乙川優三郎『生きる』 | 文学どうでしょう

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生きる (文春文庫)/文藝春秋

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乙川優三郎『生きる』(文春文庫)を読みました。直木賞受賞作です。

現代社会でも、本音と建前の差に苦しめられることがよくあります。

勉強でも、仕事でも、或いは人間関係でも、日常生活において、自分の望むことが、そのままうまくいくことの方がむしろ少ないですよね。

組織の中のしがらみや、複雑な事情を色々と抱え込みながら、それでも色んなことをなんとかかんとかこなしていくというのが現実だろうと思います。

言わば、本音はともかく置いておいて、建前でうまいこと日常を回していくのです。

それでも、身分制度のはっきりしていた江戸時代に比べれば、明らかに現代社会の方が平等な世の中ですから、まだどうとでもなる感じがあります。

武士が武士として生きようと思うが故に、本音と建前の間で板挟みになってしまったなら。

言うまでもなく、現代社会よりも、もっと苦しい状況に追いやられてしまうわけですね。

『生きる』は、本音と建前の間で苦しめられる武士の姿を描いた3編を収録した、時代小説の作品集です。

表題作の「生きる」は、追腹の禁止が言い渡されてしまったが故に起こる騒動を描いた物語。

追腹というのは、主君が死んだ後で、忠義のために切腹することです。

武士にとってはこの上ない名誉なことではありますが、藩の未来を考えると、重要な人材が失われてしまうわけですから、ついに家老から追腹禁止の命令が出されます。

今までは忠義の証だった追腹が、今度は追腹をしたものは罪人の扱いを受けることになってしまったのです。

主君の後を追って死ぬことを禁じられてしまい、生きていたら生きていたで、周りからは何故死なないのかという目で見られる主人公の、複雑な心の動きをとらえた作品です。

「安穏河原」は、農民に対して余りにも過酷な改革に反対したが故に、勤めを辞め、浪人になってしまった男とその家族の物語。

「百姓は年頃の娘がいれば売り、いなければ借金をするしか仕方がない」(107ページ)という改革に反対していたのですが、いざ藩から離れると、自分がたちまち生活に困ってしまったのでした。

そしてやむなく娘を女郎屋へ出さざるをえなくなり・・・。理想と現実の差を背景に、武士の生き様を描いた作品です。

「早梅記」は、出世を夢見る男と、身分違いの娘との関係を描いた物語。

奉公人としてやって来た娘と、武士はいつしか愛を育むようになります。しかし足軽の娘とは身分が違いますから、結婚するわけにはいかないのです。

夫婦同前に暮らし、並みの夫婦よりも慈しみあっている二人ですが、やがて武士には断り切れない縁談の話が持ち込まれてしまい・・・。

死ねないのに何故死なないのかと問われ続けること、誰かを助けるための行動が自分の首を絞めてしまうこと、愛しあっていても体面のために結ばれないこと。

そうした本音と建前の矛盾に満ちた世界を描きつつ、武士の生き様を描いた作品集です。

決して派手な物語でも、劇的な物語でもありませんが、共感出来る部分は多いですし、何よりも、人生の皮肉を描いているだけに、考えさせられるところの多い一冊でした。

作品のあらすじ


『生きる』には、「生きる」「安穏河原」「早梅記」の3編が収録されています。

「生きる」

関ヶ原で敗軍となり、苦しい浪人暮らしをしていた父を召し抱えてくれたのが、現在の藩主の飛彈守でした。

それからというもの、新参の身ながら親子二代に渡って重く用いてもらい、50歳を越えた石田又右衛門は藩主に深い感謝の念を寄せています。

江戸にいる藩主が病気だと耳にすると、「飛彈守が身罷ったときには、寵臣のひとりとして忠義と悲しみを形で表さねばならぬだろう」(11ページ)とひそかに決意を固めている又右衛門。

しかし、筆頭家老の梶谷半左衛門から呼び出された又右衛門は、思いがけぬことを聞かされることとなります。

「追腹は明日にも触れを出して禁ずる、それでも腹を切るとなると、世間の心証はともかく罪人ということになる、罪人の子をこのまま新たな殿の御側に仕えさせるわけにはゆかぬであろう、また減石は言うに及ばず跡式相続もどのようなことになるか」(28ページ)


梶谷家老は、追腹を防ぐために禁令を出すことにし、特に又右衛門と小野寺郡蔵の二人の年寄りを呼び寄せ、両家の存続を保証する代わりに、追腹をしないという誓いを交わさせたのでした。

やがて藩主が亡くなり、禁じられているにも関わらず、切腹する者が何人も出ました。藩からは処罰が下るので、中には病死と届け出る家族もあります。

追腹をした者が賞賛される一方で、新参である又右衛門に対する風当たりが強くなり、遠回しに何故死なないのかを尋ねられ、様々な嫌がらせをされるようになってしまいました。

追腹が罪となり、自ら命を絶った人間の遺族がその罪を背負う一方で、生きていればいたで死ぬことを期待される矛盾について、いまになり考えざるを得なくなった。殉死したものをとやかく言う資格はないが、死んで名分が立つと考えるのも間違いらしい。かといって堂々と生きるのもむずかしい。(58ページ)


それでも、しっかり生きていこうとする又右衛門ですが、やがて思わぬ出来事が起こって・・・。

「安穏河原」

飢饉が広がり、百姓からお金を集めようという農政改革に反対した郡奉行は仕事を失い、妻と娘を抱えて江戸で暮らし始めました。

しかし、8年経っても生活は一向に良くならず、妻は病気で寝込んでしまいます。

「こういうことになったが何も悪いことはしていない、おまえも、これからどんなことがあろうとも人間の誇りだけは失うな」(109ページ)父親がそう娘に言い聞かせたのは、娘が女衒に売られていく時のことでした。

25歳の伊沢織之助は、その話を女郎屋のおたえから聞きました。武士の娘である双枝は女郎屋の「津ノ国」に売られ、そこで女郎のおたえとして働いているのです。

そもそも織之助がおたえの元へ通うようになったのは、口入れ屋を通した仕事で知り合った、自分と同じく浪人者の羽生素平に頼まれてのこと。

素平が揚代を払ってくれ、その代わりに織之助はおたえの様子を素平に知らせるのです。

初めは知らなかったのですが、やがて素平がおたえの父親であると気付いた織之助は、おたえの元へ通いながらも、話し相手をするようになりました。

織之助は一応武家の出身ですが、生まれた時にはもう父親は浪人の身であり、早くに両親を亡くしたこともあって、武士らしいたしなみも、経験も何もありません。

それだけに、元々は立派な武士であるにも関わらず、落ちぶれてしまった素平に苛立ち、「女郎に堕ちた娘のほうが凜としていて、武家らしさを残している」(120ページ)と思い、借金取りの片棒を担いで暮らす自分自身の境遇を情けなく思ってもいます。

女郎は金回りのいい客がつかない限りは、なかなかその世界から抜け出せないもの。

六年の年季が明けても、おたえには三十両の借金が残り、女郎から足を洗えないと知った素平は愕然とします。

素平は、おたえの年季が明けるまでに、「わたくしは三十が四十でも作るつもりです、いや、必ずこの手で作ってみせます」(140ページ)と強い決意を口にしていたのですが・・・。

「早梅記」

もうすぐ54歳になる高村喜蔵は、妻を亡くし、隠居した今となってはすることが何もありません。

釣竿を持って出かけますが、刀の代わりに釣竿を持っているようなもので、釣りをするというわけでもなく、川の途中にある茶店に寄ることだけを楽しみにしています。

出世を目指していた喜蔵は、かつて愛していたしょうぶという女性と別れた過去がありました。

しかし、あのとき感情に走ってしょうぶを娶っていたら、いまの自分はなかっただろうとも思う。それはまず間違いのないことである。卓越した力も伝もないうえに妻が足軽の娘えは、馬廻席へ昇れたかどうかも怪しい。ただ、若いころの望みを果たし、残ったものを見たとき、これでよかったのかどうかと疑わずにはいられない気持ちだった。(192ページ)


しょうぶは奉公人として喜蔵の元へやって来た娘です。若いながらも、立派に家計を切り盛りするしょうぶに喜蔵は少しずつ信頼を寄せていき、やがて二人は愛し合うようになりました。

夫婦同前の暮らしをし、喜蔵はしょうぶとの結婚を考えないではないのですが、身分の低い娘との結婚は自分の出世の妨げになると思うと、なかなか決断することが出来ません。

やがて喜蔵は、上役に賄賂を贈らなかったが故に、出世の機会を逃してしまいました。

友達の玉井助八との酒もつい愚痴ばかりになります。助八は喜蔵をなだめるようにこう言いました。

「むかしから出世を決めるのは家柄と決まっている、結局は身分と金のあるものが出世して、やがて重職に納まる、景気の悪いときはなおさらだな」
「そういうが、おれたちに景気のいいときなどないじゃないか、悪いからこそ出世して少しはよくしたいと思うのに、それにもまず金では話にならん」
「だが、それが現実だ」(204ページ)


やがて、喜蔵に大きな機会がやって来ます。誰も引き受け手のない使者の役目を仰せつかったのです。しかし、それは命の危険すらあるような仕事でした。

それでもしょうぶという心の支えがある喜蔵は、任務を果たすために出かけて行って・・・。

とまあそんな3編が収録された作品集です。生きることそのものの難しさを、武士の世界ならではの矛盾を含んだものとして描いた「生きる」がやはり印象に残ります。

制度としての正しさと、武士としてのあるべき姿が、ここでは真っ向からぶつかり合ってしまっているんですね。

何が本当に正しいことなのか、そして、人間が生きるとはどういうことなのかなど、考えさせられることの多い作品です。

「安穏河原」と「早梅記」もまた武士が武士として生きるが故の難しさを描いていますが、情けない父と凜とした女郎の娘、身分違いの恋という、それぞれテーマ的に目新しさのある作品だったように思います。

文体や内容はわりと地味で素朴な感じですが、それはそれで渋い魅力があります。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、山田風太郎『甲賀忍法帖』を紹介する予定です。