ジャック・ロンドン『白い牙』 | 文学どうでしょう

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白い牙 (光文社古典新訳文庫)/ジャック ロンドン

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ジャック・ロンドン(深町眞理子訳)『白い牙』(光文社古典新訳文庫)を読みました。

文学理論の用語で、「異化」というものがあります。より詳しく知りたい方は、こちらのページも参考にしてみてください。→異化

「異化」というのは、「文学とはなにか?」という問いに対する、1つの解答だろうと思います。こんな風に考えてみてください。文学を文学として成立させているものは一体なんなのかと。

ざっくり大まかに言うとですね、「異化」というのは、〈日常使われている言葉・物〉と〈文学で使われている言葉・物〉の違いに注目した考えです。

〈文学で使われている言葉・物〉は、〈日常使われている言葉・物〉とは違う、独特の印象があるというんですね。

ロシアの文芸評論家、ヴィクトル・シクロフスキーは「手法としての芸術」という論文の中で、ロシアの文豪トルストイの小説からたくさん例を引いています。

たとえば、ただ単に「舞台を観た」と書いて、「舞台」を自明のものとして描いていくと、それは〈日常使われている言葉・物〉ですが、「着飾った女たちが突然現れて朗々と歌い始めた」という風に「舞台」を未知のものとして書いたとします。

するとそれは馴染みのある言葉・出来事のイメージを離れて、非日常的な言葉・出来事になり、そこに「異化」の効果、つまり文学的な効果が生まれるわけです。

少し難しかったかもしれませんね。では、こんな風に考えてみてください。雨が降ってきたところを描写したいとします。「雨が降ってきた」とただ書くと、それは〈日常使われている言葉〉というか、味気ない感じですよね。

古今東西、雨は様々な方法で描写されてきたと思いますが、「雨が降ってきた」ことを単に「雨が降ってきた」と書かないところに、文学を文学として成立させているなにかがあるということなんです。それが「異化」の効果です。

今回紹介するジャック・ロンドンの『白い牙』は、この「異化」を非常に連想させる作品です。つまり、日常にある当たり前の物・出来事とはまったく違うものが描かれた小説なんです。それがとても面白いんですね。

ジャック・ロンドンは以前、『野性の呼び声』を紹介しました。大きなお屋敷で飼われていた犬が、突然、雪の降り積もる過酷な環境で暮らすことになる、そんなお話でしたよね。

『白い牙』は、ちょうどそれの裏返しになった形の物語です。犬の血は多少流れてはいるけれど、荒野で育った1匹の狼、ホワイト・ファングが、人間と暮らすことになるお話です。

率直に言って、物語としては『野性の呼び声』の方が面白いです。甘さが抜けて、強くたくましくなっていくことと、強くたくましいものが、甘くなっていくことを対比すれば、その時点でどちらが物語として面白いかは明白でしょう。

ただ、『白い牙』には、『野性の呼び声』にはない面白味があります。それが、「異化」に近い物語の叙述のされ方です。

第3部は「荒野の神々」というタイトルがつけられています。この「神々」がなにを表しているか分かりますか? いわゆる神様ではありません。この「神々」というのは、人間のことなんです。

野生で育ったホワイト・ファングにとって、人間というのは、自分の想像を超えた存在なんです。自分を打ちのめす棒を持っているし、火を操ることができる、絶対的な存在。

人間社会にはルールがありますよね。たとえば、自分の子供が狼に噛まれたら、その狼は罰するどころではありません。ところがホワイト・ファングにとっては、なにがいいことで、なにが悪いことなのかはよく分からないんです。

そのルールのようなものを、ホワイト・ファングは少しずつ学んでいきます。初めは、ティピー(テント小屋)だけで驚きだったのに、やがては建物を目にすることになり、「神々」にも様々な種類があることも知ります。

いつしかぼくら読者は、人間の論理や倫理ではなく、狼目線の論理や倫理でこの小説を読まされていることに気がつきます。ホワイト・ファングは擬人化されたキャラクターではないんですが、確実にホワイト・ファングと同じ目線の高さで物語を読むことになるはずです。

ぼくら読者にとっては当たり前である、人間社会のルールが、狼の目線でとらえなおされていくこと。そこにこそ、この物語の面白さがあります。

そしてホワイト・ファングというキャラクターがまたいいんですね。まさに「孤高」という呼び名がふさわしい存在です。群れず、媚びず、なにより強いホワイト・ファング。

犬と狼は似ているようで決定的に違います。ホワイト・ファングは同じように人間に飼われているとはいっても、犬の世界からは、はじき出されてしまいます。

犬たちは集団でホワイト・ファングを攻撃します。しかしホワイト・ファングはそれに立ち向かい、やがては、お互いに干渉をしないという独特の地位を築くことになります。馴れ合うわけではないところがまたいいんですよ。

孤高のヒーローと言っても過言ではないホワイト・ファング。ホワイト・ファングはなにを見て、なにを考え、そしてなにを手に入れたのか?

作品のあらすじ


物語は北国の荒野の描写から始まります。静かで、寒く、雪で真っ白な大地。犬ぞりを率いている男たちがいるんですが、おかしなことに気がつきます。犬たちの様子がどこか変で、餌の魚が1匹分足りません。

犬の数を数えると、1匹多かったんです。どうやら、狼が紛れ込んでいたらしいことが分かります。警戒する男たちですが、やがて犬の数が1匹、また1匹と減っていきます。餌、犬と来てやがて・・・。

犬ぞりの近くにいたのは、雌の狼でした。この雌の狼に求婚者の狼が何匹か現れます。激しい戦いを制して、1匹の狼がこの雌の狼と行動を共にすることになります。

この2匹の狼の間に仔狼が何匹か生まれます。しかし、なにしろ食べ物がない過酷な環境なので、次々と死んでしまいます。唯一生き残ったのが、灰色の仔狼。

灰色の仔狼は、母親について狩りを覚え、自然の厳しさに立ち向かいながら、少しずつ成長していきます。やがてこんな風に考えるようになります。

生命の目的とするのは肉であるという事実。生命それ自体が肉なのだ。生き物は生き物を餌食にして生きる。食うものと、食われるものとがいる。となれば、法則はーー「食うか、食われるか」。仔狼はこの法則を明確に系統だてて考えたわけではない。そのための条件を設定したり、そこから道徳的な教訓をひきだしたりしたわけでもない。それどころか、それを法則として考えたことさえない。それについて考えることなどまったくせずに、ただその法則を生きているだけだ。(158ページ、「食うか、食われるか」は原文では太字)


まあ簡単に言えば、「弱肉強食」ということなんですが、そうした厳しい野生の世界の中で、仔狼は必死に生き抜いていきます。やらなければやられます。強敵と会って、傷を負うこともあります。それでも強く、たくましく生きていく仔狼。

ある時、仔狼に大きな転機が訪れます。インディアンが焚き火をしているところに出くわすんですね。そして捕まってしまいます。

仔狼が泣くと母親の狼が助けに来てくれるんですが、その母親の狼を見たインディアンがこう言うんです。「キチー!」(167ページ)と。実は母親の狼は、インディアンの飼い犬から産まれた狼だったんですね。

犬の母親と狼の父親を持つキチーは、一年前に不猟が続いて、食べ物がなかった時に、キャンプから離れて野生の狼と一緒に暮らしていたというわけです。

少しだけ犬の血が混ざっている仔狼は、真っ白な牙をしていることから、ホワイト・ファングと名付けられ、グレイ・ビーヴァーというインディアンに飼われることとなります。

ホワイト・ファングは彼を虐げる犬たちと戦い、「神々」の掟を少しずつ学んでいきます。「神々」に逆らってはいけないけれど、自分の「神」が危険に陥ったらその限りではないことなどなど。

ホワイト・ファングはそり犬として活躍しますが、やがて売られて、飼い主が変わります。今度の飼い主は、ホワイト・ファングに闘犬をやらせるんです。檻の中で他の犬と戦わされるんですね。それを人間たちが賭けの対象にするわけです。

辛く厳しい自然を生き抜き、新しい環境で「神々」の掟を学んできたホワイト・ファング。ある時、ホワイト・ファングにもう一度、大きな転機がやって来て・・・。

とまあそんなお話です。野生に生き、人間と共に生きたホワイト・ファング。そんなホワイト・ファングにどんな転機が訪れるのか、ぜひ注目してみてください。

狼の目線から見ると、人間社会のルールがいかに複雑かが分かります。たとえば、鶏というのは狼にとっては食べ物なわけですよね。ところが、誰かが飼育している鶏というのは、食べてはいけないわけです。

野生のルールと人間のルール。それぞれの環境に応じて、ホワイト・ファングは学んでいきます。この物語のいいところは、失敗や辛く苦しい経験が決して無駄にはなっていないことです。

つまずきは、次の一歩に繋がっていて、しかもつまずきがあったからこそ大きな力で一歩を踏み出せるんですね。

単に動物の物語ということだけではなく、新しい環境に戸惑ったことのある、すべての人におすすめできる小説です。

群れず、媚びず、なにより強い、孤高の存在ホワイト・ファングがとにかくかっこいい、そんな物語です。機会があればぜひ読んでみてください。なかなか読んだことのないタイプの小説だろうと思います。