安部公房『友達・棒になった男』 | 文学どうでしょう

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友達・棒になった男 (新潮文庫)/新潮社

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安部公房『友達・棒になった男』(新潮文庫)を読みました。

『友達・棒になった男』は、安部公房の代表的戯曲が3編収録された戯曲集です。

ぼくはいつも文字媒体で読んでいるだけで、実際に演劇を観るという経験に乏しいんですが、それでも安部公房の戯曲の異質さは分かります。

「棒になった男」では、タイトルの通り、人間が突然棒になってしまう話なんですが、そういったシュールさ、不条理さが光る戯曲なんですね。普通だったらありえない出来事が起こるんです。

そうした異質さ、シュールさというのは、安部公房の小説とも共通するものがあるので、安部公房ファンなら、かなり楽しめる戯曲集だろうと思います。

「足が棒になる」という言葉がありますよね。立ち続けたり、歩き続けたり、足を使い過ぎた時に使う言葉ですが、足の疲れやこわばり、異物感を「まるで棒のようだ」とたとえているわけです。

しかし、足の疲れを「まるで棒のようだ」とたとえることと、足が実際に棒に変化してしまうのとでは大きく違います。しかも「棒になった男」では、足どころではなく、人間がそのまま棒に変わってしまうわけです。

この驚くべき突然の変身に、理由を求めても答えはありません。とにかく変身してしまったものは、変身してしまったものなんです。カフカからの影響が読み取れそうですが、こうした答えのないシュールさが、安部公房のなによりの魅力です。

「足が棒になる」という言葉が、「まるで棒のようだ」という意味合いだったように、棒への変身を「まるで棒のようだ」という、なんらかの寓意が込められたものとして読み解くことも、もちろんできます。

実際に作中でも、「生きていた棒が、死んだ棒になっただけの話じゃないか」(174ページ)というセリフがありますし、棒のように何も考えず、ただ人にこき使われて、傷だらけになっていく人生が、棒にたとえられているのは分かります。

ただ、人間が棒になってしまうというこの驚くべき現象は、どう考えても、理解しきれない部分が残ると思うんですね。寓意として読み解いて納得できるものではなく、驚きが残り続けるものだろうと思います。

現象として理解の範疇を超えているが故に、劇自体も共感を呼ぶものというよりは、むしろその正反対で、観客を不安にさせるようなものになっています。そうした異質感のある戯曲です。

実際にこれが演じられるとなると、一体どんな風になるのか、また観客がどんな感じを受けるのか、非常に興味深いものがあります。機会があれば観てみたいものです。

作品のあらすじ


『友達・棒になった男』には、「友達」「棒になった男」「榎本武揚」の3編が収録されています。それぞれを少しずつ紹介したいと思います。

「友達」

浦沢直樹のマンガ『20世紀少年』には、「ともだち」という独裁者が登場します。

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安部公房のこの戯曲との関連性はほとんどないだろうと思いますが、親しいものを意味する言葉である「友達/ともだち」の語義が奇妙に歪み、元々が明るい言葉なだけに、ぞっとするような恐ろしさが生まれているという点では共通しています。

9人の家族(祖父、父、母、それぞれ3人ずつの息子と娘)が舞台に登場します。長女はこんな風に語ります。

長女 (前の調子に戻って)とにかく行かなければならないの。一人ぼっちの人をさがして、愛と友情をとどけに行かなければならないの。私たちは、孤独をいやす、愛のメッセンジャー。星のしずくのような、都会の窓から、悲しいおののきを嗅ぎ当てて、倖せをとどけに行かなければならないの。(13ページ)


次の場面では、男が自分の部屋の中で恋人に電話をかけています。すると、突然ノックの音がします。電話を切って出てみると、見知らぬ一団がそこにはいました。9人の家族です。

「ごめんなさい、すっかり遅くなってしまって」(16ページ)という次女の言葉を皮切りに、9人の家族はどたばたと部屋の中に入り込みます。男は何が起こったのか分からず、呆気に取られています。見知らぬ人々が突然、自分の部屋に侵入して来たわけですから。

男は怒り、当然出て行くように言います。しかし、9人の家族は落ち着いたものです。

父 (なだめて)君、そんな小さなことを、いちいち気にすることはないんだよ。兄弟は他人の始まりっていうじゃないか。つまり、他人をさかのぼって行けば兄弟になるということでもある。他人でいいんだよ、君。そんなこと、これっぽっちも、気にかけることなんかありはしないんだ。(20ページ)


はたして男は、突然現れた謎の一団を、自分の部屋から追い出すことができるのか?

「棒になった男」

「棒になった男」は、「第一景 鞄」「第二景 時の崖」「第三景 棒になった男」という、それぞれ全く違う3つの場面から構成されています。

「第一景 鞄」では、女とその女友達が、トランクを前にして話し合っています。人間の男がこのトランクを演じるということになっています。

女は夫のものだというこのトランクの「中に、何が入っているのか、知りたいのよ」(114ページ)と女友達に打ち明けて・・・。

「第二景 時の崖」では、試合に臨むボクサーがひたすら喋り続けます。

「第三景 棒になった男」では、一緒にデパートに来た子供の父親が突然、棒になってしまいます。屋上から落ちて来たその棒をめぐり、フーテン(仕事もなくふらふらしている人のこと)の男女と、地獄の男女(死神みたいなもの)が揉めて・・・。

はたして、棒になってしまった男の運命は!?

「榎本武揚」

榎本武揚は、牢屋に入れられています。榎本の仲間の他に、ニセ札作りや、スリ、人殺しなど、犯罪者も一緒にいます。牢屋の中で、化学的な実験をしたりしている榎本。

そこへ、元新選組の浅井十三郎が新入りとしてやって来ます。榎本を裏切り者と思っている浅井は、榎本の命を狙いますが・・・。

とまあそんな3編が収録された戯曲集です。あらすじの紹介だけでは、わかりづらいと思うので、少し解説を加えておきます。

「友達」は、言うまでもなく理不尽な話です。男の側に立てば、これは犯罪以外の何物でもありませんよね。実際に警察官が来て、やり取りが交わされたりもするんですが、この奇妙な状況というのは、実は説明がひどく難しいものなんです。

たとえば、身体的に傷つけるのが目的だとか、何かを盗むためにやって来たというのならまだ分かるんですが、「愛と友情をとどけ」に来た人々を追い出すことはとても困難です。いいことをしようとしている人に対して、迷惑だと表明するのは難しいことなんです。

善意の塊が、不気味なほどの重圧感を持ってくる話なんですが、同時に、「家族というのはそもそもなんだろう?」「友達というのはそもそもなんだろう?」と考えてみると、実はそこにも答えはないんですよね。

タイトルは「友達」で、描かれている出来事も、表面上は愛情に満ちたものなんですが、読んでいてなんだか不思議な不安感に包まれる、そんな作品です。

「棒になった男」は、3つの場面の共通項を探すのは難しいんですが、どれも印象に残る場面ではあります。

基本的にシュールさにオチを求めてもあれなので、「どんな素晴らしいラストが待っているんだろう!」と期待して読むと、やや肩透かしの感じはあるかもしれません。ただ、発想がもうとにかく秀逸ですよね。

「榎本武揚」は、ぶっ飛んだ発想がない分、一番読みやすいですが、榎本武揚に関しての知識がなければ、一番読みにくい作品だろうと思います。

榎本武揚は元々は江戸幕府側の人間です。北海道の五稜郭では、新政府を相手に戦いました。結局は降伏して牢屋に入れられるんですが、この牢屋に入っていた時期のことが、この戯曲で描かれています。

五稜郭の戦いで降伏をしたこと、そしてなによりその後、明治政府で重く用いられたことに関して、歴史的な評価が揺らいでいるんですね。

作中では、犯罪者に新政府について語らせたり、榎本武揚の独特の態度や考え方が、新選組の生き残りの浅井とは対照的に描かれていきます。新たな榎本武揚像を作り出した作品と言えるでしょう。安部公房には、榎本武揚を書いた小説もあるようです。

どれも短い作品ですし、わりと読みやすい戯曲集だと思います。なにより発想が面白いので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、青山七恵『ひとり日和』を紹介する予定です。