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永井路子『うたかたの』(文春文庫)を読みました。
思えばぼくは女性作家の書く歴史小説や時代小説をほとんど読んで来ませんでした。
と言うか、そもそも時代小説に関心を持って読むようになったのもほんの最近のことなんです。それまでぼくが好んで読んでいたのは歴史小説なので。
歴史小説と時代小説はそれほど明確に分ける必要もないですし、両方とも広い意味で使われることもありますが、一応ちょっと確認しておきましょう。
歴史小説は、織田信長や豊臣秀吉など、実在した歴史上の人物を軸に歴史を描くものなのに対し、時代小説は、歴史をベースにしながら、浪人者や江戸の庶民など、架空の人物の物語を描くものと言えます。
歴史小説は長編、時代小説は短編の連作として書かれることが多いのも特徴的です。
ぼくは個人的に短編よりも長編の方が好きなこと、そして何よりも、架空の人物の物語よりも、歴史上の人物の生き様に興味があったことから、司馬遼太郎など、歴史小説の方を好んで読んで来ました。
歴史小説で描かれることの多い戦国時代にせよ江戸時代にせよ、男女平等の概念がない時代ですから、当然ながら極めて男性的な社会と男性的な論理の物語になります。
なので、昔のぼくは、あえて女性作家の書いたものを積極的に読もうとは思わなかったのでしょう。
永井路子の評論というか、歴史エッセイのようなものは何冊か読んだことがありますが、小説は今回初めて読みました。
さて、『うたかたの』は江戸時代を舞台にした連作小説(ゆるやかな繋がりを持つ短編集)で、6編の短編はそれぞれ違った女性が主人公です。
その女性たちはそれぞれ身分も性質も違いますが、共通しているのはある男性と出会うこと。女性たちとその男性との関わりが描かれ、季節は巡っていって――。
架空の人物が主人公の時代小説であること、連作であること、そして、女性の目線で物語が綴られていくこと。
その特徴のどれもが、ぼくの好きな歴史小説とは正反対なのですが、意外と面白く読みました。それぞれの女性が違った個性を持っているのが、この作品の何よりの魅力です。
映画などで、スピンオフってありますよね。映画の本編とは別に、本編の脇役が主人公になったりするもの。
『うたかたの』は、そうしたスピンオフや番外編という感じに極めて近い感じがあって、本編にあたる男性の物語が本来あってもおかしくないはずなんです。
ところが男性の夢や挫折の物語は、ほとんど全く描かれず、女性の目から見た様子のみで、男性の送って来た波瀾万丈の人生が断片的に、仄めかしのように語られていきます。
そうして浮かび上がる男性の像は極めて曖昧なものなのですが、それが曖昧であれば曖昧であるほど、感情的なものがじんわりと伝わって来るような物語でした。
作品のあらすじ
『うたかたの』には、「寒椿」「春の狐」「樹影」「角のない牛」「かくれみの」「薄闇の桜」の6編が収録されています。
「寒椿」
「貧乏学者、東涯先生のお娘御」(7ページ)として、城下町で知らない者はいない美雪。その美しさ、そして頭脳の明晰さは、どんな男性も委縮させてしまうほど。
兄が亡くなり、小野家を断絶させないためには、美雪が婿を取らざるを得なくなってしまいました。
ところが、美貌と利発さ故に敬遠されて、なかなかふさわしい婿が見つからないのです。
やがて、美雪の2つ年下で、18歳の加瀬録之助という下士の三男が書生としてやって来ました。東涯は、いずれ録之助を美雪の婿に迎え入れる心づもりのようです。
録之助は学問の出来があまりよくなく、美雪は心の中では録之助を馬鹿にしています。
そんな中、東涯の兄の四男で23歳の四郎孝晴がやって来ました。学問の知識が豊富で、人柄もやさしい四郎に、美雪はいつしか心惹かれていくようになります。
美雪は自分は録之助と結婚するつもりはない、「父がそう思おうと、私は嫌です。そうしろと言ったら、家を出ます」(27ページ)と四郎にはっきりと言いました。
告白とも取れる美雪のその言葉に、四郎はある決断をして・・・。
「春の狐」
たよの元に「山本仙三郎どのは、こちらにおられますか」(35ページ)と若い武士が訪ねて来ました。山本仙三郎はたよが一緒に暮らしていた男ですが、最近出て行ったばかり。
そして、その若い武士、康之助が探していたのは従兄の山本千三郎で、山本仙三郎とは「せんざぶろう」違いだったことが分かります。
お金に困って金策にやって来ていた康之助と、かつて商人の囲い者をしていて、お金に困っていないたよは、ずるずると一緒に暮らしていくこととなりました。
たよは、康之助の様子から、夢を持って江戸へ出て来たのに、上手くいかなかったのだろうと察します。
腕は立ちそうにも見えないが、頭は切れるのだろう。太平が続くと、こういう思い上がりがふえてくる。英才とか鬼才とか呼ばれる男たちは、思い上がって、自分なら、なにをやっても許されると思ってしまう。そうしてそういう男にかぎって、いざとなると、世間知らずで、一番無器用な道を選んで躓き、傷つき、蟻地獄にはまってしまう。(60~61ページ)
夢破れた康之助は、たよに「夫婦にならないか」(69ページ)と言うのですが・・・。
「樹影」
たまきは28歳の時に、34歳の儒者である森田匡と結婚し、やがて市太という子供も生まれました。平凡ながら幸せな日々が続いていきますが、たまきは夫が一体どんなことを考えているのかよく分からないんですね。
夫婦らしい生活をしているというよりは、娘時代とあまり変わりのない日々を送っていることに、たまき自身も気付いています。
「いったい、私は夫を愛しているのだろうか」(81ページ)とぼんやり考えたりするたまき。
やがて、藩主の帰国が決まり、森田家も一緒に国へ帰ることになりました。藩主の帰国が、匡が行おうとしている改革と関わりがあると知って、たまきは驚きます。
「俺はずいぶん廻り道をしている」
珍しく、匡は自分の過去を語りはじめようとした。
「自分のやっていることが徒労にも思えた。とりかえしのつかない挫折だと思ったこともあった。が、考えてみると、若いころの俺は、自分がなにをしたらいいのか、わからなかったんだな」
「・・・・・・」
「いま、やっと、自分のやろうとしていることがわかってきた。そうだな、眼が開かれたというか・・・・・・。いや自分の眼だけじゃない。世の中が動いてきたんだ、それが俺に見えてきた」(86ページ)
しかし、江戸から遠く離れた国で暮らす重臣たちは、国際情勢に疎く、匡は次第に藩主から遠ざけられてしまって・・・。
「角のない牛」
神社の脇に40代半ばの斎藤桂之助という男がやって来ました。独り者では色々と困っているだろうと22歳のつねは気にかけてやりますが、桂之助はいつも無愛想です。それでも、少しずつ話を交わすようになりました。
桂之助はつねに「かつお釣りの餌は、なにがいいか、知っているか」(113ページ)と尋ね、生きた牛からとった角を削り、そのしんで釣るのが一番いいと話したりします。
小料理屋で働いているつねは、板場の昌次と関係を持っています。昌次は小料理屋の若旦那から金を盗み、心中したように見せかけて逃げようと誘って来て・・・。
「かくれみの」
5年前に後家になった56歳のふみは、孫の久吉が、お師匠さまの話をするのを複雑な思いで聞いています。もう二度とお師匠さまが戻って来ないことを知っているから。
お師匠さまというのは、大善寺に住んでいた川島葵のことです。ただで寺に住ませてもらうのは心苦しいと言って、子供たちを集めて手習いの塾を開いたんですね。
ある時、鶯(ウグイス)を捕まえに行って、川島葵は子供たちの心をつかみ、子供たちは熱心に手習いの稽古に通うようになりました。
ところがふみは、川島葵から思いがけぬことを聞いたのです。
「私はだめな人間でね」
「なにをおっしゃいます」
「じつはあの日かぎりで教えるのをやめようと思っていた」
「え?」
「教えるのが下手なんだ。子供たちの読み書きは、いっこうに上達しない。いや、それも道理、教える私が身を入れていない」
ひどく率直な言葉に、ふみはたじろいだ。
「そんな自分に嫌気がさした。もうやめようと思って、子供たちを山に連れていった」(161ページ)
結局、鶯を捕まえたことによって、すべてがうまくいったのですが、ふみは川島葵の思いがけぬ一面を見て、心がざわつきます。
当たり前に暮らし、何の疑問も持たずに過ごした夫との日々。しかし、「その疑いもなく過ごした歳月を、ふみは、いま、いぶかる思いでいる」(167ページ)のです。
女のしるしもなくなり、夫を亡くしてからもうすっかり女であることを忘れていたふみ。しかし、川島葵のことを考えると、心揺さぶられるような思いがして・・・。
「薄闇の桜」
呉服屋の波奈屋の娘で10歳のいとは、誘拐されそうになっている所を、50歳に近い、背の高い男に助けてもらいました。鼻っ柱の強いいとは、自分は誘拐されそうになったわけではないと言い張り、「そんなら、あんただって、あいつとしめしあわせて、助けるふりして、どこかへ連れてゆくつもりかもわかんないじゃない」(183ページ)言います。
いとは負けん気が強く、頭の回転が早い少女なんです。それをきっかけにその男、荻水先生と親しくなり、いとは時折荻水の家へ遊びに行くようになりました。
ある時、荻水は習字のお手本を書いていたので、先生らしい仕事をしていると言うと、荻水は不思議なことを言います。
「木槌作りも茶杓削りも、退屈しのぎではない。手本を書くのも、木槌も茶杓も、しょせん同じことよ」
(中略)
静かに、たったひとり深い霧にでも包まれたように、荻水は黙していた。いとが、ふと夕闇の中で見た桜の老木を思いだしたとき、荻水は口を開いたのである。
「それもこれも、みな死ぬまでの暇つぶしよ」(200ページ)
荻水の影とも言うべき新たな一面を見て、いとは真顔になり、「小父さまは寂しくないの」(202ページ)と尋ねて・・・。
とまあそんな6編が収録されています。一見すると短編集ですが、連作ということは、それぞれの短編が何かで繋がっているはずです。
登場する男には、ある共通点があります。それは儒学を勉強している儒学者であること。
儒学というのは、『論語』で有名な孔子の教えを学ぶものですが、古い時代の教えであり、また、解釈が色々出来ることもあって、朱子学など様々な学派があります。
江戸時代の人々にとって、儒学は単なる学問ではなかったんですね。たとえば、新井白石という人物がいました。物語では、こんな風に書かれています。
正徳年間、新井白石が一介の浪人から将軍の側近にのし上がって以来、そんな野望を抱く男たちは跡を断たない。(73ページ)
政治をどう執り行っていけばいいか、それを将軍なり藩主なりに教えるのが儒学者の役目なんです。
つまり、極めて政治的な存在であり、藩や国を動かしていくことの出来る夢のある仕事なんですね。
しかし、立派な儒学者になる道のりは、やはりとても厳しいものなのです。
それぞれの短編に出て来る男は経歴がよく似ていて、儒学者という共通点があり、どうやら事情があって偽名を使っているようなのです。
そう、どうやら同じ男性らしいんですね。色々な女性の目から通して、浮かび上がって来る男の人生の物語。
男は何を夢見て、どんな人生を歩んで来たのか――。
わりと読みやすい時代小説なので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
明日は、乙川優三郎『生きる』を紹介する予定です。