ることは無かった。息子も娘も「悲しくて重い。」と語る。

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台北第一中学校の生徒たちの写真。1914年第一次世界大戦勃発。日本はイギリス側にたって参戦し、戦勝国の一員となる。1919年パリ講和会議で日本は初めて5大国の一員として参加し、大特派員団を派遣した。

しかしウィルソン首相の「民族自決主義」発言によって、インドのガンジーは非暴力不服従運動を展開。フランス統治下のベトナムでも独立運動が開始され、韓国では三一運動が起きて死者も出た。

台湾においても民族運動が行われた。台湾議会設置請願運動では、台湾人の自治を求め、1921年には請願書が提出された。日本は原敬が世界の流れとは異なり同化政策を推し進める。

日本だけが同化政策を採るのか?という意見も出たが、原首相は「他の国の植民地と日本の植民地は違う」と琉球を例にとって同化政策の正当性を主張。原は台湾議会の設置を認めなかった。

同化政策でまず重視されたのは教育だった。同じ小学校へ通い、中学校への進学も許可された。かつては退学させられたが、この政策からは同じ学校に通うことになった。

カ・トクゾウさんは日本人のなかでわずか3%程度だったという。台北一中の同窓生。その集まりがあってカさんも参加。しかし弁当のおかずなど差別に苦しんだ。社会に出るとさらに露骨な差別を受けることになる。戸籍が入らない。職場では昇格できないなど。

日本統治時代をどう思いますか?という質問に「嫌だなあ。差別して馬鹿にしおって」と搾り出すように語る男性。

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遠く離れた臣民に知らしめるとして皇太子を迎え入れることになった。先住民が列席。「不動の姿勢」が大苦痛であったと記録にある。皇太子(昭和天皇)が台湾を12日間に渡って視察。日本化されていく台湾を視察、100箇所以上をまわった。彼らは朝廷臣民となったという感想が記録してある。

ショーさんの父は、皇太子の通る道で議会の設置を直接申し入れようとするが、事前に逮捕され拘束されていた。

この「台湾自治」を認めることが無かったことが、流れとして日中戦争勃発により、内側に漢族という敵側と同じ民族を抱えることになる。

皇国民たることを小林総督は要求。中国語を禁止し、日本語の使用を強要した。

田宮さんはその方針を実践してきたが、バスにも日本語を話せないと乗せてもらえなかったという。

創氏改名が開始されて、日本人名化が進められた。黄さんは廣内さん、林さんは中林、小林、大林など。

そして宗教の禁止。廟の取り壊しなどが始まった。神様の像などが集められ全て焼かれた。従わないものは29日間も刑務所に入れられたという。その一方で、破壊した木材などから神社が作られた。

「20何年かの教育は実に恐ろしい。日文でしか書けない。果たして幸福かどうか」とカさん。

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フィルムが残っている。皇国臣民として天皇のため命をささげるとして、南方の戦場に送られた。フィルムではスローガンを暗証し、兵士の訓練を受ける若者たち。総督府前を行進する台湾兵。21万人が徴兵された。

カさんは大学の医学部に進学していたが、兄弟など戦地に赴いたものの行方はわからないという。

1945年、敗戦によりアジアの一等国は消えた。

再び軍歌を歌う台湾のお年寄りたち。教育勅語をそらんじる人。

戦後、蒋介石率いる国民党が統治し、漢民族の敵だったとして台湾人の多くの人々が処刑された。

「命をかけて尽くしたのに、・・・」と老人。

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他者の歴史を知ることが、自分を知ること。他国の人が日本人をどう見ているかに向き合う必要がある。