仏教の基本は四諦(四つの真理・苦・集・滅・道)が通説だが、それ以前にも多くの経典が存在し、釈尊の実話はその部分に書かれる。

①スッタパータの4章⑮は釈尊の生身の声(最古層)

②スッタパータの4章のその他の経は、直弟子の声(第二層)

③スッタパータの5章は、仏滅後の弟子の声(第三層)

④サムユッタ・ニカーヤの偈を有する有偈章やテーラーテーリー偈は多くの初期の弟子の声(第四層)

⑤それ以後の経典は、以上の生の声が整理されてできた経典(第五層以降)

⑥有部仏教・大乗経典・この後、これらは平行して説かれていった

⑦密教経典・阿弥陀経典・禅経典

相当雑であるが、このようになるであろうか。


面白いのは、どう考えても①②③は①→②→③であり、この順はまず間違いなく、④は釈尊在世のものが含まれると思われるから成立は遅いが、内容は早いものがある。①②③の内容は差異があり、時代を考えざるをえない。


きょう取りあげる経典は⑤の時代のものである。その内容は苦楽中道であり、そのことが最初に触れられるのは①②のスッタパータの4章である。


中道説には

①苦楽中道

②断常中道

③有無中道

の三種類があると、平川彰先生は詳説されている(法と縁起)。③有無中道は②第二古層のスッタパータの4章②経に説かれた内容を引き継いだ形で説かれる。②断常中道はそれより遅れて道Sn4-⑪経に説かれる。

とするならば、中道説の中で①苦楽中道説は、最も古く釈尊の息吹を感じさせるものと言える。

さて、ここまでは読みとばしていただいて結構であり、ここからが本論である。


サムユッタ・ニカーヤSN5-12-11にこう説かれる


‘‘dveme, bhikkhave, antā pabbajitena na sevitabbā. Katame dve?

Yo cāyaṃ kāmesu kāmasukhallikānuyogo hīno gammo pothujjaniko anariyo anatthasaṃhito,

yo cāyaṃ attakilamathānuyogo dukkho anariyo anatthasaṃhito.

Ete kho, bhikkhave, ubho ante anupagamma majjhimā paṭipadā tathāgatena abhisambuddhā cakkhukaraṇī ñāṇakaraṇī upasamāya abhiññāya sambodhāya nibbānāya saṃvattati’’


比丘らよ、二つに親近するな、二つとは何か


欲望の対象の中に住んで、それを幸福として耽溺するならば、それは劣った行いであり、劣位の生存者のものであり、聖にあらず、義を伴わない


また

自分を疲弊させることに没頭するならば、不幸であり、聖にあらず義を伴わない


如来はこの二つの極端を乗り越えて、中間の道を歩んで、まさにありありと悟ったのである


これが、眼を生じ、知恵を生じ、静寂へ、覚悟へ、正覚へ、涅槃へ赴くものである


多少訳が心もとないが


苦楽中道の楽とは

①kāmesu kāmasukhallikānuyo

苦とは

②attakilamathānuyogo

である。


インドの言葉でカーマはカーマスートラなどで知られる言葉である。

①カーマの中でカーマを喜んで浸るのが一方の極端

もう一方の極端は

②自分を苦しめること


この偈文のあと、八正道が説かれ、その後四諦が説かれ、四諦を知ることで、法眼(法を見る知恵)が生じて、再生しないと説かれる


つづく