吉村昭『桜田門外ノ変』 | 文学どうでしょう

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吉村昭『桜田門外ノ変』(上下、新潮文庫)を読みました。

幕末を舞台にした歴史小説が面白いのは、理念と理念のぶつかり合いが描かれるからに他なりません。

江戸幕府の理念が正しかったのか、それとも、倒幕(幕府を倒すこと)を目指した志士たちの理念が正しかったのか?

結果的には江戸幕府は倒され、明治政府が出来たわけですが、何が正しかったかの答えは、今なお容易には出せないのではないかと思います。

長年続いた、争いのない江戸時代。しかしある時突然、アメリカから驚異的な力を持った黒船がやって来て、その平和は破られることとなりました。

あのペリー提督が乗った黒船ですね。日本は開国を迫られ、外国とどのように接していくか、その対応を急遽迫られることとなったのです。

その当時、江戸幕府を牛耳っていたのが、大老(たいろう)の井伊直弼(いいなおすけ)。大老というのは、非常時などに置かれる、老中(ろうじゅう)よりもさらに上の役職のこと。

将軍は言わばお飾りで、井伊直弼が実質的に政治を取り仕切っていたので、当時の最大の権力者と言ってよいでしょう。

井伊直弼は、外国からの圧力に屈して、日米修好通商条約など、外国と条約を結んでしまうんですね。この条約によって、いくつかの港が開港させられることになります。

外国と条約を結んでしまったら、日本はどうなってしまうか分からない、武力でもって、日本から外国を追い払うべきだと、そう思う人々が増えていきました。

日本には江戸幕府の将軍の上に、天皇がいる、その天皇を飛び越して勝手に外国と条約を結ぶなんて、それはもうとんでもないことだという、そういう声もあがって来ます。

幕末のそうした考えのことを、尊皇攘夷(そんのうじょうい)と言います。みなさんも、どこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。

「尊皇」は、天皇を敬うこと、「攘夷」は、異民族を追い払うという意味です。尊皇攘夷の考えは、やがては倒幕運動と直結していくこととなります。

そうした、幕府を危機においやるような動きに対して、井伊直弼がどのような対応を取ったかというとですね、完全に封じ込める手に出ました。

吉田松陰や橋本左内、頼三樹三郎など、尊皇攘夷の思想を持ち、なおかつ人々を率いていくような人物を捕まえ、処刑していったんですね。

その弾圧のことを、安政の大獄(あんせいのたいごく)と言います。こちらの用語も、歴史の教科書などで、みなさん何となく聞き覚えがあるのではないでしょうか。

江戸幕府の権力を一手に握り、外国と勝手に手を結び、自らに刃向かう人々を次々と処刑していった井伊直弼。

やがて、こう考える人々が現れて来ます。日本を変え、新しい時代を作っていくには、巨悪である井伊直弼を取り除くしかないと。

そしてついに、脱藩(藩に迷惑がかからないよう、藩籍を離れること)した水戸藩士らによって、井伊直弼の暗殺計画が実行されます。

暗殺が実行された場所は、江戸城の桜田門の前。そう、この暗殺事件こそが、世に言う、桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)です。

今回紹介する『桜田門外ノ変』は、タイトルの通り、その桜田門外の変を描いた物語。この小説は、読む前から誰もが、事件自体をある程度知っていて読むことになるわけですね。

ただ、歴史の教科書ではわずか数行しかない事件が、上下巻にわたって展開されるわけですから、一体何故、事件は起こったのか、そして実際にどのように起こったのかが、細かく描かれていく面白さがあります。

そして、それ以上に興味深いのは、「桜田門外の変は正しかったのか?」という、極めて素朴かつ重要な問いかけが、テーマに内包されていることです。

権力者が反乱分子によって命を落としたこと。これは、間違いなく大きな事件ですし、桜田門外の変は、歴史の分岐点とも言うべき事件だったと言えるでしょう。

しかし、井伊直弼の暗殺は本当に必要だったのか、そしてこの桜田門外の変が、後の倒幕運動にどれほどの影響を与えたのか、そうした判断は、実は極めて難しいのです。

義に殉じた美しき革命運動と言うよりも、どこか虚しさ、切なさの残る桜田門外の変。

一体何が正しいことだったのか、それを読者に問いかけるような物語なだけに、色々と深く考えさせられる作品になっています。

ちなみに、大沢たかお主演で映画化もされているので、ビジュアルで歴史的背景をつかみたい人は、こちらもおすすめです。リアルで骨太な歴史大作映画になっていますよ。

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大沢たかおが演じたのは、現場で指揮を取ったとされる水戸藩士、関鉄之介。原作でも関鉄之介が中心となって物語は紡がれていきます。

作品のあらすじ


水戸藩の十石三人扶持の家に生まれた関鉄之介。藩校である弘道館は、身分が高くない藩士の子弟にも広く開かれていたので、鉄之介はそこで、めきめきと頭角を表していきます。

鉄之介が親しく付き合うようになった友人の兄、高橋多一郎は、儒学者藤田東湖の思想に影響を受けた、尊皇攘夷の考えの持ち主でした。

その考えに、鉄之介も自然と影響を受けていくこととなります。

水戸藩では、門閥派と改革派との争いがあり、改革派に属する多一郎や鉄之介は、厳しい状況に追いやられたりもしますが、藩主徳川斉昭を中心に、少しずつまとまっていきました。

江戸幕府の政治にも携わる徳川斉昭は、黒船来航による外国の脅威に対して、「日本の植民地化をくわだてている外国の意図をあらかじめ打ちくだくために、全国に決戦の号令をすべきだ」(上、67ページ)と主張する強硬派です。

その頃、外国に対する対応とともに、江戸幕府が抱えていたもう一つの大きな問題は、十三代将軍の徳川家定が病弱で、子供もいなかったこと。

次の将軍を徳川慶福(後の家茂)と一橋慶喜のどちらにするかで、それぞれの大名がそれぞれの立場に立って、揉めていたんですね。

一橋慶喜は、養子に行った身ですが、徳川斉昭の実子に当たります。当然ながら徳川斉昭は、表立ってではないものの、一橋慶喜を推す立場。

ところが、彦根藩藩主の井伊直弼が大老に選ばれたことで、すべてが決着してしまいました。

井伊直弼が推していた徳川慶福が次の将軍になることが決まり、また、江戸幕府は開国の方針を取ることになったのです。

やがて、井伊直弼が勝手に外国と条約を締結したことを知り、それに異を唱える徳川斉昭ら何人かの大名は、江戸城へ押しかけ登城し、罪に問われてしまいました。

江戸幕府が勝手に調印をしたことに対し、孝明天皇は激怒し、また、徳川斉昭らの罪を許してもらおうという朝廷への働きかけもあって、天皇から水戸藩へ勅命書が下されます。

それは、「大老、老中は、御三家、諸大名の意見を十分に尊重し、朝廷と連携して国内をおさめ、外国の侮りをうけぬこと」(上、172ページ)などの内容が書かれたものでした。

 それまでは、朝廷は幕府に政治を委任し、自らは宗教的な尊崇の対象としての域をこえることなく、政治に口出しすることはなかった。しかし、勅命書は、幕府に対する積極的な政治的指示であり、しかも、きびしい内容のものであった。
 さらに、勅命書が幕府だけにつたえられたのなら、まだ納得はできても、幕府にあたえられたものと同文のものが水戸藩に下賜されたことは、朝廷が、幕府と水戸藩を同格視したと解釈され、幕府にとっては面目を失った前代未聞の一大事であった。(上、176ページ)


やがて井伊直弼は、尊皇攘夷の考えを持つ有力な人物を次々と処刑し始め、金子孫二郎と高橋多一郎を中心にした水戸藩士の集まりは、井伊直弼を除かねば、日本の未来はないと思うようになります。

しかし、ただ闇雲に暗殺しただけでは意味がありません。国を大きく変えなければならないのです。そこでひそかに、諸藩へ協力を求めに行くことになりました。

関鉄之介は鳥取藩へ向かい、「鳥取藩におかれては、わが水戸藩士が事をあげた時、ただちに兵を京に出動させ天子様を御守護願いたい」(上、240ページ)と頼みます。

こうして、薩摩藩と鳥取藩から、事が起こったら京に兵を出すという約束を取り付けることに成功したのでした。

暗殺計画を企てる水戸藩士たちは脱藩し、ひそかに江戸へと集まります。計画に賛同した薩摩藩士数名もまた脱藩し、そこへ加わります。

あまり準備に時間をかけても事が露見する恐れがありますから、少数精鋭で素早く実行することに決まります。実行にあたるのは、わずか十八名。

決行日が知らされた時、鉄之介は思わぬことを聞かされました。

 三月三日といえば、明後日になる。
 鉄之介は、大きくうなずき、
「襲撃場所は?」
 と、たずねた。
「桜田門外」
 金子が、鉄之介に視線をむけたまま答えた。
 登城する大名は大手門または桜田門から入るが、井伊大老がいる彦根藩邸は外桜田にあり、行列は藩邸の問を出ると壕ぞいに東へ進み、桜田門から城内に入る。邸から門までの距離は短く、そこを襲撃場所に決定したという。
「襲撃の指揮は、関、お前がとる」
 金子の言葉に、鉄之介は、一瞬、絶句したが、
「承知仕りました」
 と、張りのある声で答えた。(下、70~71ページ)


そして、いよいよ決行の日の朝。井伊直弼を乗せた駕籠の行列が来るのを、緊張した面持ちで待ち続ける関鉄之介ら十八名。

彼らの上には、赤穂浪士の討ち入りの時を思わせるかのような、激しい雪が降り注いでーー。

はたして、井伊直弼暗殺計画の結末は? そして、関鉄之介らの、その後の運命はいかに!?

とまあそんなお話です。井伊直弼を襲撃した人々のその後に何が起こったのか、特に、鉄之介の逃亡生活が、じっくり描かれていくこととなります。

吉村昭は、キャラクターに肉付けをして、魅力的なストーリーを描くタイプというよりは、資料を重視し、とことん歴史的事実にこだわるタイプの歴史小説家です。

なのでその作風は、物語というよりは記録文学的で、おそらく他の歴史小説家と比べると、かなり読みづらい作家なのではないかと思います。

言わば、とことん硬派な歴史小説家なので、歴史小説ファンではない人には、なかなかおすすめしづらい部分があるんですよ。物語的なうま味はあまりないので。

ただ、他の作家がなかなか描かない事件を描いている点で、着眼点の面白さがあること、そして何よりも、ノンフィクションを読んでいるかのようなリアルな質感を持っていることに、その大きな魅力があります。

ぼくが好きな、おすすめの作品が何作かあるので、これからも少しずつ吉村昭の作品を取り上げていけたらいいなと思っています。

明日は、フョードル・ドストエフスキー『貧しき人々』を紹介する予定でいます。