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オスカー・ワイルド(西村孝次訳)『幸福な王子 ワイルド童話全集』(新潮文庫)を読みました。
「幸福な王子」を読んでいて、ふと思ったことがあります。実はぼくは、子供の頃にいわゆる児童文学というものを全然読まずに育ったんです。本自体はよく読んでいたにもかかわらずです。
大人になってから色々読むようになって、童話や児童文学も面白いと思うようになったんですが、子供の頃になぜそういった作品を読んでいなかったのか、その理由がようやくつかめました。
「幸福な王子」というのは、誰もがなんとなくは知っているお話だろうと思います。あらすじを簡単に書きますね。こんな書き出しで始まります。
町の空高く、高い円柱の上に、幸福な王子の像が立っていました。全身うすい純金の箔がきせてあり、目にはふたつのきらきらしたサファイアが、また大きな赤いルビーが刀の柄に輝いていました。(8ページ)
町の人々の誇りになっている幸福な王子の像。町に一羽の小さなつばめがやって来ます。仲間はみんな遠くへ行ったんですが、葦に恋してしまったので、ひとりだけ残ったんですね。
葦は植物のアシです。「ぼくといっしょに出かけない?」(10ページ)とつばめは言いますが、葦は頭を横に振って断ります。
話もしてくれないし、風とふざけあっている浮気性の葦に嫌気がさして、自分も仲間のあとを追うことに決めたつばめ。
旅立つ前につばめが体を休めたのが、幸福な王子の足のところでした。すると雨が降ってくるんです。飛び去ろうとしたつばめは気づきました。それが雨粒ではなく、幸福な王子の目から流れ落ちた涙の粒だったことに。
「町の醜さとみじめさがすっかり見えてしまう」(12ページ)ので、幸福な王子は泣いているんです。たとえば、遠くの通りで、病気で泣いている男の子の姿が見えてしまうんですね。
ところがその家は貧しくて、子供にはなにもしてあげることができません。
仲間の元に一刻も早く飛んで行きたいつばめに頼み込んで、幸福な王子は、刀の柄のルビーをその貧しい家に運んでもらいます。
町には貧しくて、辛い思いをしている人々が他にもたくさんいます。つばめは王子の頼みを聞いて、幸福な王子の目のサファイアや、体に貼られている金箔を少しずつ困っている人々に届けていって・・・。
とまあそんなお話です。つづきが気になる方は、ぜひ本編を読んでみてください。色んな出版社から出ていますし、オスカー・ワイルドの童話を色々読むなら、この新潮文庫がベストだろうと思います。
この「幸福な王子」は、ある種の自己犠牲の物語として読むことができます。自分の身を削ってでも、他人のためを思う幸福な王子の気高い姿。
キリスト教や仏教など、宗教的なテーマに近いものを内包している物語だと読み解くことも、もちろんできるでしょう。
ここでぼくが童話や児童文学を読まなかった理由の話に繋がります。まさにそここそが、子供時代のぼくが最も嫌悪したところだったと思うんですね。
つまり、「幸福な王子」は当時のぼくにとって、メッセージ色が強すぎたんです。「自分のことばかりではなく、他人のことを思いやろう」なんていうメッセージは、どこかむず痒いというか、朝礼の校長先生のお話みたいに、しごく真っ当で、それだけにかえって窮屈で、退屈で、煙たい感じがします。
「子供っぽい教訓話に興味はないよ」というのが、子供時代のぼくのスタンスだったのだと推測できますが、今ふり返ると、児童文学に関してなんの思い出もないのは、少しさみしい気がします。
大人になった今、「幸福な王子」を読んでの感想ですが、やっぱり、すごくいいですね。うまく言葉にできませんが、心の奥底を揺さぶられるようななにかがあります。みなさんも、ぜひ読んでみてください。
ぼくは思うんですが、「幸福な王子」は、あまり物語構造を読み解かない方がいい作品かもしれません。たとえば幸福な王子にキリストの姿を重ねたり、幸福な王子と町の人々(特に市会議員)を対比関係において、聖と俗の構図を読み取るのもいいんですが、そうすると単なる教訓話になってしまいます。
教訓話になってしまうと、「なにかを学んで、それを活かす」のが教訓話ですから、たとえば自分が幸福な王子の立場になったら、同じようなことができる、ということになります。
でも多分、ぼくらは幸福な王子にはなれないんです。幸福な王子と同じ気持ちになって、同じ行為はできません。できないことが、ある種人間らしさでもあると思います。
読者は自分と幸福な王子を同一化して(あるいは同じ目線に立って)、町の人々の愚かさを笑い、市会議員に腹を立てます。それはぼくもそうです。
ところが、幸福な王子の自己犠牲の精神、そしてその行為が、自分では到底することのできないものだと気がついた時、この物語は単なる乾いた教訓話ではなく、ただひたすら心打たれる物語に変わります。
「自分のことばかりではなく、他人のことを思いやろう」というメッセージなんか実はどうでもよくて、どうでもいいというと少しあれですが、そうした教訓話にとどまらない、言葉にできない感動を与えてくれる作品です。
この文庫には、「幸福な王子」の他に8編収録されています。「ナイチンゲールとばらの花」「わがままな大男」「忠実な友達」「すばらしいロケット」「若い王」「王女の誕生日」「漁師とその魂」「星の子」の8編。
作品のあらすじ
各短編に少しずつだけ触れて終わります。
「ナイチンゲールとばらの花」
この童話は、「幸福な王子」と非常に似ていますが、より強い痛みを伴う作品です。そして「幸福な王子」の隣人愛のような幅広い愛ではなく、誰かに対する愛が描かれているだけに、より強い印象が残ります。ある学生が恋をしているんです。その相手が「赤いばらを持ってきてくださったら踊ってあげましょう」(28ページ)と言うんですが、赤いばらはどこにもありません。
ナイチンゲールが、その学生のために赤いばらを探すことになります。ナイチンゲールは鳥で、学生はナイチンゲールが自分のことを想ってくれていることは、当然知りません。
赤いばらを手に入れる唯一の方法があるんです。ばらの木が言うには、「月明りのなかで音楽からそれを作りだして、あんた自身の胸の血でもって染めなければいけない。棘を胸に押しつけてわたしに歌ってくれなければいけない」(32ページ)と。
つまり、ナイチンゲールはばらの棘を胸に刺して、鳴き続けなければなりません。その血でばらの花びらを赤く染めるというわけです。そして・・・。
「わがままな大男」
大男は、人食い鬼の友達に会いに行って、7年間の間、自宅に帰ってきませんでした。するといつしか大男の庭は子供たちの遊び場になってしまっていたんです。大男はわがままなので、子供たちを追い払います。すると、周りは春がやって来たのに、大男のところだけは冬のまま。
ある時、子供たちがこっそり庭に忍び込んで遊んでいると、春がやってきます。それを見て大男は・・・。
「忠実な友達」
紅雀が川ねずみに忠実な友達の話をします。正直な小男のハンスと、粉屋が出てくる話。冬の間、貧しくて、ハンスは手押し車を売ってしまいます。そうしないと食べていけなかったんですね。すると友達の粉屋は「わしの手押し車をあげるよ」(60ページ)と言ってくれます。
粉屋は、小麦粉の大きな袋を市場まで持っていってくれないかとハンスに頼みます。ハンスは色々やらなければならないことがあるんですが、「なるほど、だがな、手押し車をあげるんだから、ことわるとは案外きみも友達甲斐のない男だと思うがね」(63ページ)と言われたら仕方がありません。
粉屋は次から次へとハンスに頼みごとをして・・・。
「すばらしいロケット」
王子の結婚式。結婚式を彩る予定の花火たちは色んな話をします。そしていよいよ打ち上げられる花火たち。結婚式を華麗に盛り上げます。ところがロケットだけは火がつかないんです。みんなで話していた時に、悲しい想像をして涙で火薬をしめらせてしまったから。ロケットは職人に溝(どぶ)の中に捨てられてしまいます。溝(どぶ)にいたのは蛙。
「新しいお客さまですね、ようこそ!」と蛙は言いました。「とにかく、つまりは泥ほどいいものはありませんからね。雨降りと溝さえありゃあ、わたしはもう言うことはないですよ。今日は、お昼からおしめりがありますかね? そうあってほしいところだが、空は真っ青で雲ひとつない。なんとも残念なことだ!」(88ページ)
花火としては終わってしまっているロケット。それでも自分がいつか人々の注目になるほど立派な爆発をすることを夢見て・・・。
「若い王」
これから王さまになる16歳の少年は、3つの夢を見ます。それぞれ自分の戴冠式に使われる道具が、いかに人々の苦労によって作られたかという夢。王さまは、「さようか、ほんとうに? 余が王の服をつけねば、人民たちは余を王とわからぬか?」(118ページ)と言って、貧しい身なりで城の外へ出かけていきます。すると・・・。
「王女の誕生日」
王女の前で踊って、王女に気に入られた小人。すっかりうれしくなって、白いばらを持って宮殿を訪れます。絵画など、豪華なものが飾られた宮殿を歩いていきます。「王女を見つけることさえできたら、きっと王女は来てくれるだろう! いっしょに美しい森へ来てくれるだろう、そして一日じゅう自分は王女を喜ばすために踊るだろう」(153ページ)と小人はうきうきしながら考えます。
しかし、ある部屋に入った時、今まで見たこともない化け物が現れて・・・。
「漁師とその魂」
漁師は人魚を捕まえます。取引をして逃がしてやります。その取引とは、漁師が呼んだら人魚は水面にやって来て、歌を歌ってくれること。そうするとたくさん魚が獲れるんですね。いつしか漁師は人魚に心奪われます。ところが、人魚はこう言うんです。「あなたは人間の魂をお持ちです。あなたが、ご自分の魂を捨てておしまいになれば、そのときはあなたを愛することもできるのですけれど」(167ページ)と。
漁師は魂を捨てることを決意します。どうやって魂を捨てるのかも面白いので、そこには触れずにふわっと進みますが、漁師と魂は分かれます。
魂は様々な冒険をくり広げます。そして、1年に1回漁師と会って、また一緒になろうと言うんです。1年ごとに、すばらしい知恵を得る方法や、すさまじい富を魂は提示するんですが、漁師は首を横に振って愛に生きると言い続けます。
人魚との愛に生きる漁師。再び1つになりたい魂。そして・・・。
「星の子」
貧しい木こりが、ある子供を拾います。夜空から星が降ってきたので、見に行くと小さな子供が眠っていたんです。木こりはその子を星の子だと思い、育てることにします。星の子は、まわりの子供たちと違って美しい子供だったので、わがままで残酷な子供に育ってしまうんですね。ある時、みすぼらしい身なりの女の人がやってきます。星の子は追っ払うために石をぶつけたりします。ひどいやつですよね。
すると、その女の人が言うには、星の子はその女の人の息子で、10年もの長い間、ずっと行方を探していたんだと。星の子は女の人にひどい言葉を投げつけます。「おまえにキスするくらいなら、蝮か蟇蛙にキスするよ」(241ページ)と。
すると、星の子は、ヒキガエルのような顔で、マムシみたいなうろこが生えてしまうんです。みんなから嫌われてしまい、わがままで残酷な振る舞いをしていたため、誰からも助けてもらえません。
心から反省した星の子は、今度はお母さんを探す長い旅に出ることになります。そして・・・。
という全部で9編が収録されたオスカー・ワイルドの童話全集です。
「幸福な王子」と「ナイチンゲールとばらの花」はやはり突出したものがあります。心揺さぶられる感じです。「王女の誕生日」も似たような要素があります。心臓が重要な役割を果たすのが、オスカー・ワイルドの特徴と言えるでしょう。
より物語的でエンターテイメント性が高く、読んでいて面白いのが、「漁師とその魂」と「星の子」です。「漁師とその魂」の設定はずば抜けた斬新さがありますし、「星の子」の後半の展開は目新しくはなく、むしろベタですが、それだけに素直にいいですね。
「忠実な友達」と「すばらしいロケット」はちょっとひねくれた童話の感じがして、面白いです。「若い王」はラストがかなり印象的でした。
わりとぼくが好きだったのが「わがままな大男」です。オスカー・ワイルドの童話は、はらわたがちぎれるような苦しみ、切なさを描くものが多いのに、「わがままな大男」だけは、ほっこりする話なんです。
ああいうやさしい話が結構好きですね。
オスカー・ワイルドは、長編『ドリアン・グレイの肖像』も面白いんですが、戯曲集の『サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇』がすごく面白いんですよ。
特に「まじめが肝心」という戯曲がいいので、ぜひ読んでみてください。思わず声を出して笑ってしまうような、抱腹絶倒の喜劇です。抱腹絶倒なんて言葉、滅多に使いませんよ。それくらいおすすめの作品です。