『アフター・モダニティ』・その4 | くらえもんの気ままに独り言

くらえもんの気ままに独り言

政治、経済、ドラえもん、吹奏楽、書評、メタボ対策などなど多彩なテーマでお送りしております。

 先週から取り上げております、先崎彰容氏と浜崎洋介氏の共著でございます『アフター・モダニティ』ですが、今回で最終回となります。


 今回は浜崎氏の担当した第Ⅱ部の後半部分、小林秀雄と彼の興した「批評」について書かれております。現代日本の問題を解決するためには近代日本の歩み(中野剛志氏らの言うところの真の物語)を知る必要があります。それでは、さっそく読んでいきましょう。


第9章 「意識」と「自然」―初期小林秀雄の試行


 「アクセルの道」的なものが閉塞(芥川龍之介の死)し、「政治の道」的なもの(プロレタリア文学)が台頭してきた近代日本。もう一つの「ランボーの道」によって西洋近代を超えていこうとしたのが小林秀雄だったわけです。(ただ、ランボーと異なり、小林はもともと非西洋世界の人間であったはずなのですが、それもまた「矛盾」というものか。)


 芥川龍之介が「人生」と「芸術」という二律背反した、いわゆる「逆説」を描いたのに対し、小林秀雄は「逆説」を生きたとも言えます。


 人生(一般の生活みたいな意味)に重点を置くと芸術性が損なわれ、芸術性を重視すると人生が損なわれるわけですが、そのバランスのとれた点は到達不可能な地点であり、その虚無感が小林を苦しめます。


 そこで、小林はその均衡点を目指そうとするのではなく、西洋近代の枠を飛び越え、「自然」に回帰しようとしたようです。しかし、ランボーのように西洋を出ることも不可能(と言うか既に出ているので)、志賀直哉のような前近代の地点へ戻ることも不可能であった小林が選んだ「自然」とは。


 そう。答えは前近代にも超近代にもない。復古でもなく革命でもない。「近代」を生きるということのなかに意識を超える「自然」を見出すこととしたとのこと。


 これを現代に当てはめるとどうなるか。「戦後」を超克するには、「戦前回帰」でも「革命」でもなく、「戦後」なるものによってでしか成すことができないということなのかもしれません。


第10章 「批評」が生まれるとき―「様々なる意匠」


 さて、小林秀雄は「自然(無意識)」をいかにして求めていったのか。浜崎氏は小林秀雄の文章から読み解いていきます。


 小林は芸術を対象とすることと芸術を実践すること、このしばしば混同されがちな意識を整理します。しかし、この実践あるいは実感というものがなかなか難しい。理論化しようとしても、すればするほど実感から遠ざかってしまいます。


 自分の存在について考えても考えてもどこかで理屈では説明できなくなってしまいます。そこには根拠など無い、「宿命」とでも呼ぶべきものが残るのみです。


 浜崎氏が分析したところによれば、この作者の「宿命」が読者の「宿命」を揺り動かし、「批評」というものが生まれると。


 文章の底を流れる作者の「宿命」を読み取ることによって、あるいは「宿命」に動かされることによって、自分の「宿命」が動かされることを自覚した時に「批評」が可能になってくるのです。


 この無意識とも呼べる部分が批評であり、他人は自分で自分は他人であると。そして、小林は「「私」を語ることが「他人」を語ることであり、「他人」を語ることが「私」を語ることであるような事態が出来する。」と述べているのです。


 他人と同様の人格は自分の無意識の中にいるし、自分と同様の人格は他人の無意識の中にいる的なことを以前書いたことがありますが、他人と自分の違いなんて線引きが結構難しいものなのかもしれませんね。


 つまり、小林の求めた自然とは今(近代)を生きる人々の「宿命」であり、自分の意識を超えたところにあるものだったのです。


 そして、「批評」のベースには「言葉」と「伝統」があり、「無私」と「模倣」により他人と自分、現在と過去のあいだを綱渡りしていくような行いが「批評」の本質なのでしょう。


第11章 見出された「宿命」―近代日本と伝統


 さて、言葉によって他者への説得を試みようとした小林秀雄ですが、問題が発生します。


 なんと、言葉が通じない!!?


 西欧思想の翻訳語(専門語)はロクに通じない一方、日本的現実に密着した言葉(方言)も失われつつあったのです。


 西洋近代化された外面に対し、日本的なものの内面は残っていたのですが、なんと適応障害を起こしてしまっていたのです。そして、内面を表現するための言葉にも外来の新しい言葉に侵蝕され、「批評」がままならない状況になってしまっていたとのこと。


 この混乱した状況の中、小林秀雄が導いた答えは?


 大恐慌や五・一五事件などの混乱の極みをみせる昭和初期。時代は戦争への道を歩み始めていたその頃、小林はロシア文学(ドストエフスキー文学)に惹かれていきます。そこで見出した答えが「伝統」と「言葉」だったのです。いかに日本の世が混乱しようと自分は日本人なのですから。


 自分と自分を超えるものの関係、それは歴史や伝統との関係とも呼べるのかもしれません。「歴史」を「上手に思い出すこと」が小林の言う「批評」の本質ということなのでしょう。


 近代という名の病は何か他のイデオロギーによって乗り越えられるものではなく、ただ癒えるの「意識的に」待つしかないのです。自分を実感し続ける事によって。なんというか、ほっとけば治るのに余計な治療をしまくって、かえって病状が悪化しているというのが近代から現代にかけて横たわる日本の問題なのかもしれませんね。


 ともかく、近代という名の袋小路から抜け出し、歩き出すためには、自分の意識と無意識(他者・伝統・歴史・言葉)とのつながりを意識し、リアルなものを実感することが肝心だということなのでしょう。


「小林秀雄の“姿”が示しているように、「批評」の極意とは、己の言葉をこの「生活の実状」から離さぬという覚悟以上のものではないのだから。(P216)」


 明治維新により西洋と日本という矛盾が発生してから70年で小林秀雄はこの境地までたどり着きましたが、結局その後、大戦に敗北し、今度は戦後と戦前という矛盾を抱えて日本人は生きていくことになりました。もうじき戦後70年を迎えますが、現代の日本はどうでしょうか?


 言葉は乱れ、伝統を破壊するのがブームとなっている現代。おそらく多くの日本人は日本に横たわっている矛盾を知りません。いや、潜在的には知っているのかもしれませんが、矛盾と向き合うことが恐くて必死になってファンタジーの世界にしがみ続けようとしています。


 このような方たちは生きていると呼べるのか怪しいものなのですが、仮に何も知らないまま生きていければ、それはそれで幸せなのでしょうか?おそらく生きている間は幸せなのかもしれません。が、死ぬ間際になったときに計り知れないほどの恐怖と絶望が彼を襲うのではないでしょうか。


 どのような歴史をこれから日本が歩もうとも、閉塞感を感じずに「生きる」ということを果たすためには、自分の生活と密着した歴史・伝統、他者、あるいは自分の中のアーキタイプ(元型)、ゴジラとのかかわりを意識しながら生きていかなければならないのだと思います。


 というわけで、4回にわたり『アフター・モダニティ』について取り上げてみました。実際に小林秀雄らが書いた文章の引用なども多数載っていますし、先崎氏・浜崎氏の考察もかなり興味深い内容になっておりますので、興味のある方は是非ご一読ください。


『アフター・モダニティ』について気になったという方はクリックお願いします。


人気ブログランキングへ


P.S.

本書はコチラ

アフター・モダニティ―近代日本の思想と批評

先崎彰容・浜崎洋介 著

http://www.amazon.co.jp/dp/4779304318


P.P.S.

リニューアルした進撃の庶民でも引き続き火曜日に『もう一つの進撃の庶民』を連載中です。


http://ameblo.jp/shingekinosyomin/

(他の曜日も漫画「アイドル新党なでしこ」の配信などキラーコンテンツ満載です。応援よろしくお願いします。) 


P,P.P.S.

政治や経済についてよく分からない、もっと知りたいという方は下記のエントリーにまとめを作っていますので是非ご覧ください。

政治経済初心者必見!!

http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11932947967.html


くらえもんが今まで解説した本について知りたいという方は下記のエントリーにまとめを作っていますので是非ご覧ください。

くらえもんの気ままに読書まとめ

http://ameblo.jp/claemonstar/entry-11944673248.html



くらえもんが至高のギャグマンガ「ドラえもん」を独自の視点でおもしろおかしく解説!興味のある方は下記のエントリーにまとめを作っていますので是非ご覧ください。