有川浩『植物図鑑』 | 文学どうでしょう

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植物図鑑 (幻冬舎文庫)/幻冬舎

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有川浩『植物図鑑』(幻冬舎文庫)を読みました。

年齢を重ねるにつれて、花鳥風月を愛するようになると言いますが、ぼくなんかはやっぱりまだ全然そういう境地にはいけなくて、たとえば花見に行っても、食べ物やお酒にばかり気をとられてしまいます。

むしろ、目線が低かったせいか、あるいはいつも同じ道を歩いていたせいか、小学生の方が草花への距離が近かった感じすらあって、通学路に咲いていたツツジやアジサイを、今でも鮮やかに覚えています。

そう言えば、ぼくが子供の頃に住んでいた所には、「かしの木山自然公園」がありました。ちょうどスーパーファミコンが出たぐらいの頃でしたが、今の子供に比べるとよく外で遊んでいた方だと思います。

そのかしの木山で、植物にまつわるトラウマ的な出来事があったんですよ。詳しい事情はもうよく覚えていないですが、植物を使って動物を作ろうみたいな講座があって、小学生ぐらいの時に参加しました。

ススキを持っていって、フクロウだかミミズクだかを作る講座でしたが、まずぼくが持っていったのがススキではなくよく似たオギで、それは違うと言われてしまい、その時点でもうしょんぼりなわけです。

しかも先生が、いかにも芸術家を思わせる、恐い顔をしたおじいさんで、子供たちのフォローなんか全然せずにどんどん先の工程に進んでいってしまうんですよ。全然分からないし恐いしで泣きそうでした。

完成させられたかどうか覚えてないですし、あの周りに置いていかれて作業が出来ない感覚は今もトラウマ。まあ子供の時の印象なので、本当はやさしい、いいおじいさんだったのかも知れませんけれども。

まああれです、ススキとオギが見分けられるほど植物に詳しかったらトラウマになることもなかっただろうになあという思い出話でした。

さて、今回紹介する『植物図鑑』は、タイトルの通り世にも珍しい雑草収穫物語で、植物に詳しい謎の同居人(男)にふりまわされる形で、毎回色んな雑草を収穫しに行き、料理する主人公(女)の物語。

雑草と侮るなかれ、「雑草という名の草はない。すべての草には名前があります――って昭和天皇は仰ったそうだよ」(34ページ)
とのことで、草花にはそれぞれちゃんと名前があり味も違うのです。

考えてみれば、春の七草だって知らなければ雑草と思って通りすぎてしまうことでしょう。色んな植物が出て来るので、読み終った後は通学や通勤の途中でふと足を止め草花を観察したくなる、そんな物語。

元々は携帯小説サイトに連載されていたということもあって、ストーリーはザ・少女マンガという感じ。主人公は恋人と別れてしばらく経ち忙しさから家事がおろそかになっている25歳の女性会社員です。

河野さやかはある晩、マンションのポーチで大きな黒いゴミ袋のような感じで、リュックを背に転がっていた同じ年くらいの男を拾います。そこからその男イツキとの奇妙な共同生活が始まったのでした。

まあどう考えても現実にはありえない展開ですし、というか、家事が完璧にこなせてやさしくてしかもいい男であるイツキみたいな男は現実にはいないでしょう。少なくともぼくの周りには全然いないです。

それでも、一旦設定を飲み込んでしまえば、これはこれでなかなかに面白い作品で、名字や経歴が分からないイツキの謎や、少しずつ変化していくさやかとイツキの関係に思わず引き込まれてしまいました。

作品のあらすじ


2DKの集合住宅で暮らす河野さやかは行き倒れている男と出会います。行くあてのない一文無しでとにかくおなかが空いているそうで。

 と、男がぽんとさやかの膝に丸めた手を載せた。
「お嬢さん、よかったら俺を拾ってくれませんか」
 そう言った。
 まるで犬のお手みたい。膝に載った手を見ながらそんなことを考えていたので、ツボに入った。
「ひ……拾って、って。捨て犬みたいにそんな、あんた」
 クククと笑い転げていると、男は更に言葉を重ねた。
「咬みません。躾のできたよい子です」
「やだ、やめてー!」
 ますます笑いが止まらなくなった。
 今にして思うと、この瞬間をして魔が差したというのだろう。(15ページ)


けっこういい男だったこともあり、さやかはその男を家へあげてしまいました。晩ご飯を食べさせてやりお風呂をすすめるとさやかはそのまま眠ってしまったのです。目が覚めると味噌汁の匂いがしました。

家にあったわずかな材料で、おいしい朝ご飯を作ってくれたのです。すっかり胃袋をつかまれてしまったさやかは、一ヶ月食費三万プラス雑費一万で切り盛りしてもらうことを条件に同居を許したのでした。

樹木の樹と書くイツキだと男は名乗りましたが名字は言おうとせず、今までどんな人生を送って来たかについても何も話そうとしません。

しばらく慣れない共同生活に戸惑っていたさやかでしたが、次第にイツキは家事をやってくれる同居人というだけでなく、仕事の愚痴をこぼして、涙を見せることが出来る、心許せる存在になっていきます。

週末になると、イツキは散歩に行こうと言いました。近所に川があるというのですが、あまり出歩かないさやかは全く知りませんでした。

「駅の反対方向へもうちょっと歩くとさ、いい感じの川が流れてるんだよね。川幅広くてゆったりしてて、木もけっこうキレイで。その河川敷、上流のほうに二、三km。どう?」
 イツキは気軽な調子で言うが、二、三km! 往復で四~六kmではないか。
「疲れる~」
「そっか、残念だな。ちょっといいもの見つけてさ、週末にさやかと一緒に散歩に行こうって楽しみにしてたんだけど」
 そう来られると弱い。惚れた弱み、と認めるのはまだ理性が邪魔をする。
「行ったら何かいいことある?」
「ちょっと楽しくてお得なことがあるかもしれない」
 畜生この釣り師め!
「……分かったよ! でも自転車持っていって。帰り、疲れたら後ろに乗せて」(56ページ)


イツキが見せたかったものは、フキノトウでした。生えているところを直に見たことがなかっただけに、さやかはそのかわいらしい姿と鮮やかな色に心打たれます。イツキは趣味だという写真を撮りました。

じゃあ採ろうかと言われて驚くさやか。辺りをぐるっとさし「フキノトウが今、三、四個のパックで三九八円。フキだと一束二九八円。それがタダで自然に生えています。OK?」(65ページ)とイツキ。

調理が面倒だからとイツキはしぶりましたが、ツクシを見つけたさやかは「食べたい! 食べたい食べたい食べたい食べたい!」(67ページ)とわがままを言いツクシも収穫することになったのでした。

家に帰ると爪の間まで真っ黒にしながらツクシのはかま取り、アク抜きをしたフキのスジ取りをします。大変ながらも楽しい作業。そうして混ぜご飯や天ぷら、佃煮、ばっけ味噌などにして食べたのでした。

フキノトウの天ぷらは、思いのほか鬼のように苦かったですが、お米と調味料以外は一円もかかっていない楽しい散歩に大満足。自然に生えている植物を収穫しに行く週末の散歩は、恒例行事になりました。

ノビルとセイヨウカラシナのパスタを作ってくれたイツキが言った何気ない言葉に、さやかは、そっと胸がしめつけられる思いがします。

「でもこの春はこれでおしまいな」
「え、何で?」
「この辺りは割と多いけど、野放図に採り尽くしちゃうわけにもいかないからさ。ノビルは生長に時間もかかるし、少なくなってきた植物は採り方考えないと乱獲になっちゃうし。田舎のほうに行けばまだまだ珍しくないんだけど、この辺りそこまで田舎じゃないからね」
「そっかー」
 この春はこれでおしまい。
 何気なく聞き流した振りをしたが、――次の春、イツキはここにいるだろうか。
 ここにいて。
 その契約はいつまで有効だろうか。期限は決めなかったことに今さら気づいて動揺する。
 ずっと、だなんて。
 未だに名前しか知らない。それ以上を踏み込めないのに言えるわけがない。
 いつか踏み込めるときは来るのだろうか。それを思うと今この瞬間はとても楽しいのに、少しだけ気持ちが沈んだ。
(109ページ)


一緒に暮らして、思い出が増えていけばいくほど、さやかの中でイツキの存在は大きくなっていきます。イツキの何気ない一言に喜んだり落ち込んだり。しかし、イツキはさやかを何とも思っていない様子。

ある時、クレソンを収穫していた時にさやかは川に落ちてしまいました。イツキは濡れた足をハンカチで拭いてくれますが、ハンカチを見てはっとします。イツキは以前、ハンカチを持っていなかったから。

その男物のハンカチは有名なブランドのものでした。さりげなくイツキに尋ねると、アルバイト先であるコンビニの同僚にもらったのだと言います。それが男なのか女なのか、さやかには聞けませんでした。

気にしないようにと思っても、どうしてもハンカチのことが気になってしまい眠れないさやか。そこで起き出して、徒歩で二十分ほどかかるイツキのバイト先のコンビニに訪ねていってみることにして……。

はたして、いつしか大切な存在となったイツキとの関係の行方は!?

とまあそんなお話です。何故か植物に詳しい謎めいた同居人との奇妙な共同生活が描かれた物語。設定はマンガ的ですが、ベタながらも引き込まれますし、何より植物がたくさん出て来るのが目新しい作品。

足元の草花に注目しながら歩いている人は少ないでしょう。なので、少し意識するだけで世界の見え方が変わってくるはず。歩き慣れた道がちょっと違って見えるようになるかもしれない、そんな小説です。

明日は、ポーラ・ゴズリング『逃げるアヒル』を紹介する予定です。