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筒井康隆『パプリカ』(新潮文庫)を読みました。
眠っている時に見る夢と、現実とを分けるものは、一体何でしょうか。
大きな特徴として、夢では現実にはあり得ない出来事が起こるということがありますよね。
夢の世界というものは、夢を見ている人の無意識と結びついているわけですから、その人の願望が自然と現れたり、また、色々と辻褄の合わないことが起こったりするものです。
しかし、夢と現実とを最も大きく分けるものとしては、夢は覚めるものだということではないでしょうか。目覚めることによって始めて、「ああ、あの世界は夢だったんだ」と認識することができます。
夢の中では、たとえどんなエロティックな行為をしても、誰からも文句は言われないですし、たとえどんなにひどい怪我をしても、目が覚めたら痛みませんよね。
でももしも、夢の世界から永遠に出られなくなってしまったら? それが悪夢だったらもう最悪です。
そして、その悪夢の怖ろしい生き物が、現実世界に現れ出してしまったら?
目が覚めない夢は夢なのか、夢との境界線がなくなって、あり得ない出来事が起こる現実は現実なのかーー。
さてさて、筒井康隆の『パプリカ』は、そうした夢と現実を描いた物語です。
ベースとなっているのは、サイコセラピー(精神療法)です。何らかの出来事がきっかけで、精神的に病んでしまった人がいたとします。
普通なら、カウンセリングでその人のトラウマを少しずつ解き明かしていくんですが、この小説世界には天才科学者がいて、他人の夢の世界にジャック・イン(入り込む)出来る装置が発明されているんですね。
夢探偵のパプリカは、無意識の世界である夢の世界に入り込んで、夢を見ている本人と一緒に、その夢に潜んでいる”意味”について探っていきます。
自分の無意識に潜んでいる”意味”を探り当てるということは、自分自身をより深く知り、また、何故自分の心が病んでしまったのかを知るということですから、自然と心の病気は治るというわけです。
物語は大きく二部構成に分かれていて、第一部はそうしたパプリカによる治療が中心となりますが、第二部ではもっと大きな事件が起こってしまいます。
今までの装置はパプリカなど、誰か他人がある人の夢の世界に入り込めるというものでしたが、「DCミニ」という新しい装置が発明されてしまうんですね。
「DCミニ」は、「互いの脳に互いの夢内容を伝達する」(115ページ)ことが出来るもので、装着している人は同じ夢を見ることが出来ます。
その「DCミニ」が嫉妬と野望を抱いている同じ研究所の悪人に奪われてしまいます。そこから、事態は思わぬ方向に動いていくこととなります。
ちなみに『パプリカ』は、今敏監督によってアニメ映画化されています。
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映画と原作小説は、色々な設定が結構大きく違うので、映画を観た方も、ぜひ小説を読んでみてください。エロティックの度合いと、夢と現実との境界線の曖昧さは原作の方が強いですね。
また、小説を読んだ方が、映画を観ても楽しめるだろうと思います。時に悪夢的でもある夢の世界が、アニメならではの手法でとても巧みに表現されていますよ。
作品のあらすじ
こんな書き出しで始まります。
時田浩作が理事室に入ってきた。彼の体重は百キロ以上あった。理事室の中が暑苦しくなった。(9ページ)
財団法人・精神医学研究所には二人の天才がいます。百キロを超える巨漢で、情緒は子供っぽいものの、夢をモニタリングすることの出来るPT(サイコセラピー)機器を発明した時田浩作。
そしてもう一人は、ずば抜けて優秀な研究者であり、また、セラピストにふさわしい強靭な精神力を持ち、何よりもその美貌からテレビへの出演依頼が殺到している千葉敦子。
敦子は、時田の発明に欠ける精密さと理論を補うような形で研究を進めていて、時田と敦子は共にノーベル医学生理賞候補の筆頭にあげられています。
しかし、時田と敦子だけが目立つことを喜ばしく思わない人々が、研究所内にいるんですね。
研究所の理事長でもある島寅太郎所長は、二人に好意的なんですが、どうやら二人を追い落とし、さらに島所長のポストを狙っている人物がいて、様々な陰謀が企てられているようです。
さて、島所長は、最近精神的な病気に苦しめられている友人の能勢龍夫に頼まれて、夢探偵パプリカを紹介しました。
能勢は自動車メーカーの重役なので、精神科にかかったということが知れると、ちょっとまずいんです。なので、PT機器を使う、やや非合法のセラピストに依頼したというわけです。
島所長もパプリカの治療を受けたことがあり、パプリカに絶対の信頼を置いているんですね。
パプリカは六年間ほど活動を停止していたんですが、島所長の頼みは断れず、やむをえず出動することになります。
六本木のラジオ・クラブという酒場。夜11時。パプリカを待つ能勢の前に、一人の少女が現れました。
今後能勢がパプリカと呼ぶことになるその少女は、眼の周囲にソバカスがあり、キュートな顔立ちをしていて魅力的だった。暗い照明の下で、パプリカは小麦色の肌をしているらしく能勢には見えた。場違いを自覚している様子でパプリカはしばらく身じろぎし続けた。
息子とどちらが歳上だろうなどと思いながら能勢は、しきりに店内を見まわしている娘に声をかけた。「ええと。お嬢さんは」
「パプリカって言って」彼女はやや蓮っ葉にそう言った。(32~33ページ)
パプリカのマンションに移動し、能勢はヘルメットのようなゴルゴネスという装置を被り、眠りにつきます。そうすることで、夢の世界がモニタリング出来るようになるわけです。
そうしたモニタリングでの治療を何度か続けた後、パプリカは能勢の夢の世界にジャック・インし、能勢と一緒に、様々な物や人でごちゃごちゃしている夢の世界の謎を解き明かしていきます。
一方、研究所では、時田浩作がその天才的頭脳によって、PT機器をさらに進化させました。
「底面の直径が六、七ミリで高さ一センチほどの円錐形をした物体」(115ページ)で、頭につけるだけで夢を共有できる「DCミニ」です。
しかし、敦子は「時田浩作はDCミニにアクセス不能の機能をあたえたのだろうか。そんなこまかい気配りとは無縁の時田の性格から考えて、どうもあたえなかったようだ」(124ページ)と気が付きました。
PT機器は、悪用すれば人間に精神的なダメージを与えることが出来てしまいますから、そう出来ないように安全装置をつける決まりになっています。
しかし、発明されたばかりの「DCミニ」にはその制限がつけ忘れられていたんですね。
研究所では不可解な出来事が起こりつつあります。何人かの職員が精神を病んでしまうんです。どうやらPT機器を使って、悪夢を流し込まれたようです。
そして、理事会の会議では時田と敦子、そして島所長の失脚が画策されます。
そんな不穏な状況の中、大きな事件が起こってしまいました。敦子が時田の部屋に入ると、部屋中に物が散乱していたんですね。
「どうしたの」よくないことがあったに決まっていた。早くも怯えながら、おそるおそる敦子は訊ねた。
「DCミニがなくなった」時田の血走った眼を、敦子は初めて見た。部屋中を引っくり返したのは時田自身なのだろう。
「盗まれたんだわ」悲鳴と泣き声が一緒に出た。(158ページ)
やがて、島所長と時田は、何者かの「DCミニ」の悪用によって、精神的に病み、外部からの呼びかけに何も反応しないようになってしまいました。窮地に追い詰められた敦子。
一方、パプリカは能勢の治療を終えた後、能勢の大学時代の親友で、警視庁の警視監の粉川利美の治療をすることとなります。その治療の最中に、「DCミニ」を使用している悪人たちと遭遇してしまいました。
「DCミニ」によって、思いがけず夢の境界線を越えて来てしまったようです。パプリカは夢の世界で悪人たちと戦うことになりますが、やがて夢の世界から抜け出せなくなってしまいました。
パプリカは周囲を見まわした。早く眼醒めなければ。理性が急速に混濁していく。眼醒める方法は。ジャック・インしたクライエントや分裂病患者の夢から離脱して現実に戻る技法はいくつかあるが、今度ばかりはそんななまやさしいことでは覚醒に到るまい。夢世界外からの助けがあれば醒めるだろうが、助けを求めるにはどうすればいいのか。そもそも今は何時なのか。窓から見る喫茶店の外は真っ昼間の大通りだが、夢世界外の現実の夜はすでに明けているのか。(350~351ページ)
絶対絶命のパプリカの運命はいかに!?
とまあそんなお話です。パプリカの正体というのは、別に秘密でもなんでもなくて、小説を読めばそのまま書いてあるんですが、映画ではちょっとぼかされていたりもしたので、少し曖昧に書いておきました。
あらすじ紹介ではうまく触れられなかったんですが、この小説の面白さというのは、夢の世界独特の混沌さにこそあります。
つまり、好きな女性がいるにもかかわらず、その願いが叶わなければ、夢の世界では露骨な性的欲望が現れますし、力が欲しいと思う者は、夢の世界では自分の体をグロテスクなモンスターに変えてしまうわけです。
力と力との戦いというような、ある意味ではすっきりした戦いではなくて、そうした精神世界のどろどろした物との戦いが描かれ、やがてそうしたおぞましいものが現実世界にあふれ出していってしまう面白さがあるんですね。
そしてまた、第一部はサイコセラピーがメインになりますから、フロイトやユングなどの精神分析が出て来る面白さもあります。
たとえば、夢の世界にAさんが出て来たとして、それは実はAさんではなくて、Bさんを表しているなどの”ずれ”があったりするんですね。夢ならでは、精神分析ならではの感じが楽しめます。
第二部になると巨悪との戦いという大掛かりな展開になっていくので、どんどん盛り上がっていきますよ。
夢の世界、或いは仮想現実を描いた物語は結構ありますが、夢が現実を侵食していくようなものは、わりと珍しいのではないかと思います。
夢と現実の境界線のなさが、独特の雰囲気を生み出している長編です。500ページ弱とやや長いですが、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
明日は、古井由吉『杳子・妻隠』を紹介する予定です。