伊坂幸太郎『砂漠』 | 文学どうでしょう

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砂漠 (新潮文庫)/新潮社

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伊坂幸太郎『砂漠』(新潮文庫)を読みました。

西嶋が、ぱかっと口を開き、「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」と断言した。(18ページ)


西嶋のこのセリフが、この『砂漠』という小説をよく表しています。「砂漠」と「雪」というのは、本来決して交わらないものであって、砂漠に雪は降りませんよね。

砂漠に雪が降ったら、それはすなわち、ありえないことが起こったわけで、それを人は「奇跡」と呼ぶのではないでしょうか。

そして、「砂漠に雪が降ることもある」ではなく、「砂漠に雪を降らす」という言葉が表しているのは、「奇跡が起こるのを待つ」という受動的なアプローチではなく、「自分たちの手で奇跡を起こそう」というような、積極的なアプローチだろうと思います。

さて、今回紹介する『砂漠』は、同じ大学で出会い、たまたま友人になったあるグループの、恋あり友情ありの大学生活が描かれた青春小説です。

彼ら5人の男女の大学生活は、穏やかで何気ない日々と言うには、山と谷がありすぎるものですが、そうかと言って波瀾万丈と言うには、あまりにも平凡すぎるものです。

ショッキングな事件が起こったりもするので、普通の学生が経験しないようなことも経験する彼らですが、描かれているのは特殊なものと言うよりも、わりと誰もが経験するような「あるある」という感じの学生生活だろうと思います。

ただ、『砂漠』が他の青春小説とは決定的に違うのは、辛いことがあった時、苦しい時、仲間が窮地に追いやられた時、「奇跡が起こるのを待つ」のではなく、「自分たちの手で奇跡を起こそう」とする物語であることです。

砂漠に雪なんか降りません。奇跡なんて待っていても起きません。それでも、本気になって砂漠に雪を降らそうとすること。そんな彼らの行動が起こす、ささやかな奇跡が、ぼくら読者の心を強く揺さぶります。

特に「冬」における鳥井の行動には、ちょっと鳥肌が立ち、ぼくは少し泣きそうになりました。

物語の中で「砂漠」という言葉は、他にもいくつかの意味合いで使われていて、別の人物はたとえばこんな風に語っています。

彼女はしばらく黙ってこちらをじっと見ると、「北村君たち、学生は」と指を立てた。「学生は、小さな町に守られているんだよ。町の外には一面、砂漠が広がっているのに、守られた町の中で暮らしている」
「鳩麦さんの言うその、砂漠というのは、いわゆる、社会ってこと?」
「社会って言っちゃうと、恰好悪いじゃない」鳩麦さんは笑う。「町の向こう側に広がる、砂漠のほうがイメージが近いよ」(227ページ)


社会=砂漠というのは、過酷な環境ということを示していますし、またどんなに理不尽であっても変えることのできないものということでもあります。

決められたカリキュラムをこなすだけではなく、自分たちで行動していかなければならない社会そのものの厳しさがあります。ただ、なにより重要なのは、様々な社会問題をどう解決するかです。

誰を助けるべきか、そしてなにが正義なのかは、明確なようでいて実は非常に難しい問題なんです。「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」と言った西嶋は、こんな風に問題提起しています。

「たとえばね、手負いの鹿が目の前にいるとしますよね。脚折れてるんですよ。で、腹を空かせたチーターが現われますよね。襲われそうですよね。実際、この間観たテレビ番組でやってましたけどね、その時にその場にいた女性アナウンサーが、涙を浮かべてこう言ったんですよ。『これが野生の厳しさですね。助けたいけれど、それは野生のルールを破ることになっちゃいますから』なんてね」
「正しいじゃんか」と鳥井が言う。
「助けりゃいいんですよ、そんなの。何様なんですか、野生の何を知ってるんですか。言い訳ですよ言い訳。自分が襲われたら、拳銃使ってでも、チーターを殺すくせに、鹿は見殺しですよ」
「なるほど」と納得したわけでもないのに僕は応じる。
「なるほど」と他の三人もうなずいた。ここで反論しても意味がないことを、僕たちはすでに学んでいる。ただ、東堂が言った。「でも、チーターと鹿のどっちを救うべきか、っていうのは難しい問題だよね」(268~269ページ)


そのまま放っておけば、鹿は死んでしまいますが、チーターのお腹は満ちます。一方、手負いの鹿を助ければ、今度は逆にチーターの方が飢えて死んでしまうかもしれないわけです。

チーターか鹿か、どちらを救うのが正しいことなのか。社会問題というのは、こうしたジレンマを抱えた問題が多いわけですね。

その問題に対するアプローチとして、倫理的な正しさを求めていくこともできます。しかしそれは正確さを重んじるあまり、「なにも行動しないこと」とほぼ同義語だったりもするんですね。

「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」という西嶋の言葉は、行動できるのに何故しないのかという大勢への問いかけであるとともに、自分は行動するという宣言でもあります。

物語の登場人物たちが学生生活を送る仙台市では、いくつかの事件が起きています。「プレジデントマン」という通り魔が出没し、空き巣が頻発しています。はたして、〈僕〉たちはその事件と一体どんな風に関わっていくことになるのでしょうか。

作品のあらすじ


大学の法学部に入学した〈僕〉こと北村は、クラスの飲み会に参加しています。そこで鳥井という男が冷静な〈僕〉の様子を見て、「みんな必死だな、馬鹿らしいなとか、思っちゃってるんだろ」(8ページ)と話しかけてきます。

「当たり?」鳥井は唇を横に広げた。「学生ってのは、近視型と鳥瞰型に分類できるんだよ」
 分類するほどおまえは偉いのか、と一瞬言いたくなるが我慢した。
「近視の奴は、目の前のことしか見えないだろ。近眼だ。遠くはお構いなし。鳥瞰ってのは、鳥瞰図の鳥瞰だよ。俯瞰するっての? 上から、全体を眺めるっていうか。まあ、周囲を見下している。北村はどうせ、鳥瞰型なんだろ?」(8ページ)


異性に夢中になったり、遊び呆けたり、学生らしいノリではしゃぐ人々がいる中で、そうした群れに属さず、冷静にそれを眺めているような〈僕〉なんですね。

そんなクールな〈僕〉ですから、知り合いはできても友達は全然できません。ある時、いつも「ぎゃはは」と笑う能天気な鳥井が、「中国語と確率の勉強」(23ページ)をしないかと〈僕〉を誘ってきます。

簡単に言い換えると、一緒に麻雀やろうぜということです。そうして集まったのが1年生の中でも異色な面々。

いつも無愛想だけれど、モデルや女優と言ってもおかしくないほどの美しさの東堂、鳥井の中学の時の同級生で引っ込み思案な南という女子2人、それから周りの空気を読まず、自分の考えを述べる変わり者の西嶋という男。

なぜ大勢いるクラスメイトの中から、この5人が集まったかと言うと、鳥井を除く4人の名前にはある共通点があるからです。

 僕の頭に閃くものがある。「そういえば、麻雀って確か、四人でやるんだよね。でもって、東西南北に振り分けるんじゃなかったっけ」
「鋭い」
「僕の名字に、北って字が付くとかそういう理由じゃないよね」
「正解! おめでとう」鳥井が両手を広げ、僕を抱きしめてこようとする。ので、よけた。(25~26ページ)


麻雀をやったこともなく、ルールも知らない〈僕〉ですが、いつしかみんなと打ち解けていき、やがてかけがえのない友情を育んでいくこととなります。

この5人の中でくり広げられる恋愛模様があります。南はどうやら鳥井のことが好きらしいのですが、鳥井は全然気が付かず、女の子を求めて合コンばかりをくり返しています。

その美貌で男から言い寄られることの多い東堂は、よりにもよって変人とも言うべき西嶋のことが好きらしいんですね。西嶋は姿も言動も女子にもてない、いわゆるダサいやつの典型のような男ですから、当然東堂の気持ちに気がつきません。

物語はこうした5人の絆、恋愛模様を描き出していきながら、「春」「夏」「秋」「冬」とそれぞれの季節を描いていきます。季節ごとにある大きな出来事が起こります。

「春」では、合コンでちゃらちゃら遊んでいる鳥井が目をつけられてピンチに陥り、「夏」では、空き巣のグループと遭遇してしまい、「秋」では、超能力者と超能力否定派の社会文化人類学者の争いに巻き込まれ、「冬」では、「プレジデントマン」という通り魔と遭遇してしまいます。

物語の途中で、辛い出来事が起こります。その出来事によって、ある人物の心が「砂漠」のようになってしまうんですね。

みんながどうしたらいいか頭を抱える中、諦めない男が1人います。そう、西嶋です。西嶋は砂漠に雪を降らせることが、奇跡を起こすことができるのか!?

とまあそんなお話です。伊坂幸太郎の小説では、様々な視点で物語が断片的に進んでいき、最後にまとまるという手法がよくとられます。

しかし、『砂漠』は〈僕〉という1つの視点で進んでいく物語です。物語の筋が複雑に絡み合い、驚きのラストを迎えるという、いつもの感じはないものの、物語世界には入り込みやすく、個人的にはこちらのスタイルの方が好みということもあって、とても面白く読みました。

ぼくのこの小説への感想というのは、物語のラスト近くで莞爾という人物のセリフとほぼ重なります。

莞爾は同じ大学のクラスメイトですが、どちらかと言えば、ちょっと嫌なやつとして登場します。そんな莞爾が〈僕〉たちグループに対してどんなことを言ったのか、ぜひ注目してみてください。535ページの場面です。

『砂漠』は、楽しい学生生活を過ごした人も、また楽しくない学生生活を過ごした人も、学生生活に憧れを抱く人も、学生生活に失望した人も、すべての人が楽しめると同時に、深く考えさせられる物語です。

何故なら、青春が描かれると同時に、ささやかな奇跡が描かれる物語だからです。人生には色んなことが起こります。辛いことも苦しいこともあります。

でも、その時に諦めるのではなく、逃げるのでもなく、強く願えば、砂漠にだって雪を降らせられるんじゃないかと、素直にそう思わせてくれる小説です。

学生生活を描いた青春小説の1つの傑作なのではないかと思います。機会があればぜひ読んでみてください。ユーモラスかつシリアスな、おすすめの1冊です。

おすすめの関連作品


リンクとして、マンガを1タイトル、映画を1本紹介します。今回はギャンブルに関連したものを選んでみました。

まずは麻雀が出てくるマンガと言えば、原作さいふうめい、作画星野泰視の『哲也』が面白いですよ。

哲也―雀聖と呼ばれた男 (1) (少年マガジンコミックス)/講談社

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阿佐田哲也という作家に『麻雀放浪記』(全4巻、角川文庫)という小説があります。

『麻雀放浪記』も面白いですが、やはり麻雀を知らないと、話の流れは分かるものの、ちょっと楽しみきれない部分があります。ぼくもそうでした。

今回おすすめする『哲也』は、この『麻雀放浪記』をベースにして、かなり大胆にアレンジを加えたものです。設定やキャラクター、ストーリー展開は『麻雀放浪記』とは、まったく別のものになっています。

『哲也』の魅力は何と言っても、読者層の低い少年マガジンで連載されていたこともあって、基本的には麻雀を知らない読者でも楽しめる作りになっていることです。

どんな風に麻雀を描いているかというと、技術や細かい点数よりも「ツキ」を重要視して描いているんですね。つまり、場の空気の流れが重要なものとして描かれているんです。

敵キャラクターの個性もはっきりしていますし、純粋なバトルものとして楽しめる物語になっていると思います。

では、続いては映画を。馴染みのあるなしで言うなら、日本における麻雀は、アメリカで言うとポーカーにあたるのではないかと思うんですね。どちらも腹の探り合い、技術、そして「ツキ」が重要なものとなります。

ポーカーを描いた傑作映画と言えば、ぼくにとっては、やはり『ラウンダーズ』なんですよ。

ラウンダーズ [DVD]/松竹

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マット・デイモン演じるポーカーの天才の青年が主人公です。ある時、巨大な敵との大きな勝負に負けてしまい、ポーカーの世界から足を洗うんですね。

ポーカーで天下を取ることを、心のどこかでまだ望みながらも、慌ただしい日常に追われていきます。ところがある時、エドワード・ノートン演じる友達に引き込まれる形で、再びポーカーの世界に足を踏み入れることとなり・・・。

この映画の面白さは、やはり「再起」ということにあります。一度挫折を味わって、そこからまた這い上がっていくのがなにより面白い所です。こちらも機会があれば、ぜひ観てみてください。

明日は、山本有三『路傍の石』を紹介する予定です。