福沢諭吉『福翁自伝』 | 文学どうでしょう

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新訂 福翁自伝 (岩波文庫)/福沢 諭吉

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福沢諭吉『新訂 福翁自伝』(岩波文庫)を読みました。

ぼくには悩んだ時に読む大切な本が2冊あって、1冊は夏目漱石の『私の個人主義』で、もう1冊がこの『福翁自伝』です。

悩みというのは人それぞれで違うと思いますけれど、ぼくの場合は、五里霧中で絶望の淵に追いやられるというような、選択肢が見つからないことによる悩みはほとんどありません。

ぼくの悩みの多くは、自分の行きたい道は決まっているにもかかわらず、目の前になんらかの障害があってうまく進めないというものです。

受験、就活、恋愛などなど、人生には様々な出来事が起こりますけれど、自分の望む道へうまく進めずに壁にぶち当たった時、取ることのできる態度は2つしかありません。

諦めて他の道を探すか、それともその壁をぶち壊すまでねばり続けるか。

なにかを諦めるということは、必ずしも悪いことばかりではないと思うんですよ。ある種の臨機応変さはあるわけですから。

ただし、「諦める」というのは、誰かあるいはなにかに拒絶されることではなく、自分で自分の能力に見切りをつけることです。

「自分には向いていなかった」「自分には才能がなかった」そう自分に言い聞かせるのは実はとても簡単です。自分自身も騙せるくらいですから、周りに納得してもらって、慰めをもらうのはもっと簡単です。

ところが、壁にぶち当たった時に福沢諭吉がどうしたかというと、とにかく努力し続けるんです。それがもう尋常な努力の仕方ではないんです。ほんとにすごいですよ。あとでちょっと紹介しますね。

そうした福沢諭吉の姿を見て、ぼくがなにを思うかというと、「ぼく自身は福沢諭吉ほどの努力をしたのか?」ということです。

なにかを諦めることは簡単です。ですが、「不眠不休でそのことだけに一心に打ち込むほどの努力したのか?」と自分自身に問いかけると、多くはそうではなく、諦めというのは実は単なる甘えに過ぎなかったりするわけですね。

根性論でなにもかもうまくいくわけではもちろんありませんけれど、なにかやりたいこと、夢や目標があるならば、とにかく死ぬほど努力することは無駄ではありません。とにかく無我夢中でその壁にぶつかり続けてみること。

『福翁自伝』はそんな風に壁にぶつかっていく勇気をくれる本です。これを読んだら、簡単に諦めの言葉を吐けなくなります。

さて、この辺りから『福翁自伝』の内容の紹介に入っていきます。

最初に言っておきたいのは、『福翁自伝』はとても読みやすい本だということです。福沢諭吉といえばなによりもまず『学問のすゝめ』ですが、あれは文体がなかなかに難しく、読むのは結構大変だろうと思います。

ただ、士農工商の身分がはっきりしていて、生まれた瞬間にどういう人生を送るかほぼ決まってしまうような世の中で、そうした階層を崩すことのできる唯一のものが学問であると述べた本ですから、今読んでも非常にためになります。

注と解説が充実している、講談社学術文庫がおすすめです。機会があればそちらもぜひぜひ。

学問のすゝめ (講談社学術文庫)/福沢 諭吉

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『福翁自伝』は、福沢諭吉が64~65歳の時に自分の半生を振り返り、口述したものが元になっています。つまり文章として書いたものではなく、話した言葉をそのまま文章におこしたものなんですね。

なので、わりとすらすら読むことができます。興味を持った方は、本屋さんで実際に本を手にとってぱらぱらと見てみてください。読めそうだと思ってもらえるはずです。

福沢諭吉という人は、みなさんもご存知の通り一万円札にもなった、日本を代表する知識人です。慶應義塾を作ったことでも有名ですよね。

朝廷につくか幕府につくか、また外国とはどう接していくべきか、日本中が大きく揺れ動く時代に、西洋の思想や文化を日本に取り入れながら、自分の考えを構築していった福沢諭吉。数多くの翻訳や著作を残しました。

そんなえらい人の自伝ですから、さぞかし堅苦しいものだと思いますよね。ところがどっこいです。失敗談や苦労話がたくさんあって、思わずにやにやしてしまうような部分がたくさんあります。

たとえば子供の時のエピソード。稲荷の社の中には何が入っているんだろうと中を覗くと、石が入っていました。そのありがたい石をぽいと捨ててしまって、その辺りに転がっている石を入れておくんです。当然みんなは福沢諭吉が入れておいた石をありがたがるわけですよね。

それでも神罰が当たらないから、なんだあんなものは信じるに足らないと思ってけろりとしているんです。

これは随分ひどいエピソードで、あれですよ、よい子は真似してはいけませんよ。ただ、理由のないものを闇雲に信じないで、とにかく自分で試してみようというこの態度は、流されないという点でいい面もあるかと思います。

やがて、成長した福沢諭吉は大阪に出て、緒方塾に入門します。緒方塾は医者の緒方洪庵が開いた塾で、当時は主流だった蘭学といって、オランダ語とそのオランダ語を通して様々なことを学ぶ塾です。

この塾での生活がとても面白いんです。学生のノリでみんな結構しっちゃかめっちゃかやってるんですが、とてもアットホームな感じの塾です。ただ、みんなものすごく勉強するんですね。

ぼくが心底感服したのは、枕が見つからないというエピソードです。病気をして寝込んだ時に座布団をくくって枕にしていたんですが、普段使っている枕を家の者に探させたら、ないんです。なぜだと思いますか?

これまで倉屋敷に一年ばかり居たが、ついぞ枕をしたことがない、というのは、時は何時でも構わぬ、殆んど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、頻りに書を読んでいる。読書に草臥れ眠くなって来れば、机の上に突っ臥して寝るか、あるいは床の間の床側を枕にして眠るか、ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るんだとということは、ただの一度もしたことがない。その時に初めて自分で気が付いて「なるほど枕はない筈だ、これまで枕をして寝たことがなかったから」と初めて気が付きました。(80ページ)


これぞまさに努力するということだと思います。すごいですよね。これくらい一つのことに熱中できてこそ本物という気がします。

ちなみに大体こんな文章です。読みやすいと思いますが、話したことを文章に起こしただけあって、「初めて気が付きました」など、わりと何度も同じ言葉がくり返されている感じもありますね。

当時はオランダ語で書かれた原書はとても貴重なものですし、未知の知識が記されているわけですから、のどから手が出るほど読みたいものなんです。ある時、大名の本を借りる機会がありました。

英書をオランダ語に翻訳した物理の本で、エレキテルのことが書いてあるというので、緒方塾のみんなはどうしても読んでみたいわけです。

そこで内緒で全部写しちゃうんです。読み上げる者、書き写す者、分担しながら不眠不休でひたすら写し続けます。3日後、素知らぬ顔で返すわけですが、この執念がすごいですよね。

蘭学にある程度自信を持つようになった福沢諭吉は、意気揚々と横浜へ出かけて行きます。ところが、ここで非常にショッキングなことが起こります。なんと、あれだけ勉強したにもかかわらず、看板の文字すら読めないんです。

それはなぜかと言うと、英語で書かれていたからです。日本は鎖国をしていて例外的にオランダと貿易をしていたわけですが、世界はオランダ語ではなく、英語が中心となって動いていると、ようやく知ることとなったわけです。

これが福沢諭吉の前に立ちはだかった大きな壁です。福沢諭吉は悩みます。

その時の蘭学者全体の考えは、私を始めとして皆、数年の間刻苦勉強した蘭学が役に立たないから、丸でこれを捨ててしまって英学に移ろうとすれば、新たに元の通りの苦しみをもう一度しなければならぬ。誠に情ないつらい話である。たとえば五年も三年も水練を勉強して、ようやく泳ぐことが出来るようになったところで、その水練を罷めて今度は木登りを始めようというのと同じことで、以前の勉強が丸で空になると、こう考えたものだから、如何にも決断が六かしい。(103ページ)


この時の福沢諭吉の決断がぼくが一番心打たれる所なんですが、ゼロからもう一度英語を勉強しようと決断するんです。すごいですよ。周りのみんなはもちろんやりたがりません。

たとえば村田蔵六は「無益なことをするな。僕はそんな物は読まぬ。要らざることだ。何もそんな困難な英書を、辛苦して読むがものはないじゃないか。必要な書は皆オランダ人が翻訳するから、その翻訳書を読めばソレで沢山じゃないか」(103ページ)と言います。

村田蔵六はのちの大村益次郎で、司馬遼太郎の『花神』の主人公です。『花神』でも随分くせの強い人物でしたが、こうした歴史上の人物がキャラクターとしてではなく、談話の中で出てくるのも『福翁自伝』の魅力です。勝海舟も出てきますよ。どんな風に書かれているか注目してみてください。

福沢諭吉は英語という、困難な壁に立ち向かっていきます。すると勉強を続ける内に、文法としてはオランダ語と共通している部分が多いことに気が付くわけです。そう、蘭学を勉強したことは、決して無駄ではなかったんですね。

このエピソードは感動して涙が出そうになりますよ、ほんと。人生に無駄なことなんてないんですね。なにごともいい経験なんです。

やがて福沢諭吉はアメリカに行くことになります。花嫁が嫁ぎ先で「人に笑われぬようにしようとして却ってマゴツイテ顔を赤くする苦しさはこんなものであろう」(115ページ)と思うくらい、文化の違いによる失敗をいくつかします。これはぜひ本編にて。

攘夷(外国を日本から追い出そうとする考え)が叫ばれる中、西洋かぶれだと目の敵にされ、福沢諭吉の暗殺計画が立てられます。はたして福沢諭吉の運命はいかに!?

とまあそんな内容です。まあ殺されてたらそもそもこの自伝は語られていないわけですが、福沢諭吉がその時どんな風な心構えでいて、なにが起こったかに注目してみてください。

ぼくも全然上達はしてませんが、語学の勉強がわりと好きなものですから、そうした勉強の部分をピックアップした、偏った紹介の仕方になってしまったかと思います。

歴史的な背景や外国での様々な出来事、子供の教育方法や家族のことなど、もっと色んな要素が詰まった本ですから、興味を持った方はぜひ読んでみてくださいね。単なる自伝ではなく、おもしろおかしく、なおかつ情熱的な感覚でもって心揺さぶられる本です。

またくじけそうになった時に読み返そうと思います。

明日は、菊池寛『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』を紹介する予定です。