音のない平原に横たわって、真っ暗な空を仰ぐ。灰色の丘から地球が昇るころには、自然と眠りに落ちている。それが平穏な、静かな、終わりのない私の日課――だと思っていた。
 虚ろな青年が、私の傍らに立っている。いつからいたのかわからない。
「月を探しています」
 虚ろな青年がぼそりと呟いた。
「月を探しているのですか」
 私は聞き返した。うつむき加減だった青年が少し顔を上げた。私の言葉に反応できるらしい。
「ここは、月でしょうか」
 青年の唇がゆっくりとなめらかに動く。
「ここを、月だと思いましたか」
 私は、いかなる発声器官も使用していない自分に気がついた。もとより、声を発したとしても、その振動を伝達するための大気は、ここにはまだない。それは相手にとっても同様であるはずなのに、私は彼の声を聞き、彼も私の声を聞いている。
「あなたは、誰ですか」
 これがどちらの言葉なのか判別できない。私なのか、彼なのか。いや、判別する必要がないのか。お互いが何者であるか、これは私と彼の共通の疑問なのだろうから。
 未知の体験に私の全細胞がざわめきはじめる。私の異変を察知したカーボンフレームが一機、右肩に飛来した。この青年は何者か、と私は問うが、カーボンフレームからは、対象を指定してください、と問い返されるばかり。目の前の青年を感知できないらしい。
「黒い天使が、いるのですね」
 感嘆めいた口調の青年が、私の右肩に青白い手を伸ばした。それでも、カーボンフレームは反応しない。青年の手が、柔らかなモノを包み込むかのように、カーボンフレームの周囲をゆっくりと移動する。黒い骨格のみで構成されているこの冷たいマシンに肉付けをするなら、その輪郭は青年の手の軌跡に一致するであろう。青年の手は自身が発光しているようにも見える。しかし、存在感がまるでない。私の認知過程に問題があるのだろうか。それとも、あの地球にかつて生きていた人間の性質なのだろうか。あるいは、私のような、外宇宙からの来訪者なのか。
「あなたは、地球から来たのですか」
 愚問である。私は自分を責めた。仮に青年の答えがイエスであれば、続く質問は「どうやって来たのか」となる。聞くまでもない、そんなことは不可能なのだから。テクノロジーの問題ではない。青年は生身の人間だ。宇宙空間では、死ぬ。しかし、この青年は生きているのである。
 ――本当に生きているのだろうか。
 ありえない疑問がふっと沸き上がった。即座に否定した。私の思考システムは健全か、おかしくないか。生きているのだから、ここにいるのだ。
 ――本当にいるのだろうか。
 この疑問は正常である。私は採用した。展開される最も単純な推論は、青年が虚像であるということだ。空間をスクリーンに、立体物を投影する方法はいくらでもある。地球人類がその技術をものにしていても不思議ではない。私は青年の腕に触ろうとした。すっとすり抜けた。私は確信する。
「あなたの本体はどこにあるのですか」
 より的確な質問である。衛星軌道を漂う無数の地球遺跡のなかに、もしかしたら生きているシステムがあるのかもしれない。
「ポケットに入るような気がしたのです」
 青年の言葉に、私の思考が止まる。
「彼女はいつも手を伸ばして、月が欲しい、とひとり泣いていました」
 何を、言っているのだろう。青年は両腕を弱々しく空に向かって突きだしている。
「だけど、月は、掴めなかった。彼女にも、ぼくにも――」
「ある晩、ぼくは死にました。彼女のナイフに貫かれて。ささいな口論でした。覚えていません。でもぼくが悪かったのです」
 青年が胸を押さえている。衣服にじわりと染みが広がる。
「歩きました。肉体は失いました。だから重力もぼくを見逃しました。暗くてさみしいところを歩きました。歩き続けました」
 青年は直立の姿勢をとると、うっすらと笑みを浮かべた。
「月を目指して」
 青年の言葉は、私の疑問を何一つ解消しなかった。もう、問いかけるのはやめよう。理解はできないが、この青年もまた、悲しい存在なのだ――私と同じ。
「残念ですが、月は正反対の位置にあります。この船から見て、地球の向こう側。あなたは月と間違えてしまったのですね。ここはたいへん大きな船ですから」
 私の言葉が青年を傷つけるだろうか。しかし、青年の表情に曇りはない。
「月も同じぐらい大きいですから、あなたのポケットには入らないでしょう。気の毒です。もしよろしければ、これを代わりにポケットに入れてはどうでしょうか」
 私は眼球の一つを取り外し、その白く輝く球体を青年に差し出した。
「ありがとう。美しい。あのころ彼女と見上げていた、空の月のようです」
 実体のないはずの青年が、たしかに私の眼球を受け取った。空洞となった眼孔内では、眼球の再生が始まっている。そのかすかな振動さえも、今は感じ取れるようだ。
「少し休んでいきませんか。今度は私の話も聞いて欲しい。長い長い旅の話。この船に眠る主たちの話。暗い暗い、宇宙の洪水の話。ああ、ほら見てください。地球が昇る時間です」
 私は灰色の丘の一端を指差した。青年の視線がそれを追う。
 真っ赤に燃える地球が、真っ暗な空を仄かに染めながら、ゆっくりと上昇する。

 たぶん、遠い未来の風景。
 
 
 真っ黒な空から吹き下ろす風に火照った身体を冷やしていると、遠く、石英の道の彼方に動くモノを見た。ゆらり、ゆらりと左右に振れるその振動数はデタラメで、いいかげんで、恣意的で、物理法則に抗う何らかの力が働いているとわかる。やがてその動くモノが判別可能な領域に侵入したとき、私は眠りの準備に入った。なぜなら、それが人間だったからである。人間であるなら、私のいる場所に辿り着く前に崩壊するであろう。警戒する必要もないし、とうぜん、弔う必要もない。
 気の早い鐘楼の主たちは盛んに鐘を打ち鳴らしている。きっと、旧い時代のしきたりを思い出しているのだ。弔いの鐘に驚いたユニット生命体はしきりにパーツを組み替え異変に対応しようとしている。しかし、それが空虚な鐘の音にすぎないと気付いたのか、中途半端な形のままスリープした。
 一億単位の時間が過ぎたとき、私は驚いた。あの人間が崩壊を免れ、会話可能な距離にまで接近していたからである。もっとも、会話可能というのは理論上の話であって、意思の疎通ができるかどうかはわからない。
「おまえはだれだ」
 八万六千番目の言語パターンと大気の振動との組み合わせで初めて人間の身体がピクリと反応した。私は確信して再度問いかける。
「おまえはだれだ」
 私の言葉に、人間は立ち止まりゆっくりと左右に首を振りだした。その姿は不格好な三角錐であり、黒い布をマントのように纏っている。しかし、人間は私を知覚できないようで、ただ周囲を満遍なく見回していた。
 突然、マントの胸元がめくれ、白い物体が突出した。人間とは別の生命体である。
「だれが私たちを呼んでいるのかしら」
 生命体は人間の眼球ほどしかない頭部をくいくいと動かしながら高速で周囲を窺っている。旧いデータベースから、私はそれが鳥類であると推測した。
「鳥類と人間よ、おまえたちは何者であり、どこへ向かうのか」
「あら、また声が聞こえるわ」
「答えよ」
「ホホホ、私はおしどり。こちらの彼は罪人よ」
「すべての罪人は処刑されたはずだ」
 八十世代前までのリストを遡るが存命の罪人はいない。
「ホホホ、では罪人ではないのもしれないわね」
 この場を憚らないおしどりの声が、私以外のデバイスをも刺激し始めている。
「控えよ、おしどり。ここは王宮へ続く道である」
「まあ、王宮だなんて素敵。誰の王宮かしら」
「殻の王である。神とも呼ばれる」
 刹那、棒のように突っ立っているだけだった人間が身を屈め、マントをなびかせながら腰の部分に右手を添えていた。
「神、神だと、俺は神の首を獲る――」
 隣接する次元に待機していた衛士が一斉に人間を取り囲むが、ほどなく防衛プログラムは終了する。対象は敵に非ず、そう判別された。人間が手にする棒状の物体が、単純な分子を寄せ集め固めただけのモノであったからだ。神にはもちろん、私にも、この外殻平原のあらゆる存在に触れることすらできないであろう。
 おしどりがぴょんと跳ね上がり、人間のこめかみをくちばしでつつく。
「こら、またユメとウツツの狭間にいるのね。ホホホ、ごめんなさいね、彼、心を閉ざしているの。ときどきおかしな言動になるのよね」
 こめかみを二十三回つつかれた人間は我に返ったのか、また突っ立つだけの棒に戻り、そそくさとマントを身に巻いた。
「俺たちは上の世界を目指している」
「ホホホ、これは本当よ」
「月だ。月はどこにある――」
 人間が空を見上げた。実に奇妙な動作であった。月を探しているのに空を見る、理解不能な行為である。
「ねえ、あなた、どうせもう二度と会わないのだから教えてよ」
「おまえたちに質問する権利はない」
「あらやだケチね。私ね、やっぱり気になるのよね」
 人間がのそのそと身体を動かし始めた。来た道を戻ろうとしているのだろう。胸元のおしどりは人間の肩に跳び乗り、ジャイロのように、正確に私の知覚センセー部に視線を合わせてきた。
「あなたはなぜカボチャの姿をしているの。そうよ、やっぱりカボチャよ、カボチャにしか見えない。目鼻と口をくりぬかれた、滑稽な、でもさみしいかんじもする、カボチャよね。ねえねえ、なんで、ねえ、なんでなの――」
 おしどりの意味不明な言葉は、その後二十単位の時間続いた。
 やがて、接触までとほぼ同じ時間を使い、人間とおしどりの姿は石英の道の向こう側、領域外へと消えた。
 無駄なエネルギーを使ってしまった。
 私は冷却用パネルを再度展開し、言語解析とこの場の可視化のために高温化した身体を、真っ黒な空から吹き下ろす風に、晒した。
 断言する。
 最低最悪極悪非道のクリスマスだ。
 クリスマスなんかこの世から消えてしまえっ、なにがサンタだ、なにがプレゼントだ、コンチクショー、あうあうああああっ。おっと、取り乱したようだ、すまない、察してくれ。うん、わかっている。察してもらうにも、事情がわからなければ、キミは「はあ?」と首を傾げるしかないだろう。これからぼくの境遇を説明する。
 まあ、聞いてくれ、とはいってもこれをキミ――だれだか知らないけどね――が読むときには、すべてが終わっているだろう。そのときには、ぼくはたぶんくたばっている。別に遺書というわけじゃあない。二年も他人としゃべっていないと寂しくなる、胸の辺りが苦しくなる、窒息しそうになる。だから、こうやって独り言のように書き始めたんだよ。
 まあ、聞いてくれ、あ、二回目か。とりあえず、この話のオチを先に書く、ぼくはそういう性格なんだ、悪いね。オチだけど結末じゃあない。じっさい、まだ終わっていないから。
 で、オチ、それはこうだ。
『時給は地球時間で計算されます』
 言葉通り。
 ぼくはいまアルバイトの真っ最中。そう、それが宇宙人絡みだったんだ。んー、宇宙人て表現は誤解を招くか。早い話が、サンタクロースは神様の仲間みたいなもんで、そいつらははるか昔、地球に飛来した異星人、いや異星人でもないか、この宇宙に内包される余った次元に本体がある生命体、あー、生命なのかなーあいつら、うがー、すまん、書いているぼくにもよくわからん。人間の理解の範疇にない存在なんだ、とにかく。
 どこから書こう。まずは状況か。ここは今、二〇一一年十二月二十四日、あ、違う、日付が変わったから二十五日だ。時間は深夜零時二分。クリスマスだね。場所は日本だ。甲州街道を長野方面に向かって、てくてくてくてく、てくてくてくてくてくてく、ああああ、ひたすら歩き続けている。やっと東京から出たところなんだよ、うれしいねえ。うれしいからぼくは道ばたに腰掛けて、自分の鞄から履歴書の一枚と愛用の百均ボールペン(五本入り)を出して裏側の白紙にこれを書き綴っている。これっぽっちも瞬かない星空をときどき見上げながらね。サンタ服を着た不審人物が寒空の下でなにやってんだ、と思うだろう。ぼくもそう思うよ。まあ、ぼくの姿を知覚することができたらだけど。
 アルバイトの真っ最中といっただろう、だからサンタ服を着ているんだ。アルバイトの内容は単純明快、子どもたちにクリスマスプレゼントを配る、それだけだ。なんにも危険なことはありゃしない。雇用契約書にも『あなたの生命は絶対守られます』と記載されていた。そんな文面ではかえって怪しい、チョー怪しいよね。でも、言葉通りだった。ぼくはこうして生きているんだし。
 ちょっと気分が落ち着いてきた。話の順番がでたらめだったね。ごめんよ。まだ読んでいるかい。事の発端から話そう。
 あれは二年前になるのか、二〇一一年十二月二十四日のことだ。うん、そうだよ、つい数時間前だ。おかしいね。おかしいだろ。でも、ぼくにとってはもう二年が経つんだ。あの日――しつこいけど数時間前ね――ぼくはいつも通りハローワークに行ったんだ。土曜日だけど開庁していてね、無職のぼくは年末だっていうのに職探しさ。どうもこの社会のシステムは人間をただ生かしておかないように特化していて、あの手この手でぼくを殺そうとする。郵便受けに溢れるんだよね、督促状。税金だの保険料だの電気料だの、回数を重ねるごと、御丁寧に封筒の色を変えてね。そう、お金だよ、お金。とにもかくにもお金を取られる。命を削り取られているのと同じだ、大げさじゃなくてさ。お金がなきゃ生きていけないようにできているんだから。で、無職のぼくにはお金がない。わかりきったことだったね。
 ハローワークの求人端末を、画面を突き破るぐらいの勢いで、このやろこのやろと突っついてみても、なんにも仕事が出てこない。あるのは経験者優遇だの資格が必要だの「女性が多い職場です」(知っているかい、これは男性お断りという意味だ)だの、応募できないものばかり。いいかげん頭に来て、タッチペンをへし折りそうになったけどそこはぐっと我慢、努めて冷静を装って窓口に直接訊ねることにした。登録前の急募とかあるかもしれないからね。
「この年末にまともな仕事があるわけないだろ自業自得だから諦めて死ね無職」
 窓口のお姉さん、いや、おばさん、いや、クソばばあは、要約するとそんな意味になるありがたいお説教を聞かせてくれたよ。ああ、こんなことならナイフの一つでも携帯しておくべきだった、と心の中でクソばばあ惨殺のできもしないシミュレーションを繰り返しながら、それでも一応常識ある社会人なので、薄ら笑いを浮かべながら「はあ、そうですよねえ」をバカみたいにつぶやき続けたよ。かっこ悪いね、ぼくって。で、思わず口にしてしまった。口癖になっていたんだろうね。
「ほんと、なんでもいいんですけどねえ」
 ボソリとこぼしたつもりが、窓口のクソばばあがピクリと反応した。
「本当になんでもいいというなら」
 クソばばあはおもむろに立ち上がり、こちらに背を向けた、お、なかなかいい尻。
「短期というか一日限定の求人がありましてね」
 いい尻のお姉さん(旧クソばばあ)はファイルロッカーをごそごそと漁りながら言葉を続ける。
「応募締め切りが今日の夕方五時だったんでもう下げ……あったあった」
 機械的に壁時計を見る。四時を回っている。
「しかも就労日が二十四日、今日の深夜なんですよね」
 スッと目の前に置かれた求人票にはかすれた赤インクで〈急募〉のスタンプが押されている。募集要項にさっと目を通す。
「ああ、クリスマスの、なるほど、プレゼント配達ですか、はいはい」
「そうですそうです」
 いい尻のお姉さんがぐっと身を乗り出す。お、でけえ、いい胸。
「えっ、なんですかこの時給、ありえねぇ、誤植じゃ……」
「すごいですよね、間違いじゃありません。確認しましたから」
「しかし、時給一万円って」
「深夜だけの超短期、すぐ終わる仕事ですので実質日給みたいなものですね」
「なるほど、もしかしたら一時間もかからないかもしれない、と」
「ふふ、きっちり一時間になるように働けばいいじゃないですか」
 いい胸のお姉さんは、わたしじつはちょい悪事務員なんですよ、とばかりに口許を歪めて笑みを作っている。そういう演出いいですから。
「これ、応募間に合いますか」
「紹介状はすぐに発行できますから時間的には大丈夫ですけど、面接の際には他にも写真付履歴書の用意や」
「大丈夫です、常に持ち歩いていますから」
 ぼくは鞄をポンと叩いて見せた。いつどんな求人があってもいいように、すぐにでも面接に行けるように、印鑑や記入済みの履歴書を何通も持ち歩くのは求職者の常識だよね。
「でも、不思議だなあ。こんなおいしいアルバイトにだれも応募していないなんて」
「せっかくのクリスマスですからねー。みんな彼女と過ごしたいんじゃないでしょうかね」
 なるほど、これが墓穴を掘る、か。はぁ。
 地味に落ち込んでいる場合ではない。ハローワークを後にしたぼくは、その足で面接会場へ向かった。駅の北口、歩道橋手前、レンタルオフィスビル三階、サンタクロース企画。すぐにわかった。
「やあやあ、お待ちしておりました。職業安定所から連絡があった方ですね」
 がらんとした事務所には長テーブルとパイプ椅子。それとサンタクロース。
「初めまして、サンタクロースです」
 サンタクロースがサンタクロースと名乗っている。サンタクロースと名乗ったサンタクロースはサンタクロースの姿をしている。立派なおひげですね。ああ、なんだ、サンタクロースか。
「本格的ですね。あ、こちら履歴書とハローワークの紹介状です」
「ほっほっほ。そりゃあ本物だからの。はい履歴書と紹介状お預かりします、と」 
 サンタクロースは受け取った履歴書をろくに見もせず懐にしまった。
「子どもたちにプレゼントを配る、簡単な仕事だよ」
「はい、配送関連の仕事に従事した経験もありますので問題ありません」
 夏場に働いた宅配便集配所を頭に思い浮かべる。配達したわけじゃないけど、嘘ではない。
「このサンタ服を着てもらうが、いいかな」
「はい、もちろんです。喜んで着させていただきます」
「ほう、いい返事だ。やる気満々というあれだね」
「はい、短期ではありますが、ぜひ御社のお力になりたく存じ上げます」
 このへんはもうテンプレートなのでスラスラといえる。
「では、さっそく契約書にサインをもらってもいいかね」
「契約……あ、雇用契約書ですね、印鑑もありますから大丈夫です」
「面倒だけどのお、そういう決まりだから」
 渡された契約書は無駄に厚い。たかが一日限りのアルバイトにこんなモノ用意するんだな、とこのときは軽く受け流してしまったよ。
「読まなくていいのかな」
「はは、いや、さすがにこれだけの量はちょっと」
「うむ、そうだよな。じゃあこことこことここだけ、大事だから読んで」
 サンタクロースは鉛筆で三カ所丸印をつけた。
『時給は地球時間で計算されます』
『いかなる理由があっても途中でやめることはできません』
『あなたの生命は絶対守られます』
 奇妙な言い回しに、今さらいってもしかたないけど、ぼくだって違和感があったんだ。でも、根本が浅薄で迂闊でいいかげんで適当で、まあ、とにかくそんなぼくだから、ほいほいと印鑑を押してしまった。これで契約は――
「成立したな」
 サンタクロースのおっとりとした口調がにわかに鋭くなったかと思うと、次の瞬間には、ぼくは真っ赤なサンタ服に身を包まれていた。どういう原理だ、これ。
「おまえはすべてのプレゼント配達が終わるまでサンタクロースだ」
「えっ、えっ」
「作業開始は午前零時丁度。配達エリアは――」
 サンタクロースがビシっと壁を指差す。壁面がふっと明るくなり、見慣れた地図が浮かび上がる。
「日本全土」
 息を飲み込む。言葉が出ない。思考が現実に追いつかない。
「我々の力をもってしても完全な時間凍結は不可能。時は少しずつ動き続ける。くれぐれも夜が明けてしまうことのないように。万が一、朝日が昇ろうものなら、制裁として、その拘束具がおまえを素粒子レベルにまで圧縮、分解する。おまえだって、神の粒子の海を永遠に泳ぎ続けたくはないだろう」
「拘束具って、え、これただのサンタ服じゃないのっ、雰囲気作りじゃなかったのっ」
「容姿など無関係。時間凍結されている間、なんぴとたりともおまえの姿を見ることはできん」
「や、やめる。やっぱりやめる。助けてくれっ」
「契約は成立している。それに安心しろ。その拘束具はいかなる状況においてもおまえの肉体を維持する。腹も減らぬ、年も取らぬ」
 とんでもないことにまきこまれた。悪いのはぼくか。ぼくが間抜けだからか。
「あの、せめて、その、トナカイとかは」
 トナカイのソリぐらいは乗れるんだろう。
「ああ、トナカイか。トナカイはな――」
 サンタクロースはため息をつきながら目を細める。
「今回、トナカイ役の応募がなかったのだ。すまんの」
 それからぼくはパイプ椅子にぐったりと腰掛け、午前零時になるまでの間、サンタクロースからこの宇宙の神秘を聞かされていたんだ。脳が焼き切れそうになったけど。すごいね、サンタクロースは本当にいたんだよ。頭に〈邪〉の字をつけたくなる神様だったけどなっ。
 そういうわけだ。
 ちなみに東京の子どもたち全員にプレゼントを配るのに、ぼくの主観時間で二年かかったよ。これって早いのかな遅いのかな、しらねえっよっ。時計を見たら午前零時二分。つまり、ぼくの一年は一分なんだ。計算しやすいね。東京で二年かあ。四十七都道府県だっけ、何年かかるのかなあ。というか、海はどうやって渡るんだろう。ははは、ヘンな笑いがこみあげてきたよ。
 そうそう、自殺を考えたこともあるよ。実行もした。首吊った、飛び降りた、手首切った、舌噛んだ。でも、わかるよね、『あなたの生命は絶対守られます』、そう、言葉通りなのさ。
 あ、そろそろこの履歴書の裏も書ききれなくなってきた。まあいいや、話のオチは先に書いてあるからね。時給一万円。一時間、ぼくにとっては六十年働いても――。
 自己紹介は、これ履歴書だからひっくり返して見てちょうだい。個人情報だだ漏れだから。それで、もし気が向いたら、電話なり、訪ねてくるなりして欲しいな。
 お願いだよ。
 姉妹のお笑いコンビを撮影することになった。新人も新人、二人とも小学生だという。知名度はゼロでも、女子小学生なら話題性はある。むしろ手つかずの新人のうちに独占しておきたい。かくいうぼく自身も新人の下っ端カメラマンなので、一人で撮影に向かわされている。
 真っ暗な道を長いこと歩いている。撮影は姉妹の自宅で行うのだが、ここがいったいどこなのか見当もつかない。街灯はなく、月明かりもない。ときおりサワサワと葉のこすれる音が、右から左から、さらには頭上からも聞こえてくる。深い森のなかをさまよっているような気分だ。
 いよいよ心細くなってきたとき、目の前に白い家が唐突に現れた。二階建ての民家で、照明もないのにぼんやりと闇に浮かび上がっている。一階の三分の一がカーポートになっていて、突き出た二階部分を武骨な鉄筋の脚が支えている。黒い自動車が一台停まっているが、夜の色と同じなのではっきりとは見えない。
 ぼくは玄関の呼び鈴を押した。
 通された姉妹の部屋は、別段これといった特徴もなく、学習机とベッドが備えられた八畳ほどの広さで、淡いピンクの壁紙が少女らしい雰囲気を漂わせていた。
「おじさん、テレビ局の人なんでしょ」
 少女二人が並んでベッドに腰掛け、好奇心に満ちた目をこちらに向けている。芸人として人前に出ようとするだけあって、ルックスは平均より上だ。おそらく幼少期から親が磨き上げているのだろう。
「そうだよ。キミたちを撮りに来たんだ」
 二人は照れくさそうに身体をくねらせる。身長差がはっきりしているので、姉と妹の区別は一目瞭然だ。年の差は、小学校高学年と低学年といったところか。姉はしっかりと受け答えするが、妹はまだよくわかっていないようで、姉の顔色をうかがいながら、ワンテンポ遅れて頷いたり笑ったりしている。これでキレのある漫才やコントができるとは思えない。なんだか不安になってきた。
「ああ、そうだ。コンビ名を聞いてなかったね」
「タクアンでーす」
「え」
「タクアンだよねー」
 姉妹は顔を向き合わせて同時に頷いた。小学生がつけるコンビ名にしては渋すぎる気がしないでもないが、二人とも何の疑問もないのか、自信満々の笑顔だ。ぼくが鈍感なだけで、タクアンという言葉には女子小学生のハートを巧みにくすぐるハイセンスな響きが含まれているのかもしれない――のだろうか。
 それはともかく、気になって仕方ないことがある。ぼくはカーペットの敷かれた床に座っている。姉妹はベッドに腰掛けている。そのベッドの高さが絶妙で、ぼくの顔の先にちょうど姉妹の下半身があるのだ。つまり、視線をちょっと動かせば、姉妹のスカートのなかを造作もなく覗けるというわけだ。しかも、姉妹は小学生だけあって無防備この上なく、すぐに脚が緩んでパッカリ開いてしまう。妹に至っては、よほどご機嫌なのか、リズミカルにパッカパッカと閉じたり開いたりしている。舞台衣装なのか普段着なのか判別できないぐらい最近の女子小学生のファッションは垢抜けていて、スカートも限界まで短い。それでいてストッキングは履かずに生足で――
「あのー、どうしたんですか」
 姉の声にビクリとなる。視線を慌てて下半身から外し、わざとベットの下辺りからぐるりと天井にまで走らせ、ごまかす。背筋が少しひやりとした。
「ああ、いやあ、可愛い部屋だね」
 間抜けなセリフを吐いてから、急に考えが変わった。別にこちらが負い目を感じる必要はない。ここは堂々とすべきだ。小学生といえども、彼女らは芸人だ。いわば、商品だ。商品を吟味して何も悪いことはない。
「キミたちもすごく可愛いよ。スタイルも……うん、いいね」
 頭の天辺から爪先まで、ゆっくりと、じっくりと、なるべくいやらしく、注視していった。忘れかけていたが、ぼくはカメラマンだ。被写体に臆することなどない。下半身だろうが、下着だろうが、被写体の一部にすぎないではないか。なんなら言葉巧みに一枚ずつ脱がして、最後に真っ裸にさせてやってもいい。ああ、ダメだ。そんなものを撮ったら、このご時世だ、捕まってしまう。
 なぜか心が安定しない。目的があやふやになりつつある。ぼくはやるべき仕事を思い出す。
「じゃあ、そろそろネタを見せてくれるかな」
「ハーイ!」
 待ってましたとばかりに、姉妹は勢いよく挙手した。学校の授業でもこんなに元気なのだろうか。ぼくは先生じゃないよ、と口にしそうになったが堪えた。相手のペースに乗せられてはいけない。少し威圧するぐらいでちょうどいい。ぼくは鋭い眼光を演出するために、目に力をこめた。気分だけはプロフェッショナルだ。
 姉妹はベッドの上に立ち上がった。ステージのつもりだろう。足下がふわふわして危なっかしいが指摘しない。なぜなら、ベッドに立ったほうがよく見えるからである。何がよく見えるのか、それはいうまでもないだろう。ぼくの視界には姉妹の下半身が捉えられているのだ。
「じゃあ、いきますね」
 姉がこちらに向かって問いかけた。ぼくは重々しく首肯してみせた。
 が、突然、重大なことに気付いた。頷いた頭が下を向いたままの姿勢でぼくは動きを止めた。カーペットのジグザグの幾何学模様を目で追いながら髪の毛が逆立っていくような感覚を必死に抑えこむ。
 やばい、カメラ持っていないじゃん……。
 ぼくは何も握られていない両手をまじまじと見つめた。カメラマンがカメラを持っていない、そんな阿呆な話があるものか――と、自分で自分に憤っても仕方ない、ないものはないのだ。ここに来るまで、最初から手ぶらだった。まったく不自然に思わなかった。いや、そもそも、ぼくはいつカメラマンになったのだろうか。中年なのに新人だというのもおかしい。所属する会社は、部署は、いったいどこだ。何もかもが、夢のなかのようにあやふやだ。
「うーん……ま、いっか!」
 ぼくは開き直った。はっきりいって、人生どうでもいい。今さらなのだ、今さら。ぼくはテキトーに生きてきたんじゃないか。ぼくがカメラマンかどうかなんて些細な問題だ。とにかく、目の前の姉妹が消えてしまわないように、この世界に集中するのだ。
 ベッドのステージ上では姉妹が人形のように静止していた。
「続けてくれ」
 ぼくの一声で姉妹は血色を取り戻す。
「どーもー」
「どーもー」
「せーの、わたしたち、イチゴミルクでーす」
 コンビ名に違和感を覚えたが、別におかしくはないだろう。さて、いったいどんな芸を見せてくれるのか。
「一発ギャグやりまーす」
 姉が選手宣誓するがごとく右手を挙げる。妹は姉の足下に仰向けに寝転んでしまった。何が始まるのか。ぼくは身を乗り出した。
「ほら、せーの」
「よいっしょ」
 妹は仰向けの姿勢から腰に手を当て、両足を思い切り天井に向けて上げた。スカートはくたびれた花びらのようにだらりと垂れ下がり、下着が露わになる。ぱんつ、という平仮名表記が最もしっくりくるような、白い綿の女児用下着だ。
「それっ」
 姉が妹の脚を頭の方へ押し倒す。爪先が頭の上の布団につくと同時に、まっすぐに伸びていた膝から力が抜ける。これで、お尻を頂点にした歪な三角形が出来上がった。
「いくよー」
 姉はスコンとその場にしゃがむと、間髪入れずに妹の下着に手をかけ、
「えいっ!」
 と、ちゅうちょなく膝の裏まで下ろしてしまった。
 突如現れた肌色の丘に、ぼくは目を見開いた。
 姉は自分の顔の横に、オペ前の医師のように両手をきっちり揃えた。そして、大きく息を吸い込んでから、手刀を妹のお尻めがけて振り下ろした。
「ディグダグディグダグ!」
 うお、とぼくの喉から声が漏れる。いったい何事なんだ。姉は訳の分からない掛け声を連呼しながら、妹のお尻を左右の手で高速につついている。
「ディグダグディグダグディグダグ!」
 床に座っているのが災いした。肝心の部分が見えない。今すぐそばによって見下ろせば、お尻の肉だけではなく、その間に隠された極秘の部分まで拝めるに違いない。
 ああ、あの姉の指先はどこをつついているのだろうか。間違えて、排泄器官の最終弁をこじ開けてしまったり、さらにその直近の神秘の扉をノックしてはいないだろうか。
「ディグダグディグダグ、ディグダーグ!」
 パーン、と姉はとどめとばかりに妹のお尻を平手打ちしてから、立ち上がり、両手を高く広げてYの字のポーズをとった。床競技を終えた新体操選手のようである。
「なんだそれはっ」
 ぼくは膝を叩きながら姉に全力でつっこみを入れる。
「ピースッ」
 姉は得意顔でVサインを出す。
「わけわかんないよっ」
「一発ギャグですよ」
 いくら芸人とはいえ、女子小学生のネタとしてはカラダを張りすぎている。いや、問題はそこじゃない。
「これはまずいよ」
「えー。どこがです」
「ほらあ、これ、丸見えだよ。テレビに映せないよ」
 ぼくは堂々と姉妹に近づき、いまだお尻丸出しの妹を指差してみせる。極めてシンプルではあるが、しっかりと女性である。ぼくは、別に興奮したりはしない。興奮なんか、しない。興奮なんか、していない。しかし、目が離せない。
「かわいいでしょ」
 姉の口にする可愛いという言葉が、妹という存在そのものを指しているのか、あるいは、ぼくが今凝視している妹の一部分を指しているのか、わからない。わからないが、もうどうでもいい。
「ねえ、キミは恥ずかしくないのかい」
 自分のふくらはぎを顔の横で抱えている妹に尋ねてみる。
「えへへ」
 満面の笑み。まったく、愉しそうである。
「どうですか。面白かったですか」
「うーん。面白い。面白いけど、いいのかなあ、これ。いや、まずいよなあ。うーん」
 妹のお尻はすべすべで白い。触ればきっと餅のようだろう。もっと柔らかく、マシュマロかもしれない。プリンのようにぷるぷるかもしれない。ああ――頬ずりしたい。
「あのさあ、もっとネタないの。こういうのでさあ」
「ありますよっ」
 姉の返事にぼくは顔面がぱあっと開いていくような幸福感に満たされた。
「見たい。見せてくれ」
「はーい!」
「あ、ちょっと待ってくれ、今度はぼくの指示どおりにやってくれないか」
「いいですよ」
 胸が熱い。ぼくは悦びに打ちのめされている。頭がクラクラする。
「それじゃあ、次はお姉ちゃんの番だ。スカートをめくり上げて、そう、そう、そんなかんじ。いいよお、すごくいい。じゃあ、キミ、ほらお姉ちゃんのぱんつを……」
 目眩がひどい。世界が歪む。
 それでも、ぼくは意識を集中させる。意地でも最後まで見てやるのだ。
 妹がぼくの命令に従って姉の下着に指をかける。
 そうだ、そのまま下ろせ、下ろせ、さあ、早く――。

 目が覚めた。
 ぼくは布団のなかでのたうちまわった。
 地元でもっとも大きなセレモニーホールの宴会場にいる。親類縁者が集まっているというのはわかるのだが、その数は百人や二百人ではすまない。
 室内であるにもかかわらず、壁に沿ってかがり火が焚かれている。それでいて頭上には豪華絢爛たるシャンデリアが淡い光を放っているのだから奇妙だ。
 宴会場の壁はぶち抜かれ、テーブルが奥へ奥へとつなげられている。いったい何部屋を一つにしたのかわからないが、果ては霞んで見えない。
 テーブルは黒檀なのか、どす黒い輝きに異様な威圧感と重苦しさを感じた。宴会が始まる気配はまるでなく、食器類がまったく並べられていない。そのかわり、真っ赤な絨毯がテーブルの上に敷かれていた。
 今、その絨毯の上を誰かが歩いてくる。遙か向こうのテーブルの端から、こちらに向かってゆっくりと歩いてくるのだ。ゆらりゆらりと揺れる白い姿に、闇より這い出る幽鬼の類を予感したぼくは身体を硬直させた。
 ところが、現われたのは半裸の女性だった。ぼくは目を瞠った。錯覚ではない。ガウンを羽織ってはいるが胸の部分は大きく開かれ下着を着けていないのが一目瞭然である。下半身も同様で、短い裾から伸びる足の付け根には黒々とした部分がちらちらと見えた。焼き海苔を細長く切って貼り付けたかのように丁寧に手入れされている。
「こんにちは」「ええ、ありがとうございます」「いえいえ、そんな」「お久しぶりです」
 半裸の女性はテーブルの両側に座る人々にいちいち挨拶をしているらしい。その声には聞き覚えがあった。
 ぼくは横に座る母に囁いた。
「あれは、サユリだっけ」
「そうよ。サユリちゃんよ。大きくなったねえ」
 サユリは従姉妹である。年齢はぼくの十二か十三下だ。最後に会ったのは、サユリがまだ中学生のころで、祖父の葬式だったと記憶している。
「大人になったなあ」
「すっかり奇麗になっちゃったねえ」
 ぼくと母は感嘆の声を漏らした。
 ガウンから覗くサユリの身体はすっかり大人だった。しかし、顔は中学生の幼さを残している。そのギャップに、ぼくの下半身はテーブルの下で熱く興奮していた。
 サユリがぼくのテーブルへやってきた。テーブルの上に立っているから、足下から見上げる格好となる。足首、膝、股と視線を這わせ女性の部分でいったん停まる。不意に、何かを思い出しそうになったが、もやもやしたままはっきりしない。
 サユリと目が合った。じっとこちらを見下ろしている。その顔はどことなく挑発的で、ぼくは嫌な予感がした。
「あんた、私の処女奪ったよね」
 ぐらりと視界が揺れた。息が止まった。
 何を言っているんだ、と咄嗟に言い返そうとしたのに言葉がのどに詰まって出てこない。
「私は覚えているからね。子どもだから忘れるとでも思った?」
「し、知らないぞ」
「『みんなにはないしょだよ』だっけ。ふふふ」
 心臓が別の生き物となって体内を跳ね回っている。呼吸がうまくできない。
「ねえ、返してよ。私の処女」
 記憶の奥深いところから、自分でも忘れていた過ちの数々がはっきりと蘇った。そうだ、ぼくはまだ子どもだったサユリを抱いた。この裸体をかつてぼくは蹂躙したではないか。どうして今まで忘れていたのだろう――。
「どうしてくれるのよ。私はあんたのせいで処女じゃなくなったんだけど」
 凄まじい罪悪感に押し潰されそうになる。
 しかし――しかしだ。
 同時に怒りがこみ上げてきた。たしかに、ぼくは悪人だ。だが、だからといって、何もこんな人が大勢いる場所で追及しなくてもいいじゃないか。お互いの両親、兄弟、親戚一同、亡くなった祖父も祖母も来ているのに。
「ねえ、早く返してよ、私の――」
「うるせえよ」
 ぼくは憤然として席を立ち上がり、テーブルによじ登った。そして、サユリの真正面に立ち、まず顔を一発叩いた。サユリはひるまずにこちらを睨み付けている。
「返せるわけないだろ、ボケ。それより、どうしてくれるんだよ。てめえのせいでオレの人生おわりだ。わかってんのか。あん?」
 何百人という親類縁者が見ているはずなのに、宴会場は静まりかえっている。ぼくは自分が最低最悪の人間であるとついに自覚したが、もう引くに引けない。
「何とか言ってみろよ、おい」
 サユリのガウンを引き千切り投げ捨てる。露わになった乳房の片方を鷲掴みにする。ぐにゅりと、泥ダンゴを握りつぶしたような、嫌な感触だ。得体の知れない強烈な嫌悪感が全身を走り抜けた。
 サユリは微動だにしない。
 壁際のかがり火がバチバチと激しく燃え上がった。
 ズシャリ、と金属の擦れ合う重苦しい音が鳴り響いた。テーブルを囲んでいた親類縁者は今や赤黒い鎧を纏った武者となり、一斉に立ち上がっている。
 ぼくはもう逃げられそうもない。ぼくの腕はサユリの胸と完全に一体化していた。