レッシング『賢人ナータン』 | 文学どうでしょう

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賢人ナータン (岩波文庫 赤 404-2)/岩波書店

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ゴットホルト・エーフライム・レッシング(篠田英雄訳)『賢人ナータン』(岩波文庫)を読みました。

自分が正しい信念に従って行動していると思えば、人は堂々と相手に立ち向かっていくことが出来ます。ケンカなんかもそうですよね。自分が間違っていないと思えば、お互いに譲らないものです。

正しい、間違っているがはっきりと分かって、ケンカの勝敗がつけばよいですが、世の中には何が正しくて何が間違っているかの判断が難しく、勝敗がつかないまま争いが激化してしまうことがあります。

そうした信念の違いによる争いが大きな問題となるのが、やはり何と言っても宗教の対立です。この戯曲が発表された1779年から、現代に至るまで変らない、とても重要な問題だと思います。

それぞれ仕来りなどが全く違う宗教でありながら、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にはある共通点があります。それは、一神教の宗教であること。

ギリシア・ローマ神話などは、たくさんの神々がいますし、日本にも八百万の神とよく言いますが、多くの神様がいますよね。こちらは多神教と言います。古代の宗教に多い形です。

しかし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、神様というのは一人だけで、その神様が世界を作ったとされているのです。

キリスト教が一番馴染みが深いだろうと思うので、キリスト教にあわせて言うと、「旧約聖書」というものがありますよね。ノアの方舟や、モーセの十戒などでお馴染みのあの聖書です。

そこに出て来る神様がユダヤ教では「ヤハウェ」、イスラム教では「アッラー」になります。

その神様の言葉を伝える人のことを預言者と言うのですが、キリスト教ではそれがイエス・キリストであり、「新約聖書」が編まれ、イスラム教ではそれがムハンマドであり、「コーラン」が編まれました。

まあその辺りのことは世界史などで習ったと思いますし、宗教的なことに深入りしたくないのでこのぐらいにしておきますが、そんな風に同じルーツを持ちながら、3つの宗教は時に対立を深めてきました。

今回紹介する『賢人ナータン』は、1192年、キリスト教徒がイスラム教徒から聖地エルサレム奪還しようとした十字軍の遠征によって、激しい宗教対立が起こったエルサレムが舞台となった作品。

イスラム教徒のスルタン(王様)によって刑が免除され、命を救われたキリスト教徒の神殿騎士、その神殿騎士によって養女の命を火事から救ってもらったユダヤ教徒の商人をめぐる物語になっています。

中心人物となるのが、ユダヤ人の商人で、その賢さから”賢人ナータン”と呼ばれて親しまれるナータンです。ナータンはある時、スルタンのサラディンからこんな難題を突きつけられてしまいました。

サラディン またわしはイスラム教徒だ。そしてまたキリスト教徒がわしらの間に介在している。この三種の宗教のうちで、真の宗教というのは一つしかあり得ない。あんたほどの人が、たまたま生れついた土地の宗教に左右なく帰依している筈はなかろう。また仮りにそうだとしても、それは自分の見識がしっかりした理由を踏んまえ、自分が良いと信ずるものを比較選択した上のことだろう。さあ、あんたのそういう見識を教えて貰いたい、またその理由を聞かせてほしい。(107ページ)


サラディンは、ナータンの財産を狙っていて、ナータンを困らせてやろうと、こうした無理難題を要求して来たのです。

自分が信じているユダヤ教が一番だと言えば殺されてしまいかねませんし、キリスト教やイスラム教が一番だと言えば、では何故そちらを信仰しないのかと責め立てられるのは明白です。

窮地に追いやられたナータンは、サラディンに一体何と答えたのでしょうか。あらすじの紹介でまた詳しく書きますね。

ナータンは、キリスト教徒によって妻と7人の子供を殺されてしまった人物なんです。とても深い悲しみを背負った人物です。キリスト教徒への憎しみに我を忘れてもおかしくありません。

ところが、ナータンが常々持っている考えや、サラディンに対して語った答えなどは、そうした憎しみとは全く違っているだけに、とても深く心動かされるものがありました。

単に宗教的なメッセージが込められた作品というだけだったならば、それほど印象に残らないだろうと思いますが、『賢人ナータン』は全体的に喜劇的な構造になっていて、ストーリーも非常に面白いです。

思わぬ展開に感動させられて、その後宗教的な問題について深く考えさせられる、現代でも読まれるべき傑作。おすすめです。

作品のあらすじ


仕事で旅に出ていたユダヤ人の商人ナータンが帰って来ました。

屋敷で火事が起こったというので心配していましたが、親切な男の人が火の中に飛び込み、娘のレーハを救ってくれたというので驚き、いくら感謝してもしきれない思いがします。

その男の人は、スルタンのサラディンに捕まった神殿騎士(聖地エルサレム奪還のために結成されたキリスト教徒の騎士団の一人)で、不思議なことにサラディンから解放されたのでした。

滅多にあることではありませんが、神殿騎士がサラディンの亡き弟と似た所があって、殺すに忍びないということだったのです。

火の中で自分を助けてくれた人を天使のように思っているレーハや、自らの命をかえりみずに、娘の命を救ってくれた感謝の意を表したいナータンは、神殿騎士の居場所を探します。

しかしようやくのことで見つけた神殿騎士は、ナータン一家がユダヤ人だと知るとそっけない態度を取り、レーハの侍女ダーヤが会いに行っても、冷たく突き放すのでした。

神殿騎士 今日からというものは、もうわたしを識らないことにして貰いたい、お願いだ。またあの娘の父親とも係わりのないようにしてほしい。ユダヤ人は所詮ユダヤ人なのだ。わたしは融通のきかないシュヴァーベン人だし。あの娘さんの面影だって、以前はとにかく、今ではもうとっくに心から消えてしまっている。
(47ページ)


関わりを持とうとしない神殿騎士にそれでも会いに行ったナータンは、その焼けただれたマントに口づけをし、感謝の言葉を伝えます。

神殿騎士が宗教が違えば考え方も違う、分かりあえないものがあると言うのに対し、ナータンは「皮膚の色、衣服、姿形はそれぞれ違って」(76ページ)いても人間はみな慈しみあうべきだと語ります。

名前を尋ねられた神殿騎士がクルト・フォン・シュタウフェンと名乗ると、ナータンはびっくりしたような表情をしました。

神殿騎士になぜそうじろじろ見るのかと聞かれた時は誤魔化しましたが、別れた後に、ナータンはかつての知り合いのヴォルフに背格好や歩き方、声までそっくりだと呟きます。

財政難に苦しむサラディンに呼び出されたナータンが出かけている時に、神殿騎士はナータンの家を訪れ、いつしかレーハに心惹かれていくようになりました。

そして一方、サラディンに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教に内でどれが最も優れているかという難題をつきつけられたナータンは悩みます。

しかし、ある一つの昔話を思い出し、答えの代わりにサラディンにその話をすることにしたのでした。

昔々、ある男は代々伝わる大切な指輪を持っていました。神に祝福されるという、オパールで出来たその大切な指輪は、最も愛する息子に贈られ、その息子が跡を継ぐことに決まっています。

ところが、男は3人の息子を、その3人とも深く愛していたのです。そして男はどの息子にも、指輪を送るという約束をしてしまったのでした。

いよいよ臨終が間近に迫った時、男はその指輪とそっくりの指輪を2つ作り、自分でも分からないようにして、息子たちに贈ります。

男の死後、誰が本物の指輪を持っているか、誰が跡を継ぐべきなのか争いが起こりますが、裁判官は、神からも人からも愛されるはずの指輪の持ち主が、こんな風に争うわけがないと言いました。

本物の指輪など、もはやないかも知れないのだと。しかし、それぞれが父親から指輪をもらったならば、自分のもらった指輪こそが真実の指輪だと信じるべきだというんですね。

さあ! いずれも精出して、身びいきのない無我の愛を欣求するがよい、めいめいが自分の指環に鏤めてある宝石の力を顕示するように励み合いなさい、――そして柔和な心ばえ、和らぎの気持、善行、神への心からなる帰依をもってその力を助成しなさい。そして宝石に具わる諸の力がお前達の子孫の代に発揮されたら、数千年後のその時にこそ、わしはお前達をまたこの裁判官席の前に召喚しよう。その時には、わしよりも賢明な人が、この席に坐ってこういう判決を下すだろう、――退廷してよい!(115ページ)


つまり、これから何代も受け継がれていった指輪が、その持ち主のよい行いを引き出すものならば、それはもう真実の指輪なのだというんですね。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教がそれぞれ争うのではなく、真実の道であるように心がけ、努力し続けていくべきだというわけです。

この話を聞いたサラディンは感服し、ナータンから財産を奪い取るのをやめ、親しい付き合いを望むようになったのでした。

レーハに恋するようになった神殿騎士は、ナータンに結婚したいと持ち掛けますが、悩ましげな様子のナータンから、何故かやんわりとした拒絶にあってしまいます。

絶望していた神殿騎士は、レーハの侍女で、実はキリスト教徒だったダーヤから思わぬ事実を知らされました。

レーハはキリスト教徒として生まれ、ナータンの養女になってからユダヤ教徒として育ったというんですね。

レーハを何としても手に入れようとした神殿騎士が、ナータンの行いをエルサレムの総大司教に相談したことから、事態は思わぬ方向に動いていってしまい・・・。

はたして、レーハと引き裂かれそうになったナータンの運命はいかに? そして、レーハを引き取るに至った過去の出来事とは一体!?

とまあそんなお話です。ユダヤ教徒のナータン、キリスト教徒の神殿騎士、イスラム教徒のサラディンがそれぞれの立場、宗教の違いからぶつかるものの、やがては理解を深めていくという物語。

レーハをめぐるストーリーも非常に面白く、引き込まれるものがあります。素直に感動させられる物語でした。

訳者解説によると、ナータンがサラディンにした指輪の昔話は、イタリアの作家、ボッカッチョの『デカメロン』に典拠があるようです。

『デカメロン』も河出書房新社から平川祐弘訳でいい新訳が出たので、大分先にはなりそうですが、その内紹介したいと思っているのでお楽しみに。

ちなみに、『賢人ナータン』は元々は、「劇詩」(げきし)というもので、詩の形式で書かれた劇なのですが、「劇詩」の翻訳は難しいことから、散文訳(つまり普通の文章に直してある)になっています。

また、この『賢人ナータン』をヤングアダルト向けに物語にしたものが岩波書店から翻訳出版されているようです。ミリヤム・プレスラーの『賢者ナータンと子どもたち』という作品。面白そうですね。

賢者ナータンと子どもたち/岩波書店

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今回紹介した岩波文庫も、今は復刊されているので手に入りますが、何しろ1958年のやや古い版が元になっているので、読みづらさを感じる方は、そちらの児童書の方を読んでみてはいかがでしょうか。

明日は、森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』を紹介する予定です。