オシムジャパン、上々の出だし | 独断と偏見の日記帳

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 日本代表vsペルー代表。


 土曜日、見てました。


 それにしても、巻。オシムジャパンになってようやくの得点。良かった良かった。それに中村俊輔と高原直泰は最高だったなあ。まあ、ペルーがそんなにパッとしなかったし、ミスも双方多かったし、収穫といってどんな収穫かなとよく考えないと・・・・。


 で、思ったのがいまのオシムサッカーは、ジーコとトルシエの融合型ではないかと。後半途中からワンタッチ、ツータッチのパス回しからの攻撃は、かつてトルシエが提言していたプレーのひとつではなかったか。いわゆるダイレクトプレーだ。


 さらに早いパス回しということは、ボールをもつ選手の前に、追い越していく選手がいなければスピーディーなサッカーは出来ない。この追い越す動きというのもトルシエ時代に提唱されていなかったか。


 また、オシムが早くから提唱している「考える」は、ジーコが提唱していなかったか。つねにポゼッションをしながら、次の攻撃を考える。選手間で考える。ジーコに関してはとかく言われているが、「求めよ、さらば与えられん」という指導法ではなかったのかと思う。つまり、「求めなければ、いいものを自分のものには出来ない」という論理。キリスト教(カトリック系かな)的な考えがあったのではないだろうか。


 日本人はそこを読み違えていたのではないか。それが、はっきりしているのは欧州の指導者オシムのやり方だ。どこか、ぶっきらぼう的な指導法をしているように思えるが、内容は決め細やかだ。日本人には南米的な指導者よりも欧州型の法がいいのではないかと思えるのだ。しかし、それで本当にいいのだろうかと??思ってしまう。


 オシムは、ある意味、トルシエとジーコの理論をまとめているように思える。


 ただ、ようは選手が自分達で考え、戦略・戦術を試合中に臨機応変に対応し立案できるかにかかっている。某評論家は、そんなことを言えば監督は要らない。などという暴言を吐いておられたが、試合中は、監督は見守ることしか出来ない。投入もカンフル剤になってもらえればと思って投入する。選手が活躍するかしないかはその選手次第ということになる。


 その例が、一点目のシーン。これまで遠藤が蹴っていたFKを中村俊輔が蹴って、先制点を挙げた。これまでのセオリーを覆すような発想も時には必要だということを見せ付けたシーンでもあった。日本に足りないものは、試合中でのアイデアの欠乏だ。そうなってしまうのは、これまでの指導法にもよるだろう。しかし、とっさのアイデアひとつで試合の流れも試合自体も決することがあるというのは選手自身も持つべきだろう。