¥420
Amazon.co.jp
深沢七郎『楢山節考』(新潮文庫)を読みました。
表題作の「楢山節考」は、一言で言うと、姥捨山(うばすてやま)の話です。姥捨山というのは、みなさんご存知だろうと思いますが、年老いた自分の母親を山に捨てに行く話です。
いくつかバリエーションがあって、ひそかに隠していた老婆が、村人は誰も解けかったとんちを解いたことによって、それ以降、年寄りが大切に敬われるようになったというものもあります。
姥捨山の話を単純化すると、殺人に他なりません。山へ捨てて行くわけですから、そこで生きていけるはずはないんです。そしてそれは、運んで行く側、運ばれる側ともに分かっています。
ただ、殺人に他ならないとはいえ、そこには複雑な事情があります。年老いた老婆を姥捨山に運んで行かなければならないという、村の掟があるのは一体なぜなのか。
母親が憎くて殺そうとする人はいません。そういう感情的な殺人ではないんです。理由は簡単です。食べ物が足りないからですね。
村のような狭い共同体では、食べ物の量はおおよそ決まっています。子供が生まれて、家族が増えていくと、どこかの段階で、難しい選択を迫られることになります。
全員の食べ物が足りなくなって、みんなで飢えて死ぬか、生まれて来た赤ん坊を殺すか、年寄りを殺すかです。もちろん、どれも選びたくない選択肢ですが、どれかを選ぶしかない状況です。
赤ん坊が殺されることもよくあったようですが、赤ん坊を殺していくと、いずれ村は滅びてしまうわけで、消去法的に年寄りを選ぶことになったのでしょう。
「カルネアデスの板」という難題があります。ギリシャの哲学者、カルネアデスが問いかけた問題とされています。
船が難破して、なんとか板にしがみつきました。その板に、もう1人の人間がつかまろうとやってきた時、どうするか。2人でつかまると、板は沈んでしまいます。生きのびるために、つかまろうとやってきた人間を突き飛ばした人を、罪に問えるかどうか。
姥捨山の話は、こうした「緊急避難」の問題に非常に近いものがあります。自ら選びたくて選んでいるものではなく、選ばざるをえない状況に追い込まれているわけですね。そうすると、単なる「殺人」としては語れなくなります。
この辺りから、「楢山節考」の内容に入っていきますが、「楢山節考」がなぜ文学的に高く評価されているかというと、ただ姥捨山の話を焼き直しただけの小説ではないからです。姥捨山の話の小説だと聞いて、みなさんが想像しているものとは少し違うかと思います。
安易なセンチメンタリズムで描かれているのではなく、どちらかと言えば乾いた作風ですし、かと言って昔話の持つ無機質さ、乱雑さで書かれているかと言えば、そうでもありません。老母おりんの心理が丁寧に描写されることによって、姥捨山の話とは、全く違うものになっているんです。
「楢山節考」を読んで感じるのは、農村の厳しい暮らしの辛さでも、年寄りを大切にしようという教訓でもありません。
そうした感情や倫理に訴えかけるものではなく、感想や解説を加えることの不可能な、「圧倒的な事実」が読者の前に現れます。描かれている出来事の前で、読者はただただ立ちすくむしかない、そういう小説なんです。
作品のあらすじ
「楢山節考」
「山と山が連っていて、どこまでも山ばかりである。この信州の山々の間にある村ーー向う村のはずれにおりんの家はあった」(34ページ)という書き出しで始まります。一人息子で45歳の辰平、4人の孫と一緒に暮らしている69歳のおりん。70歳になったら、「楢山まいり」に行くのが村の決まりです。
おりんの頭を悩ませているのは、辰平の奥さんのことです。去年、亡くなってしまったんですが、後妻にふさわしい女性がなかなかいないんですね。山を越えた別の村で、亭主を亡くしたばかりの女性がいるという知らせが来て、おりんは喜びます。
祭りの日に、辰平の嫁になる玉やんがやって来ます。玉やんは辰平と同じ年です。本当は家族に連れられてやって来るはずだったのに、玉やんの村でも祭りがあって、酔いつぶれてしまったらしく、1人で山を越えてやって来ました。
玉やんがとてもいい人なので、おりんは安心します。これで心おきなく「楢山まいり」に行けると思うんですね。いざ行く時に、みんなにふるまうお酒や山で使う筵(むしろ。わらなどで編んだ敷物のこと)の準備はできました。あとの悩みは一つだけ。
おりんは歯が丈夫なんです。年をとってからも一本も抜けませんでした。ところが、「ぎっしり揃っている歯はいかにも食うことには退けをとらないようであり、何んでも食べられるというように思われるので、食料の乏しいこの村では恥ずかしいこと」(41ページ)だったんです。
おりんはどうしたと思いますか? 今から引用しますが、痛い描写が苦手な方は飛ばして読んでください。
おりんは誰も見ていないのを見すますと火打石を握った。口を開いて上下の前歯を火打石でガッガッと叩いた。丈夫な歯を叩いてこわそうとするのだった。ガンガンと脳天に響いて嫌な痛さである。だが我慢してつづけて叩けばいつかは歯が欠けるだろうと思った。欠けるのが楽しみになっていたので、此の頃は叩いた痛さも気持がよいぐらいにさえ思えるのだった。(40ページ)
おりんは、自分で歯を折ろうとするんですね。歯にまつわる話は、これ以上にもっとえげつない場面もあります。自然と老婆になるのではなく、老婆になろうとするおりんの姿は、簡単におろかだと笑うことのできない、壮絶さがあります。
おりんが歯を折ろうとする所は、「楢山節考」で印象的な場面の一つですが、この小説が映画化されるに際して、実際に女優が歯を抜いたというエピソードがあります。それもまた衝撃的な話ですね。
辰平はおりんが「楢山まいり」に行くのをできるだけ長引かしたいと思うんですが、やがて、おりんの孫が結婚し、子どもが授かって・・・。
とまあそんなお話です。山に運ばれていく時の、おりんの心境にぜひ注目してみてください。喜んでいるのか、怒っているのか、悲しんでいるのか。そして、「楢山まいり」が実際にはどういうものなのか。
『楢山節考』には、他に「月のアペニン山」「東京のプリンスたち」「白鳥の死」の3編が収録されています。他の作品にも簡単に触れて終わります。
「月のアペニン山」
下駄箱から靴を取り出した〈私〉。片方の靴の先に髪の毛が一本のっています。それをふっと吹くと髪の毛は飛んで行きますが、その髪の毛は〈私〉に、もっと沢山の髪の毛を連想させます。静江の髪の毛を。〈私〉と静江は夫婦ですが、いつも静江は周りの人間が敵意のある目で自分を見ると言い、その度に何度も引っ越します。ある夜、静江に近づいていった〈私〉は、投げ出すように押しのけられます。どこか様子のおかしい静江。そして・・・。
「東京のプリンスたち」
たばこの煙が立ち込め、ジャズが鳴っている喫茶店。男子高校生たちが集まります。エルヴィス・プレスリーに憧れてリーゼント・ヘアーにし、女の子とデートをするのが楽しみです。お金はいつもないので、親にせびってなんとかしています。中心となる男子高校生は何人か変わります。こんな場面が印象的でした。デートで映画を観に行ったところです。
その日のデイトは映画へ入ってしまった。映画などテンポがのろくて嫌いだが、テンコが「見たい」と言うので入ったのだった。洋画で、中年男と若い女の情事のツマラナイ映画だった。女を恋するとか、男を恋するとか、面倒臭いことは嫌いだった。30分も見ているとアクビが出てきた。自分のことではないので興味がなかった。それに、(愛するなんて、あんな神経衰弱の様な、熱病のようなことは)と思った。重い、深刻なことは気分が悪くなるので嫌だった。音楽がいいというけどムード・ミュージックで、ナマヌルイ風呂に入っている様な嫌なミュージックだった。(154ページ)
女の子とデートするのは、別に恋愛がしたいからではないんです。なにが目的かは、まあ分かりますよね。クールというとかっこいいですが、みんな、どこか無気力な雰囲気が漂います。恋愛なんて、と馬鹿にした感じです。
かっこよさというのは時代によって変化しますが、ある時代の若者の青春を、群像劇のようなスタイルで描いた作品です。
「白鳥の死」
「正宗白鳥が死んだよ」(172ページ)と〈私〉が知らされるところから始まります。雨の降る日曜日の午後。正宗白鳥というのは、『何処へ』などを書いた小説家です。このブログでも近々取り上げる予定でいますが、ぼくの好きな作家の1人です。
深沢七郎は、正宗白鳥の弟子のような立場というか、「楢山節考」が辛口の評論で有名な正宗白鳥に褒められたんですね。それから交際があったようです。
「とうとう死んだよ、俺、借金を返したような、棒びきになったような気がするよ」(172ページ)と知人に言う〈私〉。それは冷たい言葉のようにも聞こえますが、色々な複雑なものを抱え込んだ言葉でもあります。
病床の正宗白鳥と〈私〉とのやり取りが回想的に描かれていく中で、浮かび上がってくるのは、やや独特な正宗白鳥観です。深沢七郎がどのような目で、正宗白鳥を見ていたのか、そんなところに注目してみてください。
とまあそんな4編が収録された短編集です。「白鳥の死」は随筆のような側面があるので、おいておくとして、「東京のプリンスたち」もそれなりに印象に残る作品ではあります。
石原慎太郎の「太陽の季節」など、やんちゃというか、エネルギッシュな若者の風俗なり青春なりを描いた作品は、時代ごとにあったと思うんですね。
現代の小説は、大人世代と若者世代の断裂やぶつかり合いを描くものは少ないような気がします。ぶつかり合いも一つのコミュニケーションだと思いますが、現代はコミュニケーション不全の、もう少し閉塞したものが描かれます。
世代ではなく、孤立した個が描かれる感じですね。それだけに、憧れとまでは言いませんが、反抗的でも生産性がなくても、パワフルな若者世代を描いた作品には、眩しさを感じることがあります。みなさんはどうでしょうか。
明日は、丸谷才一『たった一人の反乱』を紹介する予定です。