音のない平原に横たわって、真っ暗な空を仰ぐ。灰色の丘から地球が昇るころには、自然と眠りに落ちている。それが平穏な、静かな、終わりのない私の日課――だと思っていた。
虚ろな青年が、私の傍らに立っている。いつからいたのかわからない。
「月を探しています」
虚ろな青年がぼそりと呟いた。
「月を探しているのですか」
私は聞き返した。うつむき加減だった青年が少し顔を上げた。私の言葉に反応できるらしい。
「ここは、月でしょうか」
青年の唇がゆっくりとなめらかに動く。
「ここを、月だと思いましたか」
私は、いかなる発声器官も使用していない自分に気がついた。もとより、声を発したとしても、その振動を伝達するための大気は、ここにはまだない。それは相手にとっても同様であるはずなのに、私は彼の声を聞き、彼も私の声を聞いている。
「あなたは、誰ですか」
これがどちらの言葉なのか判別できない。私なのか、彼なのか。いや、判別する必要がないのか。お互いが何者であるか、これは私と彼の共通の疑問なのだろうから。
未知の体験に私の全細胞がざわめきはじめる。私の異変を察知したカーボンフレームが一機、右肩に飛来した。この青年は何者か、と私は問うが、カーボンフレームからは、対象を指定してください、と問い返されるばかり。目の前の青年を感知できないらしい。
「黒い天使が、いるのですね」
感嘆めいた口調の青年が、私の右肩に青白い手を伸ばした。それでも、カーボンフレームは反応しない。青年の手が、柔らかなモノを包み込むかのように、カーボンフレームの周囲をゆっくりと移動する。黒い骨格のみで構成されているこの冷たいマシンに肉付けをするなら、その輪郭は青年の手の軌跡に一致するであろう。青年の手は自身が発光しているようにも見える。しかし、存在感がまるでない。私の認知過程に問題があるのだろうか。それとも、あの地球にかつて生きていた人間の性質なのだろうか。あるいは、私のような、外宇宙からの来訪者なのか。
「あなたは、地球から来たのですか」
愚問である。私は自分を責めた。仮に青年の答えがイエスであれば、続く質問は「どうやって来たのか」となる。聞くまでもない、そんなことは不可能なのだから。テクノロジーの問題ではない。青年は生身の人間だ。宇宙空間では、死ぬ。しかし、この青年は生きているのである。
――本当に生きているのだろうか。
ありえない疑問がふっと沸き上がった。即座に否定した。私の思考システムは健全か、おかしくないか。生きているのだから、ここにいるのだ。
――本当にいるのだろうか。
この疑問は正常である。私は採用した。展開される最も単純な推論は、青年が虚像であるということだ。空間をスクリーンに、立体物を投影する方法はいくらでもある。地球人類がその技術をものにしていても不思議ではない。私は青年の腕に触ろうとした。すっとすり抜けた。私は確信する。
「あなたの本体はどこにあるのですか」
より的確な質問である。衛星軌道を漂う無数の地球遺跡のなかに、もしかしたら生きているシステムがあるのかもしれない。
「ポケットに入るような気がしたのです」
青年の言葉に、私の思考が止まる。
「彼女はいつも手を伸ばして、月が欲しい、とひとり泣いていました」
何を、言っているのだろう。青年は両腕を弱々しく空に向かって突きだしている。
「だけど、月は、掴めなかった。彼女にも、ぼくにも――」
「ある晩、ぼくは死にました。彼女のナイフに貫かれて。ささいな口論でした。覚えていません。でもぼくが悪かったのです」
青年が胸を押さえている。衣服にじわりと染みが広がる。
「歩きました。肉体は失いました。だから重力もぼくを見逃しました。暗くてさみしいところを歩きました。歩き続けました」
青年は直立の姿勢をとると、うっすらと笑みを浮かべた。
「月を目指して」
青年の言葉は、私の疑問を何一つ解消しなかった。もう、問いかけるのはやめよう。理解はできないが、この青年もまた、悲しい存在なのだ――私と同じ。
「残念ですが、月は正反対の位置にあります。この船から見て、地球の向こう側。あなたは月と間違えてしまったのですね。ここはたいへん大きな船ですから」
私の言葉が青年を傷つけるだろうか。しかし、青年の表情に曇りはない。
「月も同じぐらい大きいですから、あなたのポケットには入らないでしょう。気の毒です。もしよろしければ、これを代わりにポケットに入れてはどうでしょうか」
私は眼球の一つを取り外し、その白く輝く球体を青年に差し出した。
「ありがとう。美しい。あのころ彼女と見上げていた、空の月のようです」
実体のないはずの青年が、たしかに私の眼球を受け取った。空洞となった眼孔内では、眼球の再生が始まっている。そのかすかな振動さえも、今は感じ取れるようだ。
「少し休んでいきませんか。今度は私の話も聞いて欲しい。長い長い旅の話。この船に眠る主たちの話。暗い暗い、宇宙の洪水の話。ああ、ほら見てください。地球が昇る時間です」
私は灰色の丘の一端を指差した。青年の視線がそれを追う。
真っ赤に燃える地球が、真っ暗な空を仄かに染めながら、ゆっくりと上昇する。
たぶん、遠い未来の風景。
虚ろな青年が、私の傍らに立っている。いつからいたのかわからない。
「月を探しています」
虚ろな青年がぼそりと呟いた。
「月を探しているのですか」
私は聞き返した。うつむき加減だった青年が少し顔を上げた。私の言葉に反応できるらしい。
「ここは、月でしょうか」
青年の唇がゆっくりとなめらかに動く。
「ここを、月だと思いましたか」
私は、いかなる発声器官も使用していない自分に気がついた。もとより、声を発したとしても、その振動を伝達するための大気は、ここにはまだない。それは相手にとっても同様であるはずなのに、私は彼の声を聞き、彼も私の声を聞いている。
「あなたは、誰ですか」
これがどちらの言葉なのか判別できない。私なのか、彼なのか。いや、判別する必要がないのか。お互いが何者であるか、これは私と彼の共通の疑問なのだろうから。
未知の体験に私の全細胞がざわめきはじめる。私の異変を察知したカーボンフレームが一機、右肩に飛来した。この青年は何者か、と私は問うが、カーボンフレームからは、対象を指定してください、と問い返されるばかり。目の前の青年を感知できないらしい。
「黒い天使が、いるのですね」
感嘆めいた口調の青年が、私の右肩に青白い手を伸ばした。それでも、カーボンフレームは反応しない。青年の手が、柔らかなモノを包み込むかのように、カーボンフレームの周囲をゆっくりと移動する。黒い骨格のみで構成されているこの冷たいマシンに肉付けをするなら、その輪郭は青年の手の軌跡に一致するであろう。青年の手は自身が発光しているようにも見える。しかし、存在感がまるでない。私の認知過程に問題があるのだろうか。それとも、あの地球にかつて生きていた人間の性質なのだろうか。あるいは、私のような、外宇宙からの来訪者なのか。
「あなたは、地球から来たのですか」
愚問である。私は自分を責めた。仮に青年の答えがイエスであれば、続く質問は「どうやって来たのか」となる。聞くまでもない、そんなことは不可能なのだから。テクノロジーの問題ではない。青年は生身の人間だ。宇宙空間では、死ぬ。しかし、この青年は生きているのである。
――本当に生きているのだろうか。
ありえない疑問がふっと沸き上がった。即座に否定した。私の思考システムは健全か、おかしくないか。生きているのだから、ここにいるのだ。
――本当にいるのだろうか。
この疑問は正常である。私は採用した。展開される最も単純な推論は、青年が虚像であるということだ。空間をスクリーンに、立体物を投影する方法はいくらでもある。地球人類がその技術をものにしていても不思議ではない。私は青年の腕に触ろうとした。すっとすり抜けた。私は確信する。
「あなたの本体はどこにあるのですか」
より的確な質問である。衛星軌道を漂う無数の地球遺跡のなかに、もしかしたら生きているシステムがあるのかもしれない。
「ポケットに入るような気がしたのです」
青年の言葉に、私の思考が止まる。
「彼女はいつも手を伸ばして、月が欲しい、とひとり泣いていました」
何を、言っているのだろう。青年は両腕を弱々しく空に向かって突きだしている。
「だけど、月は、掴めなかった。彼女にも、ぼくにも――」
「ある晩、ぼくは死にました。彼女のナイフに貫かれて。ささいな口論でした。覚えていません。でもぼくが悪かったのです」
青年が胸を押さえている。衣服にじわりと染みが広がる。
「歩きました。肉体は失いました。だから重力もぼくを見逃しました。暗くてさみしいところを歩きました。歩き続けました」
青年は直立の姿勢をとると、うっすらと笑みを浮かべた。
「月を目指して」
青年の言葉は、私の疑問を何一つ解消しなかった。もう、問いかけるのはやめよう。理解はできないが、この青年もまた、悲しい存在なのだ――私と同じ。
「残念ですが、月は正反対の位置にあります。この船から見て、地球の向こう側。あなたは月と間違えてしまったのですね。ここはたいへん大きな船ですから」
私の言葉が青年を傷つけるだろうか。しかし、青年の表情に曇りはない。
「月も同じぐらい大きいですから、あなたのポケットには入らないでしょう。気の毒です。もしよろしければ、これを代わりにポケットに入れてはどうでしょうか」
私は眼球の一つを取り外し、その白く輝く球体を青年に差し出した。
「ありがとう。美しい。あのころ彼女と見上げていた、空の月のようです」
実体のないはずの青年が、たしかに私の眼球を受け取った。空洞となった眼孔内では、眼球の再生が始まっている。そのかすかな振動さえも、今は感じ取れるようだ。
「少し休んでいきませんか。今度は私の話も聞いて欲しい。長い長い旅の話。この船に眠る主たちの話。暗い暗い、宇宙の洪水の話。ああ、ほら見てください。地球が昇る時間です」
私は灰色の丘の一端を指差した。青年の視線がそれを追う。
真っ赤に燃える地球が、真っ暗な空を仄かに染めながら、ゆっくりと上昇する。
たぶん、遠い未来の風景。